つきまとう影
その翌日だった。朝、またもや俺のつくえに投げこまれていた写真に、すうっと体温が消えるような錯覚を覚えた。恵波が下肢を剥き出しにしたまま、男の脚のあいだに顔を埋めている写真だった。そう、昨夜の俺と恵波の写真だ。
何。何で。あのときフラッシュとかは感じなかった。だが、暗視カメラとかがあるのは知っている。あの部屋は一階だし、窓から覗き見るのは可能だ。
見られて、いたのか。そこまで見ているのか、こいつは。俺と恵波のこと──いや、恵波のことを。
どうしよう。やっぱり、恵波には言ったほうがいいだろうか。でも、こんなの恵波はショックを受けるのではないか。恵波は誰にも自分の性を話していないと言っていた。なのに、こんな得体の知れない盗撮で、自分のことを知られているなんて教えられたら。
第一、こいつは本当に誰なのだ。部活で写真部はあるけれど、そこの部員であったりするのか。暗室とか使える奴ではあるのだ。写メの印刷物ではない。しかし、写真部に乗りこんだところで、これを撮ったのは誰だと恵波の写真を見せるわけにもいかない。
わけの分からない奴が、恵波を見つめているのは確実だ。そう思うと、恵波を守るためにそばにいるのだけど、何だかふたりきりになって触れ合うことを躊躇うようになった。
恵波を撮らせたくないし、見られたくもない。恵波の甘える顔も、感じる顔も、俺だけのものだ。本当は触れて、脱がせて、口づけたいけど、ただ恵波の手を握る。おかしな奴に俺だけの恵波を知られたくない。焦った独占欲で、恵波の笑顔を見ることさえ我慢していた。
帰り道、恵波は心配そうにそんな俺を覗きこむ。寄り道した物陰でそれを見つめ返して、唇が触れ合いそうになるけど、俺は顔を伏せてしまう。恵波は哀しそうにうつむく。
「……キス、したくないの?」
黙って恵波を抱き寄せた。恵波は俺に幼くしがみついて、「何かあったなら言って」とかぼそく言った。
俺は恵波をぎゅっとする。今日は恵波がトイレに入る写真だった。入るところを撮ったということは、そいつは恵波のあとにそのトイレにまで入ったのだろうか。恵波のプライバシーが侵されているのが、それに何も抵抗できないのが、神経をかきむしる。
「……恵波」
「うん?」
「俺のそばから、離れないでほしいんだ」
恵波は少し考えて、俺を見上げて首をかしげた。
「そばに、いていいの?」
「恵波がそばにいないあいだが、すごく不安なんだ」
「水澪──」
「絶対、ひとりになるなよ」
恵波の瞳が当惑している。なぜそんな心配されるのかが分からないみたいだ。やっぱり、言うべきなのか。盗撮されてるから気をつけろ──なんて……
「何……か」
恵波が、目線を迷わせながらつぶやく。
「あった、んでしょ。何か、水澪おかしいよ」
「恵波を守りたいんだ」
俺は恵波の肩に顔を伏せ、もっとその軆を抱きすくめた。恵波は俺の胸に顔をあてがわれて黙っていたものの、しばらくしてから、「大丈夫」と優しく言った。
「僕は、大丈夫だよ。ちゃんと水澪のそばにいる」
恵波の頭を撫でた。恵波は俺の背中に腕をまわす。キスしたかった。でもやっぱり、それを誰かに切り取られるのは嫌だったから、そのまま俺たちは寮に帰って別々の部屋に別れた。
鍵をまわして部屋に入ると、私服になった早凪がつくえで頬杖をついていた。大きな瞳で俺を一瞥すると、「おかえり」と言ってくる。条件反射で「ただいま」と言いながら後ろ手にドアを閉めると、早凪は頬杖を下ろした。
窓からの陽射しに、早凪の茶髪が透ける。
「あのさ」
「ん」
「水澪って、写真撮るの?」
「はっ?」
「落ちてたよ、これ」
早凪は頬杖をついていたつくえの上から、何かを持ち上げた。コルク色の封筒──嘘、と蒼ざめて駆け寄ると、早凪のつくえには数枚の恵波の写真が散らばっていた。
「何、何で勝手に、」
「床にあったら拾うでしょ」
「でも、」
「それよりこいつ、よくここに連れきてる奴だよね」
「そ、そうだけど──」
「これって明らかに盗撮だね。そういう趣味なの?」
「俺が撮ったんじゃないよ」
「じゃ、撮ってもらったの?」
「違うっ。何か、勝手に、毎日俺のつくえに入ってるんだ」
早凪は胡散臭そうに眉をゆがめる。
「何それ?」
「ほんとだよっ。たぶん──学校に恵波のストーカーみたいなのがいるんだと思う」
「何でストーカーが、水澪にこんな写真プレゼントするの」
「知るか。嫌がらせじゃないのか」
「嫌がらせ」
「……嫌がらせだろ」
早凪は広げた写真に目を移して、「相手の顔は分かんないけど」と一枚の写真を取り上げて目を眇めた。その暗い光景の写真が、何の写真か視界に入った瞬間、俺は凍りつきそうな冷や汗に襲われて、ぐらりと座りこみたくなった。
あの日の写真。
恵波が、俺に、口でしている写真。
「写ってるふとんさ、柄が同じだね」
早凪は目だけで俺が使っている下のベッドを見て、ふうっと息をついた。俺はもう耐えられず、荷物を取り落として座りこんでしまった。そんな俺を見下ろして、早凪は鼻で嗤った。
「水澪って、ホモだったんだ」
「っ……」
「こいつとつきあってるから、ストーカーから嫌がらせされてるわけだ」
「………、」
「ふうん──」
顔を上げられない。早凪がどんな軽蔑の表情を浮かべているか、見るのか怖い。伏せた顔を顰め、混乱しすぎて停止する頭を抱えたくなる。
どうしよう。早凪は言い触らすだろうか。ばれてしまうのか、すべて。そうなったら、俺だけではない、恵波まで傷つくことになる。
恵波。さっきまで腕の中にあった体温が、目に見えて蒸発する錯覚に怯える。胸が締めつけられて、わななく息が喉でつっかえる。
恵波に会いたい。恵波を抱きしめないと、意識がふらふらしてまともでいられない。恐怖。不安。羞恥。焦燥。ぐちゃぐちゃに混濁して、泣き出してしまいそうだ。
早凪は何も言わない。俺は荷物をベッドのほうに押しやると、顔を上げないまま立ち上がった。そして、そのまま部屋を出ると恵波の部屋に向かった。
ノックをして、顔を出したのがちょうど恵波だったから、俺はその手をつかんで歩き出した。急な行動に驚いた声に名前を呼ばれても、振り返らない。
すでに外は、夕暮れを終えて暗くなろうとしていた。食堂から夕食の準備の匂いがただよっている。つかつかと闇雲に歩いていて、ふと恵波が俺の手をきつくつかむ。それに突然はっとして、俺は立ち止まって恵波を見た。
恵波の瞳がとまどっているのが、ちょうどかたわらにあった街燈で浮かんでいた。でも、同じように浮かぶ俺の瞳が、きっとよほど泣きそうだったのだろう。恵波は俺に追いつくと、俺の胸に取りついて覗きこんできた。
「やっぱり、何かあったんでしょ?」
「………、」
「僕、ちゃんと聞けるよ」
「恵波……」
「うん」
「恵波、は」
「うん」
「もし、俺とつきあってるのが周りにばれたら──どうする?」
「えっ」
「やっぱり、なかったことにして別れる?」
「な、何、いきなり──」
「俺のことなんか、……別れるよな。だったら、俺たち──」
「どうして。別れないよ」
当然のように言い切った恵波を見た。恵波は背伸びして、俺の頭を優しく撫でる。
「別れたりしない。もしみんなに知られても、僕は水澪のそばにいる」
「恵波……」
「水澪と別れるなんて、嫌だよ。やっとつきあえたのに。絶対、僕なんか気持ち悪いって思って、あきらめてた。だけど、水澪も僕が好きだって言ってくれた。何で、そんな人を簡単に手放すの?」
俺は恵波をじっと見つめていたけど、こらえきれずに涙が伝って、それを紛らすように恵波を抱きしめた。そして、恵波の耳元で、正直に話した。
写真のこと。盗撮されていること。早凪に知られたこと。
恵波は動揺しなかったと言えば嘘になっても、それより俺の不安定を心配して、「大丈夫」と繰り返した。
「それでも、僕は水澪とは別れないよ」
俺はまだ涙をこぼしながら、気丈な恵波と見つめ合う。恵波は俺の瞳に微笑んで、「水澪に嫌われたのかなって思ってた」と小さく言う。「好きだよ」とそれははっきり言うと、恵波はうなずいて「僕も」と俺の口辺に口づける。
「僕たちは何にもおかしくない。両想いだからつきあってるだけだよ。ばれても、それは変わらない」
「……うん」
「盗撮は──気持ち悪いけど。でも、そのせいで僕に触らなくなるなんてやめて。寂しいよ」
「けど、……いつ撮られるのか分からないし」
「水澪がよそよそしいと、すごく怖くなる。僕なんかもういらないのかなって」
「そんなわけないだろ。ただ──恵波は、俺だけのものなんだ」
「水澪……」
「……くそっ。誰だよ。誰なんだよ。誰か分かったら、ぶん殴れるのに。恵波のこと──俺以外の奴が、見てるなんて嫌だ」
恵波は困ったように咲ってから、俺に抱きついた。俺も恵波を抱きしめた。恵波の匂いをこんなにたっぷり吸いこむのは久々な気がする。俺は恵波を覗きこみ、短く、唇だけ触れ合わせた。恵波の瞳に安堵が滲む。
「キス、久しぶり」
「……うん」
「嬉しい」
「ごめん。不安にさせて」
「いいよ。僕も気をつけるね。僕がぼうっとしてるから、写真とかも撮られちゃうんだし」
「犯人分かったら、俺が殴るから」
「………、それで退学になるより、そばにいて」
やっと涙が止まったのに、また息が苦しいほど恵波が愛おしくて、壊しそうに抱きすくめる。恵波も俺の背中を手をまわし、制服のままの俺のジャケットをつかむ。
何がどうなっているのか、どうなっていくのか分からないままだった。だけど、恵波が俺のそばにいてくれるのは確かだ。それさえ揺らがないなら、何も心配はいらないと思った。
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