万華鏡の雫-7

またたく記憶

 目を覚ましたとき、腕の中にあった温もりはなくなっていた。あれ、と目をこすって身を起こそうとすると、影が俺を覗きこんでくる。
 まだ視界がはっきりしない。でも恵波の名前を無意識にこぼしたら、噴き出す嗤い声がして眉を寄せた。
「穂村なら部屋に帰ったよ」
 少し考えてから、早凪の声だと気づいた。俺はまばたきをして朝陽に目を慣らし、ベッドサイドに腰かける影も早凪だと認める。まだヘアピンで前髪を留めていなくて、耳にかけているだけだ。大きな瞳と見合って、俺は息をついて早凪をよけて起き上がった。
「恵波、いつ帰ったんだ?」
「今さっきかな」
 時計をちらりとすると、午前六時をまわったところだ。まあ、早凪がいるなら、帰ってもおかしくはない時刻か。
「『夕べ良かったね』って言ったら、逃げちゃったよ」
「え……」
「気づかないほうがおかしいし」
 俺が目を開くと、早凪は立ち上がってつくえに歩み寄った。そして、その上にあった持つことを禁止されているはずのスマホを手にした。
「最近のスマホのレコーダー、こんなに音拾うんだよ」
 早凪は指を滑らせて操作して、録音した物音を再生させた。息遣い。かすかなきしみ。喘ぐ声。その声は俺の名前をたどる。そしてそれに応える声は、確かに俺の──
「な、何、何でそんなのっ」
「ほんとにホモなんだなあと思って」
「ふざけんな、消せよっ」
「実際聞かされると気持ち悪いもんだね。男と男でさ」
「それ、恵波には、」
「聞かせたから、泣きながら逃げたんだよ」
 俺は舌打ちして立ち上がり、早凪の胸倉をつかんだ。早凪は平然とした笑みのまま、再生を止める。
「俺を殴ったら、されること分かるよね?」
「……っ」
「むしろ俺が殴るほうだよね?」
「……どうして、」
 言い終わる前に、早凪は笑顔のまま俺の頬を引っぱたいた。鼓膜に破裂音がじかに響いた。細腕のくせに予想外に強い力だった。
 俺はぱっと早凪の胸倉を離したが、素早くその手をつかまれて捻じられる。もぎとりそうに手首を変な方向に引っ張られ、思わず振りはらおうと気がそれた。だがその隙に、すかさず早凪はスマホを持ったままの手で俺の腹を殴って床に膝をつかせた。
 何だ。何でこいつ、こんなに要領よく喧嘩みたいなこと──
 スマホをつくえに置いた早凪は、俺の肩を強かに蹴りつけた。やり返さなくては。そう思うけど、そうしたら早凪はあの音源をどうする? 床に倒れ、頭が鈍い音を立てる。早凪はそれを見下ろし、俺をうつぶせにすると背骨を執拗に蹴って踏みつけてきた。
 一瞬、ばちっと目の前の電源が落ちた。またすぐ映った。でもそれは現実ではなかった。
 あの毎日。みんな俺を軽蔑する。嫌悪する。唾棄してくる。殴られても、蹴られても、誰も助けてくれない。教師どころか、とうさんさえ、かあさんさえ。全身が痣、傷、膿にまみれる。それでも俺に差し伸べられる手はない。
 悪いのは俺だから。気持ち悪い。変態。死んじまえ。箒で何度もたたかれる。血を吐くまで腹を蹴られる。スニーカーの靴底で踏み躙られる。地面の臭い。口の中に泥が紛れこむ。やめて、という声は音になる前に泡になって消える。
 殺される。本当に殺されてしまう。逃げなきゃ。遠くへ逃げなきゃ。誰も俺を知らないところへ。
 この中学を卒業したら、俺はこいつらから離れないと──
 突然、髪をつかまれて顔を上げさせられた。そこにはやけに綺麗な顔があって、俺は虚ろにその目を見返した。
「そんなに怖い?」
「……え、」
「それとも、穂村をかばってんの?」
 ホムラ……
「ふうん」
 ほむら……って、
「すぐ消すつもりだったけど、ほんとに放送室ジャックして校内放送しようかなあ」
 ……そう、穂村──穂村恵波。
 恵波!
 はっとモノクロの記憶から現実に戻り、俺は早凪の足首をつかんだ。
「何でもする」
 冷たい下目を見上げる。いつのまにか俺の硬い床にうずくまっていて、あからさまに早凪に哀願した。
「何でも、お前の言うこと聞くから」
「……何でも?」
「ああ。だから、恵波を傷つけることだけはしないでくれ」
「………、」
「恵波をあれ以上、傷つけたくない」
「……じゃあ、」
「俺はお前に何でもするから」
「じゃあ! まず、手を離して。痛い」
 早凪の足首をつかむ手を放す。早凪はふうっと大きく息を吐くと、しゃがみこんで俺を見つめ、首をかたむけた。長い前髪が耳をすべり落ちて頬に流れる。
「今夜、俺につきあってくれる?」
 つきあう──。何に? そう思ったけど、疑問を訴えて早凪の気を変えさせたくない。俺は「分かった」とだけ言った。すると早凪は満足そうににっこりとして、さんざんやったくせに、俺の手をつかんで引っ張り起こした。
 恵波は朝食に来なかったけど、登校のときに寮の前で俺を待っていてくれた。うつむいて、今にも泣きそうな顔を陰らせている。俺の声にはっと顔を上げて、何か言おうとしたものの、周りには人がいるせいか何とかこらえた。
 俺は素早くその耳元で「ちょっと遅刻しよう」とささやいた。恵波は俺を見上げて、頼りなくうなずく。俺たちはとりあえず学校に向かい、気持ちを通じ合わせた食堂と体育館のあいだの細道に来た。さいわい、何の影もないのが確認できた途端、恵波は俺に抱きついて泣き出した。
「葉鳥……くんが、僕たちの、」
「知ってる」
「どうしよう。何。どうなってるの。先生と葉鳥くん、何か関係があるの?」
「恵波は、早凪に何て言われたんだ?」
「気持ち悪い、って……す、すごく冷たい目で、その目がほんとに怖くて、」
 しゃくりあげる恵波を抱きしめて、頭を包むように撫でる。恵波の瞳が落とす雫が、俺の制服を濡らしていく。
「何か、脅されなかったか? 誰かにあれを聞かせるとか」
「それは言われなかったけど。聞かせるって、先生にあの録音あげるの? 先生に言われて──」
「いや、それは何か違うみたいだけど」
「じゃあどうして、」
 俺はちょっと躊躇って、朝のことを恵波に話した。一緒に、詳しいことは伏せていた中学時代も話した。
 中学生の頃、俺はイジメられていた。あんまりしつこく何度も告ってくる女子がいたから、つい言ってしまった。女なんか興味ない。それから血だまりのようにうわさは広がった。クラス、学年、学校、最後にはその町に。両親さえ俺の味方をしなかった。だから俺は、この県外の全寮制の高校に進むのを決めた。誰ひとり、俺が遠くに去ることを止めなかった。
 恵波は俺を見つめて、俺はそんな恵波に力なく微笑んだ。「かっこ悪いだろ」と言うと、恵波は首を横に振って、俺にしがみついた。俺も恵波を抱きしめて、「この高校で恵波に一目惚れして、やっと自分を認められた」と言った。
「恵波のことが好きな自分が、好きだったから。恵波を見てるだけで幸せになれるのが嬉しかった。自殺しなくてよかった、だから恵波に出逢えたんだって思えた」
「水澪……」
「だから、ありがとう。恵波が今つきあってくれてて、ほんとに幸せなんだ。今までを全部許せるぐらい、幸せなんだ」
「僕……そんな、ただ甘えてばっかりだよ。昨日だって、不安だからって抱いてもらおうとして、何か、むしろいやらしいくらいで、」
「そんな恵波もかわいいから好きだよ」
「……水澪、」
「好きだよ。だから、俺にできることはしようって──思って。早凪に『何でもする』って、言った」
「え……」
「何しなきゃいけないか分からないけど、今夜、たぶん早凪と過ごす」
 恵波はぱっと俺の胸から顔を上げた。
「そ、そんなの、ダメだよ。危ないよ。あの人、ほんとに危ないと思う。朝、あの目で思った」
「そうしないと、あの録音を勝手に学校で流されるかもしれないんだ」
「……でも」
「俺は大丈夫だから。とりあえず、逆らわなきゃいいと思う。ただ、よく考えたら恵波を夜にひとりにしちまうんだよな」
「あ、僕は……どっちみち、毎晩泊まるわけにはいかないから。部屋にいるよ。ルームメイトと」
「ルームメイトが怪しいとかないよな」
「それはないと思う。そんな仲いいわけじゃなくても、泊まるときいつもごまかしてくれてるくらいだし」
「そっか。じゃあ、夜は絶対部屋を出るなよ。俺も、何とか早凪の機嫌取ってくる」
 恵波は俺を見つめた。俺も恵波を見つめてから、小さく微笑んで、優しくキスをした。そして、すぐそばの瞳に、「大丈夫」ともう一度ささやく。恵波の瞳はまた濡れてきて、俺の背中にまわした手に力がこもる。
「僕から……離れていったりしないよね?」
「うん」
「何でもするって、僕と別れろとか言われたら──」
「そこには口出しする感じしなかったから。ちゃんと、また恵波のところに帰る」
「約束だよ」
 言いながら、恵波は湿った俺のネクタイに額を当てた。俺は恵波を抱きしめて背中を撫でて、「約束する」と言った。恵波はまた少しだけ泣いた。俺は恵波が落ち着くまで、その体温に体温を流しこんでいた。

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