巡る三角形
そんな日からまもなく、九月になった。蝉の声はなくなっても、残暑はまだまだ厳しい。週末、クーラーに包まれた部屋で夕方まで寝つぶした僕は、夜にはやたら目が冴えた。
このあいだ〈ピーチィミルク〉で飲んだとき、〈モイストローズ〉にも遊びにこいと泪音に言われたっけ。そうしようかなあ、と思いながらルームウェアのままカフェオレを飲み、男か女か一考して、テンションを上げたくて女で行くことにした。
花の刺繍があしらわれたオフホワイトのタンクトップ、透け感のあるアイボリーのカーディガン、そして水色のふわふわのロングスカート。化粧はブルー系でまとめる。かわいい服を選んで、綺麗に化粧して、ウィッグもストレートのロングで。そんな自分を姿見で確認すると、実際、気持ちが少し楽になった。
やっぱ女装は僕の生きがいだ、と思いつつ、バッグの中身も確認すると、二十時くらいに部屋を出て電車で街に出た。日中の名残で熱帯夜でも、僕の肌は制汗剤でさらさらしている。
電車の中で泪音にメッセで今日の出演を問うたら、零時をまわった後半に出番があると返ってきた。二十一時、今夜のショウは開幕しているだろうけど、後半なら泪音のステージに間に合うだろう。
そんなに急がず、さざめく喧騒とネオンの色彩が混ざり合う、夜の街の人混みをひらひら歩いていく。そして〈モイストローズ〉や〈ピーチィミルク〉がある、セクマイの人間がたむろする地区に入り、そこでも僕は毅然と歩いた。
通りには男同士はもちろん、女同士の連れ合いもいる。ビアンのおねえさんに声をかけられたらややこしいので、僕は白いヒールの足音を速めに響かせる。初秋の夜風に、ロングヘアとカーディガンがなびく。
クラブやバーに混ざって、このあたりはホテルも乱立している。行きずりだけでなく、普段はセクを隠してこの街だけで会うようにしているカップルもいるから、そういうふたりも利用する。
行きずりはだいぶやってないなあ、なんて考える。紗鈴ちゃんとの行為が久しぶりのセックスだった。紗鈴ちゃんは僕と寝たこと後悔してるのかな、なんて思ってへこんでいると、通りかかったホテルの前で、抱きあってキスをしている男同士のカップルがいた。ホテル入ってからやれよ、とちらりと彼らを見た。
見て、しまって──思わず声を出して立ち止まりそうになった。
長身。茶髪。よく知っている綺麗な顔立ち。ただし、いつもはかったるそうな無表情なのに、今、その顔は──
ぱっと目をそらし、気づかれる前に通り過ぎた。
え、何? どういうこと?
ふくれあがる疑問に心臓が急激に暴れはじめる。息遣いがわななく。嘘でしょ。いや、でも、見間違いではなかった。男とキスをしていた。情熱的なくらいの口づけだった。
瑞砂くんが、男とキスを交わしていた。
無理やりされている、様子はなかった。というか、あれは明らかに今からホテルに入るところだったぞ。男同士でホテル? ラブホテルでおしゃべりだけのわけがない。瑞砂くんって男ともできるの?
いや、待て。むしろ、ストレートかどうか、わざわざ確かめたこともない。もしかして、瑞砂くんってゲイ? そういえば、男と咲っているところを泪音と見かけたこともある。笑顔なんてよほど親しい友達なんだなあ、くらいにしか思わなかったけども、もしかして、そういう仲の相手だったのか。
あれ、あのときとさっき、相手は同じ男だった? 分からない。そこまで凝視できなかった。何なんだよ、とつぶやきそうになる。瑞砂くんが男を選ぶなんて、考えてみたこともなかった。
しかし、確かに、紗鈴ちゃんにずいぶん淡白だなあとは思ってきた。紗鈴ちゃんがミスをすると助けたりしているのに、ああいう女は苦手だとか言って。ゲイだったら、仕事で仕方なくサポートしているだけなのに、女の子に異性と見られて懐かれたら、嫌かもしれない。そもそも、オカマバーでストレートの男が、そんなに長く続くかって話だ。
しばし、舞い踊るネオンを見上げた。
動揺していた心を落ち着けて、まあいい、と思った。そう、まあいいではないか。どのみち瑞砂くんは、今月で〈ナーシャ〉を辞める。そしたら関わることもないだろうし、最後まで気づかないふりをしよう。
よし、とそういう方向に決まると、ちょうど〈モイストローズ〉のビルに到着して、僕は地下への階段を降りた。
週末なので、すでにかなり客が入っていて、僕は後列の席でマタドールを飲みながらぼんやりステージを眺めていた。
泪音が登場したのはトリ前だった。ステージの真ん中にテーブルが置かれて、眼鏡をかけた泪音はスツールに腰かけてノートをめくっている。
そこにもうひとり男が現れ、泪音の向かいに腰かけると一緒にノートを覗きこむ。泪音は男をちらちら見て、テーブルの下で男の脚に脚を絡める。自然と視線が触れ合い、男は泪音の頭を撫でて柔らかく口づける。水音が飛び散って聞こえそうなキス。
でも、泪音が焦れったく男のシャツのボタンをはずそうとすると、その手を止められて、男は泪音を置き去りにしてステージを去ってしまう。
そこから、泪音は軆の奥に灯った熱に悶えるように服を一枚ずつ剥ぎ取り、おぼつかない足取りでステージを歩く。みずからの軆に手を這わせ、切ない表情でボクサーの脚のあいだに意味深な手つきで触れる。
欲しい。あの人が欲しい。台詞なんてないけれど、そんな声が聞こえるようだ。
愛おしさでどんどん頭がふれていくように蹌踉として、がくんと客席との仕切りである手すりにもたれかかって、空に向かって手を伸ばす。それでも、愛おしい人は再び現れることはなく、泪音は膝をついて床にくずおれる。悲恋のステージだったようだ。
それでステージが暗転して、次に明るくなると相手役だった男も現れていて、泪音は会釈をする。それから、チップ回収だ。泪音は最後に僕の席に来ると、「男バージョンで来てよお」と僕のマタドールをひと口すすり、「女装したかったんだよ」と僕はチップがいっぱいはさまれた泪音のボクサーにチップチケットをねじこむ。
「このあと飲める?」
「あー、ごめん。明日、人気ダンサーはここじゃなくて遠征してショウやるの。その打ち合わせとかあるから」
「そっか。じゃあ、そのうち」
「何かあった?」
「……いろいろとショッキングなことが」
「えー、気になるー。来週聞く」
「うん。遠征頑張って」
「ありがとっ」
泪音は僕の頬に軽くキスをすると、「あまってるチップあったら欲しいなあ」とか言いながらステージのほうに戻っていった。そんな泪音のボクサーに、チップを追加する客もいて、「ありがとお」と泪音は客にハグしたりしている。
そして泪音が楽屋に下がると、トリに泪音の先輩でもあるタチのおにいさんのステージがあって、その美しい筋肉質な軆に客は歓声を上げていた。ショウが終わり、おにいさんに最後の一枚のチップをねじこんでおくと、午前五時、僕は〈ピーチィミルク〉には寄らずにそのまま始発で帰宅した。
日曜日はコンビニでキウイのチューハイを買ってきて、それをちびちび飲みながらタブレットで電子書籍を読んだ。夜が更けてくると、またコンビニに行って、ナポリタンパスタと夏蜜柑のチューハイを買ってくる。それを食べながら配信をレンタルして、適当な映画を見た。
明日は出勤かあ、と思うと、瑞砂くんのことが気になってしまい、普通にできるかなと案じてしまう。
それでも、キャストの僕がばっくれるわけにもいかない。どうせ今月いっぱいの人だ、と開き直り、月曜日の夕方、昨日チューハイを二本空けたせいか寝坊してしまったので、服や化粧品を持って男の格好で部屋を出た。
十九時半くらいに〈ナーシャ〉に到着すると、低めのジャズとクーラーの店内にいたのは瑞砂くんだけだった。照明はまだ絞られていない。「紗鈴ちゃんは?」と訊いてみると、あの夜の名残もなく淡々とした顔と口調で、「つまみが切れそうなんで、買いに行ってもらいました」と瑞砂くんは返した。
「いつも瑞砂くんが行くのに」
「紗鈴ちゃんに憶えてもらわないといけないので」
「あー、そっか」
僕は適当に答えながら、スタッフ専用のドアからカウンター内に入った。瑞砂くんは相変わらず、やる気なさそうに煙草を吸っている。ほんとにあの夜に見たの瑞砂くんだよなあ、なんて若干自分の見たものを疑いながら、すれちがって衣装部屋に行こうとしたときだった。
「咲羽さん」
「ん?」
首をかしげて振り返ると、瑞砂くんが煙草をつぶして、僕を見つめてきた。
いつもの淡白な眼つきじゃない。「な、何?」なんて思わずうわずって咲うと、「見ましたよね」と瑞砂くんは真剣な目で言った。
「え」
「土曜日、咲羽さん、白いカーディガンでこのへん来てたでしょう」
「……え、と」
「俺のことも見ましたよね?」
あ──……
天井を仰いだ。キスに夢中で、こちらには気づかれていないと思っていた。甘かったか。僕は息をつくと、「見たけど」とぼそりと答える。
「別に、誰かに言おうとかは思ってないよ」
「……そうですか」
「びっくりしたけど。瑞砂くん、ゲイだったんだ。いや、バイ?」
「ゲイです」
「そうなんだ。あの人とつきあってるの?」
「いえ」
「買ったの?」
「違います」
「行きずり?」
「まあ」
「できれば、そういうのやめときなよ? いろいろ危ないからね」
肩をすくめてみせると、僕は奥の衣裳部屋に向かいかけた。その拍子、「待ってください」と瑞砂くんが僕の手首をつかむ。「何?」と僕は眉を寄せて振り返った。
と同時に、瑞砂くんが引っ張った僕の背中をシンクに押し当て、すかさず唇をふさいできた。
ん?
──ん!?
うめいて、もがこうとした。でも、瑞砂くんは僕の腰に腕をまわして、けっこうがっちり抱きしめている。それでも、僕だって男だ。歯を噛みしめて舌が入ってくるのは拒絶し、両手で瑞砂くんの胸を押し退けた。
眉を顰めて無意識に手の甲で唇をぬぐい、「何で、」と言いかけると、瑞砂くんは僕の瞳をまっすぐ見つめてきた。
「好きです」
「……は?」
「俺、咲羽さんが好きですよ」
は?
何を言われているのか、しばし理解できなかった。
好き? 僕が好き? 瑞砂くんが?
「いや……え、何言ってんの」
「俺がここを辞めるほんとの理由、言っていいですか」
「昼の仕事──」
「昼の仕事なんて探すのやめてました。咲羽さんのそばにいたかったから」
「……えっと、」
「でも、咲羽さんは紗鈴ちゃんしか見てないし。あと、たぶん咲羽さんと紗鈴ちゃん、何かありましたよね?」
僕は目をそらし、瑞砂くんの感触が残る唇に無意識に触る。
「でも紗鈴ちゃんは黒服だから、絶対咲羽さんには手は出せない。だから俺はここを辞めることにしたんです。黒服じゃなくなったら、咲羽さんに近づける」
「や、あの……」
「キャストと黒服じゃなくなったら、俺じゃダメですか?」
うつむいた。何を言えばいいのか分からなかった。その沈黙に、ふとかさっと小さな音がした。僕がぱっとそちらを見ると、そこには買い物をしてきたらしい、黒服の紗鈴ちゃんがいた。
あ、やばい。
聞かれた。
「紗鈴ちゃん──」
僕が何か言おうとすると、紗鈴ちゃんは買ってきたものをカウンターのテーブルに投げて、身を返してその場を逃げてしまった。ドアが開いて、ばたんと閉まる音。僕がとっさにそれを追いかけようと足を踏み出すと、瑞砂くんがまた強く僕の腕を引っ張り、背中をぎゅっと抱きしめてくる。
「ちょっ──」
「あいつのこと、好きなんですか?」
僕は唇を噛んだ。抗おうとしても、さすがに本気で力をこめられたら敵わない。僕はうんざりした息をつくと、とどめを刺したくて吐き捨てるように言ってやった。
「こないだ寝たよ」
瑞砂くんの息がすくむ。離して、と言おうとすると、瑞砂くんはいっそう僕をきつく腕に閉じこめた。
「俺とは、無理ですか?」
「……考えたことないから、」
「俺は咲羽さんを抱きたいです」
「あのさ、」
「どんな男も咲羽さんの代わりです」
「っ……、僕、は──」
そのとき、ドアの開く音がした。紗鈴ちゃん、あるいはママかと思った。放して、と言おうとしたとき、「まだやってないかなあ」という客の声がした。
瞬間、さいわい瑞砂くんが僕の軆を放す。僕は守るように自分の肩を抱くと、「すぐ着替えてくる」と瑞砂くんの顔を見ないまま言って衣装部屋に飛びこんだ。
瑞砂くんが「いらっしゃいませ」と対応しているのがぼんやり聞こえる。どきどきしている心臓にやっと気づき、深く息を吐いた。
耳元で響いた瑞砂くんの低い声が、予想以上に艶やかで。軆にも筋肉の弾力があって。いつもあんなにかったるそうなくせに。いやらしい声。いやらしい軆。予想外に、動揺してしまった。
僕が好き。瑞砂くんは、僕のことが好き。でも、僕は君のことなんて、邪魔とさえ思っている──のに、おかしい。
心臓の吐く血に合わせて、頬がぼんやり熱い。瞳が潤んで、唇に伝わった温もりを指先でたどる。
瑞砂くんとは無理か? ──やばい、無理ではないだろうななんてよぎる。
待て。瑞砂くんは、恋敵なんだぞ。僕が好きなのは紗鈴ちゃんだし。
そう、瑞砂くんが僕に告っているのを紗鈴ちゃんにも聞かれてしまった。紗鈴ちゃんにとっては、僕が恋敵になった。どうするんだよ、とその場にしゃがみこんで、目をつぶる。
そのまま、何分か動けなかった。けれど、客が来ているなら早くホールに出ないと。かろうじてそう判断すると、ワインレッドのドレスを着て、化粧をして、いつものカールのロングヘアのウィッグで決めた。姿見で自分を確認し、「よし」とつぶやくとスマホを持って、衣装部屋を出る。
カウンター内には、瑞砂くんだけでなく紗鈴ちゃんも戻っていて、着物のママが接客をしていた。僕は黙って黒服ふたりの背後を抜け、ホールに出るとぱっと笑顔を作った。
「咲羽、遅いじゃないの」とママに言われて、「寝坊しちゃいました」と茶目っ気こめて言っておくと、「仕方ないわねえ」と早々に客が来たので機嫌がいいのか、ママは小言には走らなかった。
僕は客の隣に「お邪魔します」と腰かけ、「一杯いただいてよろしいですか?」とねだる。「どうぞどうぞ」と言われると、僕はコップに自分の水割りを作って、客のグラスとかちんと合わせてひと口飲んだ。
「んー、咲羽ちゃん、何か今日色っぽいね」
水割りを飲みこんでふっとため息をつくと、不意に客がそんなことを言った。僕がどきっとしていると、ママが笑って「何よ、彼氏でもできたの?」と揶揄ってくる。「そんなのいませんよ」と言っても、「どうだかねえ」と客とママは声を合わせる。
カウンターにいるふたりを盗み見た。明らかに空気がぎすぎすしている。
僕は紗鈴ちゃんが好き。紗鈴ちゃんは瑞砂くんが好き。そして瑞砂くんは僕が好き。
何だよ、この三角関係は。何か面倒になってきた、と僕はまたため息をつきそうになったけど、ぐっとこらえて、水割りをあおった。
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