ナーシャは夜に舞う-12

どうしても好きだから

 居酒屋を出ると、紗鈴ちゃんの足元がふらついていたので、これは少し休ませたほうがいいと思ったのだ。
 紗鈴ちゃんの部屋に送るのが一番だと思っても、まだ最寄り駅すら訊いていない。くらくらしている紗鈴ちゃんの腰に手をまわし、何とか歩行を助ける。
 紗鈴ちゃんは僕の肩に寄りかかり、その状態でも足がもつれて「ごめんなさい」とか、口元を抑えて「すみません」とか言っている。「もしかして吐きそう?」と訊くと、紗鈴ちゃんはうなずいて「頭がすごく痛いです……」とも言った。
 困ったなあ、とタクシーでも拾って僕の部屋に行こうかとも思ったけど、男の部屋なんてびっくりさせるだろうし──いろいろ悩んだ挙句、何もしなきゃいいんだ、なんて浅はかなことを思って、前方に見えてきたラブホテルに紗鈴ちゃんと入った。
 一番シンプルな部屋をパネルで選んで、鍵を手に入れると、紗鈴ちゃんとその部屋に向かった。
 紗鈴ちゃんは、自分がどこに連れていかれているのかもよく分かっていない感じだった。部屋に入ってベッドに座らせると、そのままくたりと横たわって、意識を失うみたいに寝てしまった。
 僕はクーラーをかけ、エロいピンクの照明をオレンジに切り替え、息をついてベッドサイドに腰かけた。背中には、紗鈴ちゃんの寝息が聞こえる。どうしてこうなった、と酔っている頭を振りはらって考えこみ、居酒屋での一連を思い返す。
 そういえば──カシスオレンジとスクリュードライバーを、同時に追加注文したっけ。あれがもしかしてまずかったのか。僕は最初から、ジントニックとか飲んでほろほろと酔っていたから、あのとき僕がカシスオレンジのグラスを取り、紗鈴ちゃんがスクリュードライバーを飲んだのかもしれない。分からないけど。
 紗鈴ちゃんが、低い度数でもここまで酔ってしまったのもありうる。普段から飲む感じはしないし。
 何にせよ、女の子を酒でつぶしてしまった。最低の男だな、と神妙に息をつき、しっかり宿泊でこの部屋を取った自分の卑しさにも、恥ずかしくなる。
 紗鈴ちゃんを振り返ると、無邪気なくらいな寝顔がある。いつもうつむいて暗い表情しているから、寝顔は新鮮で、しかも化粧もしているおかげでめちゃくちゃかわいかった。
 僕は紗鈴ちゃんの髪に触れ、さらさらの感触を指で蕩かす。寝返りでつぶれたらもったいないから、そっと薔薇のコサージュは外しておいた。
 紗鈴ちゃんのまろやかな寝顔を見つめながら、規則正しい寝息をこぼす唇にそっと触れてみる。食事をしたので、ルージュは落ちているけど、それでも綺麗な桃色をしている。
 紗鈴ちゃんって処女なのかな、と取り留めなく考えた。まあ、たぶん処女か。もし僕がここで紗鈴ちゃんを抱いたら、初めての男になれるのだろうか。そんなことを考えると、何だか腰が落ち着かなくなって──
 もう嫌だ、ちょっと勃起したかも。
 これ一発抜いて賢者になったほうがいい、と思ったので、僕は立ち上がってバスルームに行った。服を脱いで、ウィッグも外す。
 身軽なはだかになると、やたら広いバスルームで熱いシャワーを浴びた。化粧もやり直せばいいから落としてしまい、紗鈴ちゃんに気づかれませんように、とひっそりとマスターベーションで一回抜いた。
 床に白濁を出すと、紗鈴ちゃんの寝顔をおかずにした罪悪感が襲ってきた。まあ、紗鈴ちゃんを襲ってしまうよりいいか。全部流してさっぱりすると、洗面台の前でとりあえずボクサーを穿き、バスローブを羽織った。
 脱いだ服を抱えて部屋に戻っても、紗鈴ちゃんは変わらず眠っていた。
 冷蔵庫のミネラルウォーターを飲んで、意識をもっとはっきりさせると、僕はベッドサイドでなく、テレビの前のカウチに腰かけた。テレビを観ようとしたけど、ラブホって平然とAVが流れている。またむらむらしたら意味がない、と思った僕はトートバッグを持ってきて、スマホを取り出した。
 着信をチェックしていき、最終的に泪音のトークルームに落ち着いた。僕の『ばーか』に、泪音の怒りスタンプが返ってきて終わっている。相談しようと思ったのだけど、この状況を文章で説明するのはもどかしい。しかし、通話する声で紗鈴ちゃんを起こすのもまずい。結局、何も送れずにスマホをサイドテーブルに置き、腕を組んで考えた。
 そんなに、むずかしい話じゃない。何もしなければいいのだ。僕はこのカウチで眠ってしまえばいい。朝になって紗鈴ちゃんが目を覚ましたら、平謝りはしなくてはならないけど。
 そうだ。離れていればいい。触れなければいい。
 頭では分かっていても、いつのまにか部屋の中をぐるぐる歩き出し、ベッドサイドに突っ立っていた。
 紗鈴ちゃんは眠っている。さっき、キスしたいな、なんて思ったことがよみがえる。今したら、気づかれないかなあ──なんて、よこしまな思考がよぎる。
 まだ、僕も酔っている。冷静に判断できない。キスして、もし目を覚まされたら、気まずいどころじゃないぞ。僕と紗鈴ちゃんは、キャストと黒服だぞ。そんな抑止で身動ぎを抑えようとしても、気づいたら、ぎし、とかすかにスプリングを軋ませて、シーツに片膝をついてベッドに乗っていた。
 バスローブは羽織っただけだから、胸がはだけている。柔らかな乳房なんてない、平たい男の胸。
 こんな僕の男のすがたを見たら、紗鈴ちゃんはどう反応するだろう。少しは僕を男として見てくれる? 男の格好で口説けばいいんだよ、とは何度も言われてきた。今夜、僕はそれを試してみようか。
 紗鈴ちゃんの髪を撫で、耳にかけた。額に触れ、そこに軽くキスしてみる。紗鈴ちゃんは起きない。僕はシーツに投げられた紗鈴ちゃんの手を優しくつかみ、ゆっくり、身をかがめた。紗鈴ちゃんの寝息が、口元に触れる。そして僕は、そうっと紗鈴ちゃんの唇に唇を重ねた。
 必然的に、紗鈴ちゃんのやすらかな寝息を止めることになり、紗鈴ちゃんが身じろいでうめき声をもらした。でも僕は止まらなくて、紗鈴ちゃんの口をこじあけて、口の中に舌を侵入させる。
 びくん、と紗鈴ちゃんの肩が揺れたのが分かった。それでも紗鈴ちゃんの口の中を溶かすようなキスをして、紗鈴ちゃんが声を出そうとしても、それを許さずに深く口づけた。
 しかし、紗鈴ちゃんがつながった僕の手をぎゅうっと握ったとき、やっと頭が冷めて顔を離した。
 紗鈴ちゃんは涙目になって、僕を見つめていた。その瞳を見て、僕のほうも泣きそうになった。「咲羽さん……」と紗鈴ちゃんがかすれた声で僕を呼ぶ。
 僕は目を伏せると、紗鈴ちゃんの軆を抱きしめた。とまどった震えが腕に伝わってきたけど、それでも離さなかった。
「……咲羽、さ──」
「好きなんだ」
「えっ」
「紗鈴ちゃんのことが好きだ」
「……な、に──」
「ちゃんと、女の子としてだよ。紗鈴ちゃんがずっと好きだったんだ」
「………、」
「だから、同じ店でそばにいたいし、休日は会いたいんだよ。そうじゃなかったら、こんなに構ったりしない」
「……私、」
「僕のこと……男として見るのは無理?」
 紗鈴ちゃんを抱きしめたまま、息も殺した。紗鈴ちゃんの壊れそうな弱い息遣いが耳にかかる。
 しばらく、沈黙が流れた。クーラーの風音だけがやけに響いていた。やがて、紗鈴ちゃんが息を吸い、消え入りそうにささやいた。
「私……は、その、好きな人が、いて」
「瑞砂くん?」
「……はい」
「うん。それは知ってる」
「知ってる、って」
「見てたら分かるよ」
「……だから、咲羽さんのことは」
「………」
「き、気持ちは、嬉しいです」
「……うん」
「だけど、やっぱり、私の中で咲羽さんは──」
「男じゃない?」
「………」
「男だよ。触ってみてよ。胸なんか、ないでしょ」
 僕は上体を起こし、つないでいる紗鈴ちゃんの手を鼓動に重ねる。紗鈴ちゃんの瞳が潤んで、揺れる。
「もし、紗鈴ちゃんが、どうしても瑞砂くんが好きって言うなら」
「……はい」
「僕は代わりでもいいよ」
「えっ」
「瑞砂くんの代わりに、紗鈴ちゃんを抱いてあげるよ」
「そ、そんな……の、」
「いつか瑞砂くんの恋人になれると思う?」
 紗鈴ちゃんは睫毛を震わせ、うつむくと、首を横に振った。「じゃあ」と僕は紗鈴ちゃんの頬を丁寧に手のひらで包む。
「僕が優しくしてあげる。瑞砂くんがしてくれないぶんも」
「咲羽さんが、そんなのつらい──」
「つらくない。紗鈴ちゃんに触りたいんだ。近づけるなら、何でもいい」
「そんな……」
「お願い。僕に紗鈴ちゃんをちょうだい」
 紗鈴ちゃんは泣きそうなまなざしを僕に向ける。僕はそれを見つめかえし、「僕は嫌?」と訊いてみる。
「嫌……では、ないです、けど」
「都合のいい男でいいから」
「………、でも」
「瑞砂くんの代わりになる。そのあいだだけ、瑞砂くんを忘れるくらい、優しくしてあげるよ」
 紗鈴ちゃんは伏し目になって、何も言わなくなった。僕は紗鈴ちゃんの髪を指に絡め、そこにキスしてから、もぐりこむように首筋を舌でなぞった。紗鈴ちゃんのうわずった声がこぼれ、それは処理したばかりの僕の脚のあいだも刺激した。

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