殺意の行方
俺はつくえに突っ伏して泣いた。どうせ、部屋に帰ったら早凪がいて思いっきり泣けない。喉が絞めつけられてひりひりする。恵波の笑顔や、言葉や、仕草がばらばらになって頭に降ってくる。そして足元に落ちて溶けて消えていく。
好きだったのに。本当に、本当に、好きになったのに。つきあえて幸せだったのに。雪見に嫌がらせされて心配したのに。あいつから守ると決めたのに。そんなの、すべて、もはや恵波には望まれていないのだ。
教室はすっかり寒くなっていた。ぼんやり顔を上げたときには、夕暮れが終わりかけて教室は暗くなっていた。腫れぼったい嗚咽が引き攣ってもれる。何時か分からない。時計は暗くて針が見取れない。頭がずきずきして重い。
何かもう、このまま死にたい。ぽつりとそう思ったとき、不意に教室のドアがすべる音がした。
窓を見ていた俺は、ゆっくり物音のほうを見た。影が入ってくる。雪見か? 誰でもいい、さすがに帰れと言われるか。のろのろと立ち上がろうとしたとき、その影が声を発した。
「み、水澪……?」
俺は目を開いた。腫れたまぶたがきしんだ。この声──
「水澪……だよね?」
顔を上げる。目を凝らすと、雪見ほど長身の影ではない。その影が駆け寄ってくる。間近に来られて、やっぱり間違いないのが分かった。
「恵波……」
「あ、……えと、夕食のあとやっぱり話そうと思ったんだけど。来なかったから……」
「………、」
「探してた。部屋も、怖かったけど行ってみた。そしたら、葉鳥くんが帰ってきてないって言ったから」
「……そうか」
「そ、それと、葉鳥くんに言われた。あの録音消したからって」
俺は暗闇に慣れてきた目で恵波を見た。恵波も俺を見つめてきている。泣きそうな目なのか、濡れているのが射しこむ月光で分かる。
「録音、消してもらえるように頑張ってくれたんだね」
何で。何でそんなにおろおろした、でも優しい声で話しかけてくる? 俺のことなんかもういらないくせに。雪見さえいればいいくせに。
「水澪、僕──」
「もう、いい」
「えっ」
「全部雪見に聞いた」
「えっ?」
「……何であんなイカれた奴がいいのか分かんねえけど。それでも、恵波が選んだなら、もういい」
「え、あの……」
「またあいつにかわいがってもらえばいいだろっ」
そう吐いて席を立った俺が、舌打ちしてつくえを蹴ると、恵波はびくっと震えた。そしてとまどった声をもらし、まごついて突っ立つ。俺はその脇をすりぬけていこうとした。すると、腕に大袈裟なほど取りつかれた。
「離せっ──」
「ち、違うよ! 先生が何言ったのか分からないけど、」
「言われてねえよ、全部見た!」
「えっ……」
「撮られてあんなによがって、お前があんな淫乱だなんて、」
「あんなの違うっ。あれは、……違うんだ、ほんとにっ。何か、そ、その、全部見たなら分かるでしょ?」
「ああ、早く入れてほしいって、触ってくれって、泣きながら頼んでたなっ」
「その前にあったでしょ、先生が僕の軆に変なクリーム……ローションかな、塗ってるの」
強引に恵波を振り落とそうとしていた手を止めた。恵波はいつのまにか泣き出していて、俺の腕にぎゅっとしがみつく。鼻をすすりあげる声が響く。
「あれのせいなんだ。あれを塗られるとすごく……おかしいくらい敏感になるんだ。たぶん、何か変な成分が入ってるんだと思う。ほんとだよ。信じて。信じられないかもしれないけど、あんなの僕じゃないんだ。塗られたら、もう、とにかく落ち着くことしか考えられなくなって。嫌なんだけど、頭がもうおかしくて」
そんなシーンは、なかった。だから、恵波の言っていることが本当なのか分からない。分からない、けど……
「……俺より、雪見のことが──」
「そんなわけないよっ。僕は水澪が好き。水澪しか好きじゃない。昨日の夜、たくさん考えて……やっぱり、水澪を失くすのが怖くて。話聞いて、僕も話して、ちゃんと仲直りしようって。ごめんね。絶対、仲直りしたのが分かったら、先生は水澪に見せると思ったから。それが嫌だった。で、でも……」
「……恵波」
「見ちゃった、んだね……。ごめん。やっぱり、もうダメかな。僕は水澪を裏切ったのと同じかな」
「………、」
「そう、だよね。あんなの見たら、嫌いになる……よね」
ふっと、俺をつかむ恵波の腕が緩んだ。恵波は嗚咽混じりに笑って、静まり返った教室には壊れかけた泣き声が響いた。俺はちょっと考えたものの、そっと、恵波の頬に手を伸ばした。指先に熱い涙が伝わっていく。
「恵波……」
恵波が俺を見上げた。月の光でぼんやりと、恵波が微笑むのが見えた。
「もう、いいなら──それでもいい。でも、僕はずっと水澪が好きだよ」
「……あ、」
「水澪とつきあえたこと、咲ってくれたこと、抱いてもらったこと、忘れないから」
もう我慢できなかった。ああ、もうバカなのかもしれないけど。やっぱり、俺はこいつが愛おしい。そう思ったのと同時に、恵波の腕を引き寄せて腕の中にぎゅっと抱きしめていた。
こわばったのが分かった。名前を呼ばれた。でも答えられないほど涙があふれてくる。このまま壊してしまいたいくらいだった。そして俺だけのものにしたい。俺しか触れない存在にしたい。
「水澪……、」
「……ほんとに?」
「えっ」
「ほんとに、あれは恵波じゃないんだな? 雪見に無理やりされたんだよな? 変な媚薬みたいなの盛られただけなんだな?」
「う、うんっ。ごめんね、抵抗するのも怖くて。ほんとに、先生は何するか分からなくて──」
「分かった。分かったよ。恵波を信じる」
「ほ……ほんと?」
「うん。あいつが、ひどいことする奴なのは分かってるから。恵波を信じたい」
恵波も俺にきつくしがみついて、一気に泣き出した。俺はずっと恵波の頭を撫でていた。「怖かったな」とささやくと恵波は何度もうなずいた。
「俺もごめん。ずっとぼうっとしてて」
「いいよ。僕も水澪の恋人なのに、」
「恵波は悪くない。何にも悪くないよ」
「でも」
「俺が悪いんだ。ほんとに、ごめん。約束破ったのもほんとだ。……早凪と行ったところが、ほんとにショックで」
恵波は俺の胸から顔を上げてきて、俺はゆっくり、抑えた声であの夜のことを恵波に語った。
恵波はじっと俺の話を聞いてくれた。俺の声は途中から震えたりどもったりしたけど、それでも何とか恵波に伝えることができた。話が終わる頃には、教室はいっそう闇に染まっていた。
でも、寮に帰ったら別れなくてはならない。誰かに見つかるまで──あるいは一日ぐらい教室に泊まったっていい。俺と恵波は、手を握り合って床に座りこんでいた。
「話に証拠がある、って言ってたのは──」
「部屋にほんとにあるんだ。早凪のつくえの上に……心臓とかが」
「……そう、なんだ。ごめん、そんなひどかったなんて」
「いや、恵波は危ないって止めてくれてた。俺が甘かったんだ」
「部屋にいて、……というか、葉鳥くんといて大丈夫? 夢も見るんでしょ」
「でも、部屋変えてもらえるわけでもないし。何にも理由思いつかないし」
「何か、ないかな」
「………、恵波は、もうあの部屋に来ないほうがいいと思う。たぶん、その牽制もあって俺に秘密を教えたんだし」
「……うん」
俺は恵波の髪を撫でた。恵波が俺を見つめる。俺は顔を近づけ、優しく恵波にキスをする。
「あ……、」
「こういうこと、どこですればいいんだろ。ずっと、抱いてあげてもないよな」
「……僕、もう汚いから。そういうの嫌だったら──」
「そんなことないよ。恵波のこと……欲しいよ」
「水澪……」
「ちゃんと、場所見つけないとな。そしたら、俺がいっぱい恵波の軆にキスしてあげるから」
恵波の瞳が濡れて、俺の手をきゅっとつかむとうなずいた。
「ちゃんと、恵波のことは俺が守る。もう大丈夫だから。雪見にももう近づくな」
「で……も、先生、動画とか持ってる。どうしよう。葉鳥くんみたいに消してくれそうにないし」
「うん──」
俺は恵波を腕の中に抱き寄せる。恵波は俺の胸にしがみつく。長いあいだ、恵波の背中を撫でていた。恵波は俺の肩に頬をすりよせ、「水澪の匂いがする」とつぶやく。俺はちょっと咲って、恵波の匂いも体温も感じた。教室は冷え切っていたけど、身を寄せ合っているから寒くない。
雪見をどうしたらいいのか。はぐらかしたものの、ひとつ頭に浮かんでいる方法はあった。ただ、思った通りうまく行くかは分からない。
恵波が泣きじゃくっているあいだ、俺は雪見への憎しみのあまり思ったのだ。
死ね。死んでしまえ。殺してしまいたい──と。
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