結ばれた恋
ずっと、自分の中を迷って、誰にも言えず考えて、孤独感で今にも泣きそうだった。
暗い壁に万華鏡の影が映る。でもその影はすぐにうつろい、目印にならない。今自分は、進んだのか、戻ったのか、そんなことも分からない。
光が欲しかった。もう独りは嫌だ。そう思って飛び出した先で、俺は穂村恵波に出逢った。
寮生活の高校生になって半年くらい経った。初めての夏休みが終わって一ヶ月、短い通学路のアスファルトが蒸した匂いを照り返す。カレンダーは十月なのに、日射しは夏と変わらず強い。すぐ着いた朝の騒がしい靴箱と抜け、すっかり慣れた道順で廊下を進む。
ざわめく教室に「はよー」と適当に挨拶しながら、毎朝ばれないよう一瞥する席に、そのすがたを見つける。
クーラーは始業しないとつかない。そのため開けられた窓が吸った髪に、柔らかそうな髪が揺れる。
黒目がちの大きな瞳の色合いは穏やかで、今日も騒々しい周囲に混ざるより、本に目を落としている。睫毛の影が落ちる頬は白く、その頬の線もごつごつしていなくてなめらかだ。背筋がまっすぐだから、開襟シャツから覗く首元で綺麗な鎖骨が見える。
くそ、今日もかわいいな。周りの女子など霞んで見える。それは俺が男に惹かれるからというより、本当に穂村が綺麗だからだと思う。
死ぬほど悩んできた。女の子にスイッチが入らない自分に絶望さえしていた。でも、この高校に進学して、同じクラスになって穂村を見たとき、すべてが引っくり返った。
一目惚れだった。話しかけたら、微笑んで答えてくれるから、余計に舞い上がった。こんな気持ちがばれたら、一気に顰蹙される。分かっていても、つい、声をかけてしまう。
穂村を好きだと思う自分がすごく心地よくて、いつのまにか自分のことも許していた。ああ、別に男が好きでもいい。そのおかげで、穂村のすがたを見るだけで幸せになれる。
席に着いて、穂村の近くの席になりたいなあ、とか今日も思っているうちに予鈴が鳴った。クラスメイトが席に着いていく中、五分後の始業のチャイムで、担任の雪見も教室にやってくる。
二十代半ばの若い男の国語教師だ。教卓に黒い出席簿を置くと、「おはよう」と今日も眼鏡越しにさわやかに咲い、女子連中が嬉しそうにくすくす笑う。
雪見は手早くホームルームを済ますと、生徒たちの表情を見取って、苦笑しながらクーラーを入れてから教室をあとにした。九時からの授業からしかクーラーを許さない教師もいるらしいので、ありがたい奴だ。
窓際に近い穂村をちらりとすると、誰もそこに気を遣わない中、涼風が逃げない配慮か窓を閉めている。そういう、誰も見ていないところでもしっかりしているところも、好きだ。
本当は、毎日話したい。でも、話しかけるペースを作っている。友達というほどでもないのに、無闇に無駄話を吹っかけるわけにはいかない。好かれる努力は押しつけがましくも、疎まれない努力ぐらい、いいだろう。
おとといは一緒に教室を移動した。昨日はしゃべっていない。今日は──教室で話すぐらいなら、いいだろうか。
穂村は席に戻ると、つくえの上に一時間目の用意を始める。
こんなふうに見てるだけ。たまにしゃべるだけ。本当は、あの軆を抱きしめられたらいいのにと思う。処理するときは、やっぱり想像に勝手に穂村を使っている。でも終わると、何かごめん、と情けなく思いながら熱いシャワーを浴びる。
友達ぐらい、無理なのか。それとも、友達なんて逆につらいだろうか。もっと自然にそばにいられるようになりたい。だが、そのためにどうすればいいのかは分からず、俺は息をついて英語の授業の支度をする。
今日話すならいつ話しかけようかなあ、と穂村をちらちらと窺っているうち、昼休みになった。長い休み時間は、別のクラスの友達らしい奴がやってきて、穂村を連れていってしまう。いつもそれに舌打ちしている俺だったが、なぜか今日は穂村はその友達を待たずに席を立ち上がった。
ん、とそれを目で追うと、ちょっと露骨に首を曲げてしまったせいか、穂村がこちらを見た。ぎくっと息をすくめたものの、穂村は俺に優しく微笑んで会釈してから、ひとりで教室を出ていく。
相変わらずの見蕩れる笑顔と所作に、ぽかんとしそうになったものの、慌てて席を立った。
「穂村」
廊下の食堂へと流れる生徒を縫って、階段の手前で穂村に追いついた。俺の声に振り向いた穂村に、やはりいつもの連れはいない。
穂村は立ち止まって、首をかたむけた。
「何?」
「あっ、えと──食堂?」
「そうだよ」
「ひとりなのか」
「うん」
「いつも──友達とだよな」
穂村はくすりと微笑して、俺はそれを見るだけで瞳が濡れて、血管が痺れるのを感じる。
「どうして?」
「え、あ、……いや。何かあったなら、話聞くとか、できるかなって……」
「そっか。ありがとう」
あー、ダメだ俺。今のはずうずうしかった。礼言ってくれてるけど、絶対うざかった。でも、取り消したらもっと失礼だ。どうしよう、と焦っていると、「じゃあ」と少し目線の低い穂村が俺を覗きこんでくる。
「今日、一緒にお昼食べれる?」
え。
目を開いて、突っ立ちそうになった。が、もちろん、急いで首を縦に振る。穂村はそんな俺の様子に噴き出したものの、「じゃあ行こう」と階段を降りはじめた。
マジか。穂村と昼飯。やばい、緊張してきちんと食えるか分からない。
そんなバカみたいな心配をよぎらせつつ、俺は嬉笑をこらえて穂村の隣に並ぶ。穂村は俺を見上げて、「紀田くんとゆっくり話せるの、初めてだね」と言う。
「そ、そう……か? いや、そうだな」
「たまに話しかけてくれるよね。ありがとう」
「いや、そんな……普通だし」
「でも僕、あんまりクラスにうまく溶けこめなくて、本読んでばっかりだから。紀田くんが話してくれるの、嬉しいよ」
やめろ。やめてくれ。俺のほうが嬉しくて笑ってしまう。何とか目だけで穂村を見ると、穂村は柔らかく微笑む。
「心配も、してくれてありがとう」
「……ん、まあ。俺も、穂村とは友達になりたい、し」
うわ言った。何か言ってしまった。
穂村は俺の言葉に咲って、特に何も言わなかった。自分もなりたい、とか、もう友達だ、とか──言ってもらえるわけは、ないか。
そうだよな。贅沢にもがっかりしたものを覚えていると、一階に着いた。食堂への渡り廊下を並行していると、「紀田くん」と穂村の物柔らかな声で彼を見る。
「少し、こっち行っていいかな」
「へっ?」
「話、聞いてくれるんでしょ」
「あ、ああ──え、食いながらでは」
「人に聞かれたくないから」
そうなのか。というか、よく考えたらそうだ。友達と何かあったことを賑わう食堂では話したくないだろう。でも──あんまり聞かれたくない話なのか。
何だろ、と急に不安を覚えつつも、俺は穂村について食堂と体育館のあいだの日陰の道に入った。
「紀田くんは、高等部からの外部だよね」
背を向けて道をゆっくり歩きながら言った穂村に、俺は顔を上げる。
「ああ。穂村もだろ」
「うん。同じ中学出身なの、あの友達だけなんだ」
「俺なんか、ひとりもいないぜ」
「そうなの?」
「県外から来たし」
「そっか。だから、僕のことにも気づいてくれるのかもね。友達もね、僕を心配して様子見に来てたんだよ」
ここは、風がちょっとだけ冷めている。雑草の匂いがたまに立ちのぼった。
「でもね、何か同じクラスに彼女ができたんだって」
道の半ばあたりで、穂村は立ち止まって振り返った。
「さすがに、彼女を置いて僕の相手はできないよね。だから……今日からは、ひとりで頑張れって」
「そう、なのか」
「ごめんね。喧嘩したとかじゃないから、ほんと心配しないでいいんだ」
「い、いや。俺こそ、何か、……ごめん」
「紀田くんは謝らなくていいよ。僕がよっぽど暗い顔してたんだよね」
「そうじゃないっ。ほんとに、……その、俺も、あいつみたいに穂村と昼飯とか食ってみたかっただけだから」
「紀田くん……」
「あいつ、いつも穂村と一緒じゃん。だから──う、うらやましかった、というか」
何。何言ってんだ俺。気持ち悪いぞ、さすがに。
でも、どうすればうまく空気を変えられるのか分からない。何だかうつむいて沈黙になってしまって、頭の中はどんどん焦るのに、何も切り出すことができなくなってしまう。
「紀田くんは──」
ゆっくり、言葉を選ぶように穂村が言う。
「僕と、友達になりたいって思ってくれてるんだね」
「えっ……あ、ああ」
「そっか」
「……あ。その、そんなのうざったいよな。ごめ──」
「僕も、そう思えたらいいんだけど」
肩をびくんとこわばらせ、その切り口に頭が冷たくなるのを感じた。目の前が真っ白でわけが分からなくなって、泣きそうになってくる。
どうしよう。そんな言葉、続く言葉は決まってるじゃないか。聞きたくない。逃げなきゃ。一歩下がりかけた。その前に穂村の手が伸びるほうが早かった。
そのまま引き寄せられて前のめった俺に、穂村がかすかに唇を触れ合わせた。
目をみはった。穂村はすぐ離れて、本当にすぐそばで泣き笑いをした。「ごめんね」と聞こえた。何で謝られるのか分からなかった。なのに、それが言葉にならずに黙りこんでしまう。穂村は顔を伏せて、奥へと歩き出そうとした。
そうなって、やっとぱちんと目が覚めて、今度は俺が穂村の手首をつかむ。振り向いた穂村は、もう涙をたくさんこぼしていた。
「穂村……」
「……き」
「えっ」
「紀田くんが好き」
穂村のなめらかな頬が、涙に引き裂かれながらも赤く染まる。俺は茫然とそれを見つめる。穂村はまた泣き笑いをした。
「ごめん、気持ち悪いよね」
「……あ、」
「気遣ってくれたのに、こんな、……ごめんね。でも僕、」
穂村の細い手首をちょっと乱暴なくらいに引っ張った。すると、穂村はよろけて俺の胸に倒れこむ。
腕から逃げ出す前に、俺は穂村を抱きしめた。何度も抱きしめたいと思った軆を、壊しそうなくらい抱きすくめた。
「き、紀田く──」
「……ほんと?」
「えっ」
「俺の片想いじゃない?」
「片……想い、って」
「穂村のこと、好きでいいのか?」
「えっ」
「好き……だ、俺も。ずっと、春からずっと、穂村のこと好きだった」
腕の中で穂村が動いた。俺は穂村の髪の匂いに顔を伏せて、まだきつく抱きしめる。やがて、恐る恐る、背中に穂村の手にまわる。「紀田くん」と細く呼ばれて、俺は涙をこらえながら穂村を覗きこんだ。穂村はまだぽろぽろと涙を落としながらも、俺を見上げてくる。
「僕と、つきあって、くれますか?」
そんなの、答えは決まっている。
今度は、俺から穂村にキスをした。やり方が分からないから、唇を合わせるまでのキスしかできないけれど。穂村の涙の味がした。まろやかな塩味だった。
そうして、俺は半年間の片想いを、にわかに信じられない幸運で実らせた。ただ見ているだけでも、想っているだけでも、俺を心強くさせてくれていた人が、すぐ隣ではにかんで咲って、じっと瞳を重ねてくれる。
もはや怖いものはない状態だった。ずっと、自分を認めていいのか不安だった。想う人に応えてもらえる期待もできない恋しかできないと思っていた。違うのだ。俺の好きな人は、俺のこと──水澪のことが好きだと甘くささやいてくれる。それ以上、俺に自信をくれるものはない。
もういい。分かってくれない人がいても、もういい。男だけど男が好きでいいではないか。穂村恵波が好きでいいではないか。俺の想いを、恵波は分かってくれる、受け入れてくれる、認めてくれるのだから。
それでもさすがに、いきなりカミングアウトして、関係を公表するには至らなかった。別にしなくていいと思った。恵波はしたいかを尋ねたら、彼もしなくていいと答えた。
「まだ、夢みたいだから。誰かに何か言われて、水澪と一緒にいることを壊してほしくない」
ちくしょう。かわいい。たまらなくそう感じて、俺は人目がないとすぐ恵波を抱きしめる。恵波は少し恥ずかしそうでも、俺にしがみついてくれる。こうして抱きしめると、華奢なりに筋肉もあるのが分かって、それでもやっぱりこの軆が愛おしい。
恵波とふたりきりになるためには、俺の部屋が都合よかった。もちろん、ルームメイトがいる。しかし、このルームメイトが不良だか何だか知らないが、ちょくちょく窓から抜け出し、門限を破るどころか夜に帰宅しないのだ。いいのかなあ、と先生にチクることも検討していたのだが、この際、良しということにしておくほうがいい。
その日もルームメイトが夕食後に出かけてしまったので、俺は恵波を連れこんで過ごした。消燈が二十二時だから、それを機に恵波は「またね」と帰っていく。
部屋にひとりになると、そのうち恵波とエロいこともすんのかな、とか思って勝手に悶々とする。そういうときもこの部屋でいいのだろうか。いや、さすがに場所を探すべきか。だけど、ルームメイトの規則違反はいつも俺がごまかしてやっているのだ。帰らない日とか教えてもらえば、恵波と夜を過ごせるかもしれない。
また顔合わせたらちょっと交渉してみるか、としておき、俺は再び恵波を想って、早くもあのなごやかな体温が恋しくなった。
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