ナーシャは夜に舞う-16

揺らぐ心

 仕事をしていて仕方ない反応はくれるものの、それ以外は、紗鈴ちゃんは僕を無視するようになった。
 無視、というか──すぐに会話を打ち切ってしまうし、頭を撫でたりしようとするとよけられる。うるうると泣きそうな瞳で愚痴ってくれることもなくなった。
 これは嫌われた、と僕に怨みがましく睨まれた瑞砂くんは、煙草を吸いながら、かすかに笑う。実はくっそ性格悪いなこいつ、と僕は歯軋りをするものの、誰も見ていない隙に、瑞砂くんは僕を優しく抱き寄せたり、じっと見つめてきたりする。それに思わずどぎまぎするときもあって、僕は自分の気持ちがよく分からなくなってしまった。
 僕が話をしたかったのを憶えていてくれた泪音が、一週間が過ぎた週末にメッセをくれた。『ピーチで飲みますかー?』と来て、僕は親友の存在に感謝しながら、『おごるから話聞いて。』と返した。すると喜びのスタンプとOKのスタンプが連打され、何時頃に待ち合わせるかというメッセが飛んでくる。そのとき十七時になりそうだったので、十九時に落ち合うことにした。
 男のほうが泪音は喜ぶだろうなあ、と思ったものの、気持ちがしゃきっとしないのでやっぱり女装にした。ソフトピンクのキャミソールワンピに、黒のレースカーディガンを羽織る。足元はキャメルのショートブーツ。化粧はピンクとパールホワイトで仕上げて、姿見の前でくるりとして自分の容姿を確かめる。
 うん、とひとりうなずくと、白デニムのトートバッグの中の荷物を確認して、クーラーや電気を消すと、曇って夕暮れが濁っている空の下に出た。
 今日はそんなに天気が良くなかったおかげで、抜ける風もただよう空気も涼しかった。近々、雨が降るかもしれない。八月は発狂したみたいにずっと天気よかったからなあ、と残暑の中にも秋が始まりかけているのを感じる。
 雨が来てしばらく続いたら、本格的に秋になるだろう。その頃には──瑞砂くんは、〈ナーシャ〉を辞めているのか。でも黒服を解放されてあれこれ言い寄ってくるんじゃないの、と思い、深い吐息がもれてしまった。
〈ピーチィミルク〉では、泪音がすでにグリーンのカクテルを飲みながらくつろいでいた。「あら、咲羽ちゃんいらっしゃい」とマスターが微笑み、カウンターにいた泪音は振り返って「おごりー!」と諸手を挙げる。
 僕はそれを見て、苦笑のような笑顔を作ろうとした。口元は笑えた。でも、目がどうしてもこわばってしまった。ついで、視界が滲みかけてくる。
 やば、と思ったのに。そんな、同情を引くつもりはぜんぜんなかったのに。いつも通りの泪音とマスターに安堵も混ざって、表情が崩れ、そのまま泣きそうな顔になってしまった。
「咲羽?」
 泪音がびっくりした声で僕を呼び、スツールを飛び降りて駆け寄ってくる。「どうしたの」と手を取られ、僕は顔を伏せて「ごめん」と小さく首を横に振る。泪音は指はすらりと細い。
「謝らなくていいけど。え、何、そんなに大変なことがあったの?」
「……いろいろ」
「そう、なの。僕こそ、ごめんね。もっと早く話聞いてあげてれば」
「いいよ、仕事だったんだから。僕も何か飲む」
「ボックス行く?」
「ううん、カウンターでいい」
 僕と泪音はカウンターのスツールに並び、「大丈夫?」とマスターも僕を心配してくれる。僕はうなずき、メニューをざっと見てバレンシアを注文した。「了解」と請け合ったマスターは、アプリコットリキュールを手に取る。
 メロンリキュールの甘い香りがするカクテルをすすった泪音は、「何とかちゃんと何かあったの?」と首をかしげてくる。
「ん、まあ。今、無視されてる状態」
「無視? あの子にそんな根性あるの」
「………、瑞砂くんが、ね」
「イケメン黒服」
「ゲイでした」
「は?」
「あいつ、ゲイだったんだよ。男とキスしてるの見た。ちょうど一週間前」
「一週間前は──〈モイストローズ〉来たとき?」
「そう、来る前に見てさ。それで、ちょっとあのとき泪音と話したかったんだけど」
「見間違いじゃなくて?」
「本人に『見ましたよね』って確認されて、カムされた」
「そんな……」
 泪音はカクテルの水面を見てから、「マジで?」と確認してくる。
「マジだよ」
「僕が色目使っても落ちなかったのに?」
「え、……は? いつ?」
「〈ナーシャ〉行ったとき、連絡先渡したけど何にも返ってこなかったって言ったじゃん」
「あー、聞いた気がする」
「ゲイなら、僕に誘われたらつまみ食いしようと思うよね?」
「何の自信か分からないんだけど」
「はっ、もしかしてネコ?」
「タチじゃないの。抱きたいって言ってたから」
「え、僕を?」
「違う。僕を」
「咲羽を……はあっ? まさかあのイケメン、咲羽に惚れてんの?」
「ご名答」
「くっ、そうか。男の娘属性か。それは──僕じゃダメか。ふむ。やっと腑に落ちた」
 泪音はひとりうなずき、柿の種をぽりぽり噛む。「でね」と僕は話を引き継ぐ。
「瑞砂くんが僕に告ってるところを、紗鈴ちゃんが見たんだよ」
「え、泥沼じゃん」
「泥沼だよ」
「あー、なるほど。それで嫉妬して、咲羽を無視してるわけだね。やだね、女! ほんと女ってそういうの好きだよね」
「瑞砂くんのせいだし。何なの、あいつ。僕が紗鈴ちゃんにスルーされると、にやにやしやがって」
「にやにやするの? キャラ変わってない?」
「変わってるよ。みんな変わったよ。それでここに来たら、泪音もマスターも変わってないから、ほっとして泣きそうになったよ」
「そっかあ。僕は変わってないからね。咲羽におごってもらう気満々だからね」
 泪音が安定なことを言っていると、「はい、どうぞ」とマスターがロックグラスをさしだす。「どうも」と僕はそれを受け取り、ひと口甘い風味を飲みこむ。
 泪音は腕組みをすると、「そういえば、イケメンって男と歩いてたよねえ」とつぶやく。
「僕もそれ思い出した。完全に友達と思ってた」
「あのときの男が恋人だったの?」
「行きずりやってるみたい」
「咲羽に惚れてんのに、貞操観念ないね」
「……何か、男は全部僕の代わり、とか言われた」
 泪音は長い睫毛をしばたかせ、いったん空を見て考えたあと、「えー」と何やらにやりとした。
「それえ、僕ならとりあえずやっちゃうー」
「泪音はね? 泪音はそういう貞操観念だからね?」
「いいじゃん、男のほうが楽しいよお? 何とかちゃんなんて、嫉妬で無視するような小さいタマなんだよ」
「紗鈴ちゃんにタマはついてない」
「男にしときなよー。タマもちんこもついてるんだよー」
「僕、瑞砂くんのことずっと嫌いだったし。今回だって、瑞砂くんが出てこなかったら──」
 そこまで言いかけ、僕はうつむく。いや、瑞砂くんが出る前から、紗鈴ちゃんは僕に気まずそうだったっけ。瑞砂くんのことは、紗鈴ちゃんにとっては、僕を無視するいい切っかけだったのだろうか。
 僕はがくんと首を折って息をつくと、「何かさ」と正直に吐くことにした。
「どきどき……する、ときもある」
「どきどき」
「瑞砂くん、ほんと……僕を抱きしめたり見つめたりするから。そんなふうにされてると、意識しちゃうというか」
「いいじゃん、いいじゃん。イケメンはちゃんと恋愛してるねえ」
「ちゃんと恋愛」
「咲羽は、ぜんぜん何とかちゃんにそういうアピールしなかったでしょ」
「したら怖がられるかなって」
「咲羽、イケメンに言い寄られて怖い? 迷惑? 違うよね、どきどきしてるよね」
「う……」
「それが恋愛の攻めだよ」
 僕は唸ってテーブルに伏せり、「だってさあ」と泣き言を言いはじめる。
「僕、恋愛が下手なんだもん」
「そうなの?」
「いつも、好きな人をぼやぼやしてるうちに、ほかの奴に取られてきたし」
「今回は、イケメンと何とかちゃんがどうなることはなさそうだけど」
「好きな人に『好き』って言えないんだよ。それを言ったら壊れるような恋愛ばっかしてきた。紗鈴ちゃんに告ったのは、僕の中ではすごく頑張ったんだ」
「頑張りつづけなきゃいけないんだよ」
「泪音は頑張りつづけられるの?」
「それができないんで、僕はファイト一発が多い。恋人欲しいとは思ってるよ、でも、何か……もうめんどいよね」
「めんどい」
「束縛されるのも、同棲したりすんのも、なーんか僕はめんどい。そうしてまで、つきあいたい人との出逢いもないし。だから、一発でおしまい」
「泪音も恋愛が下手なんだね」
「恋愛が苦手なんだよ」
 泪音はメロンのカクテルを飲み干し、今度はさっぱりした味がよかったのかジンリッキーをマスターに注文する。
「てか、もういいんじゃないの。意識してるなら、イケメンとつきあえばいいじゃん」
「紗鈴ちゃんはどうなるの」
「自分を黙殺する女のことなど、黙殺しなさい」
「あの子をひとりにできないよ」
「自分から孤立してるんだから、そっとしておきなさい」
「ええー……瑞砂くんとつきあうとか、イメージ湧かないよ。あの人とセックスすんの?」
「うまそうじゃん」
「そうかな……」
「僕は抱かれてみたいけどなあ。おいしくしゃぶってあげるしい」
「泪音が誘惑して、そっち向いてくれたりしないかな」
「スルーされたんだってば。んふふ、きっと咲羽の友達とはやりたくなかったんだね」
 泪音は柿の種を口に投げる。瑞砂くん。そりゃかっこいいけども。やはり、紗鈴ちゃんが引っかかってしまう。
 もし僕と瑞砂くんがつきあいはじめたら、あの子はどうなる? 好きだと言ってきた僕に裏切られ、好きだと思ってきた瑞砂くんに振られ──
 紗鈴ちゃんと寝た夜、話してくれた彼女の過去がよぎった。彼女がいる相手。性欲処理。担任の先生。僕にはあの夜はけして処理なんかじゃなかったのに、紗鈴ちゃんの中で、あの夜が処理になるのはつらい。
「僕は紗鈴ちゃんが好きなんだよお……。瑞砂くんとつきあったら、紗鈴ちゃんが絶望的になるじゃん」
 駄々をこねるように僕がつぶやくと、「執念深いなあ」なんて言って、泪音はマスターから透明のカクテルを受け取る。

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