黒に落ちる
鏡に映る俺は痛ましい。血まみれだ。ねばつく赤い血に、なめらかな白い肌はすっかり失われている。
俺は血を流している。青白い肌にいつも血を流している。膿まない傷は癒えきれない。鮮やかな血は、無意味に流れ続けている。
俺の心は血でできている。俺の傷口はきっと心だ。心自体が俺のぱっくり開いた傷口なのだ。心なんか持っていなければ、こんなに傷ついていなかった。
俺は心を持っている。血を流して笑い続ける傷口を持っている。
心を取り出し、傷口を縫わなければならない。縫えなければ捨てるまでだ。俺は自分の心を知り、傷つけた刃物を知らなくてはならない。でなければ、こうして幾度も血まみれになり、自分の肉体を深く深く探ってしまう。
痛みを感じない。せめて痛みは感じたい。自分が傷ついていると知りたい。俺は自分が傷ついているのかも分かっていない。
俺の右手は、性器をしごいている。手のひらが亀裂の血にぬめってくる。握り直して執拗にこすった。やっと陶器に俺の精液が散華した。俺は荒い息を飲みこみ、精液が垂れるのを見つめた。
血だ。命だ。生臭い。俺は生きている。彫刻じゃない。俺は嗅覚をよじる命を射精できる。
鏡を見た。浮きあがる俺の顔はやはり美しい。青磁のような肌は精液のような色をしている。彼の欲望を反射している。
俺は傷ついている。傷つけた刃物は何か。彼の欲望だ。彼は俺に白濁を浴びせた。俺は彼の欲望に傷つけられた。
彼の欲望を突き動したのは何だろう。
そんなのもの、即答だ。それは、この美しさだ。
俺は美しい。完璧だ。この凄絶な美に、俺は多くを失った。心。生身。命さえ。
俺から俺を削いだのは、このすさまじい美だ。
俺はカミソリで顔を大きく裂いた。頬が切れた。浅かった。亀裂に刃を押しこみ、カミソリを強く動かした。簡単に引き裂けた。濃い桃色の肉が垣間見え、一瞬にして、真っ赤な液体に染められる。俺は再びそこに刃をあてがって深く切った。口の中まで突き破りそうにえぐった。
息ができない。穴を空けなければ、彼の欲望に窒息する。俺はそんなことで死にたくない。俺は彼の愛なんか欲しくない!
闇雲に動かしていると、血に濡れたカミソリを取り落としてしまった。かしゃんとカミソリが床を転がる。腰をかがめるのはもどかしかった。爪で赤い裂けめをえぐった。真っ赤な傷口を指でまさぐってひろげた。血は腕に流れて、肘でぽたぽたとこぼれた。
ここには、よく彼に頬擦りをされた。彼の欲望を塗りたくられた。口づけもされた。頬の裂けめは笑っている。赤い涎を垂らして笑っている。
これは彼の口か。俺を愛していると、彫刻だと、忘れないでとささやいた、あの湿った唇なのか。
だとしたら──
俺は頬をかきむしった。掘り起こした。かき消した。残らずくりぬいき、えぐりとって、引きちぎった。
指先はべとべとになる。俺は心から指を引き抜いた。爪には肉片が詰まっている。指先をそっと鼻に近づけた。
生臭さが立ちのぼっていた。
俺の傷だ。見つけた。俺の心はここにあった。白濁の傷が、犯された美によって解放され、真っ赤に流れ出ている。
鏡を見た。映っているのは、紅につぶれた顔だ。なんて醜いのだろう。
俺は笑った。高く声をもらした。もう彼の欲望に切り刻まれることはない。醜い俺は、彼の対象ではないだろう。
笑っていると、全身の力が抜けてきた。ほっとしたせいだ。目を空けているのに何も見えない。脈打つ耳鳴りもない。撫でさする手は消えて、苦くない舌は垂れ下がる。
ついに俺は、白濁の血から解放された。忌まわしい臭いから解き放たれた。白濁は漆黒に飲みこまれる。弛緩に乗せた微笑みすら消えたとき、俺は、どす黒い自由の海に崩れ落ちた。
FIN
