明け方のラーメン屋
九月の下旬にさしかかった日、紗鈴ちゃんが無断欠勤した。ママが連絡を取っても、既読はつかないし、通話にも出ない。それが翌日、翌々日と続き、ママはカウンターでうんざりしたため息をついた。
カウンターの中の瑞砂くんは、ママの前なので煙草は吸わず、グラスを磨いている。僕はママの隣の席で、メタルブルーのマニキュアの艶を出していた。
「飛んだわね」
ママは頭痛がするように額を抑え、そうつぶやいた。
「病欠っていうのはないんですか」
「それなら、ひと言、そう返事するでしょう」
「紗鈴ちゃん、ひとり暮らしって言ってましたよ。何かあったら、最悪連絡取れないかも」
「……手首でも切ったかしらね」
怖いことを言うママにどきりとしつつ、僕は自分のスマホを一瞥する。
ママには報告していないけれど、僕も紗鈴ちゃんに連絡を取ろうとしている。でも、僕もメッセも通話もつながらないのが現状だった。
「黒服の後釜は、見つかりませんか」
「何人か面接して、ひとり良さそうな子がいたんだけど。オカマバーと知ってその場で辞めたわね」
「普通のスナックと変わらないんですけどねえ」
「ほんとよ。だけど、オカマバーとして募集かけるとキャストの面接も来るのよね。そこは咲羽がいてじゅうぶんだわ」
「光栄です。キャストじゃなくて黒服としてなら採用する、って言ってみたらどうですか」
「逃げるわね」
確かに、僕も女装できずに黒服で底辺として働けと言われたら逃げそうだ。「最悪、紹介所に行くしかないわね」とあきらめるママに、「あの」とふと瑞砂くんがグラスを置いた。
「俺の昼の仕事、十七時までなので。十八時ぐらいからなら、手伝いに来れますよ」
瑞砂くんの言葉に、ママがぱっと顔を上げた。
「本当?」
「ただ、朝九時出勤なんで、閉店作業はせずに帰らないと睡眠時間がないというか」
「閉店作業ならあたしと咲羽でできるけど──それでも、朝九時出勤はつらいでしょう。いいの?」
「どのみち、紗鈴ちゃんが飛んだなら、後釜の奴に仕事伝えていかないといけませんし」
「……そうね。はあ、ほんとにあの子、こんなときに飛ぶなんて非常識ね」
ママは息を吐き、僕は艶の出たメタルブルーの爪を見つめた。
紗鈴ちゃんが飛んだ。僕としても由々しきことだった。僕はまだ、まったく紗鈴ちゃんとこの職場以外での接点を作れていなかった。デートは一回行ったきり。やることまでやったのに、何だかんだで無視されるに至っていた。
このままでは華麗に他人になる。しかし、紗鈴ちゃんの部屋なんて僕は知らない。
心はもやもやしていても、今夜も笑顔第一で働き、午前三時には客は帰っていった。
紗鈴ちゃんがいないぶん、僕がカウンターに入って閉店作業を手伝う。ゴミ処理とかは瑞砂くんがやってくれて、僕は黙々と食器を洗っていた。マニキュア剥げるなあ、なんて思っていると、ゴミを表に出してしまった瑞砂くんが「手伝います」と隣に並んだ。
瑞砂くんの横顔を盗み見る。淡々とした面持ちで、レモンが香る泡で手早くグラスをこすっては水道にさらし、水切りに並べていく。閉店作業をせずに帰っても、夜と昼を兼ねるなら、睡眠時間は三時間ぐらいになるだろう。そんなの、毎日続けば、ぶっ倒れるかもしれない。
紗鈴ちゃんのフォローをしたい、というわけではないだろう。どちらかと言えば、うぬぼれのようでも、僕の仕事が増えないように──
「ほんとに、来るの?」
僕が不意に問いかけると、瑞砂くんはこちらを横目でちらりとした。
「来るって」
「いや、来月もここにさ。昼と夜の掛け持ちってつらくない?」
「迷惑ですか」
「い……や、助かる、と思う」
「じゃあ来ますよ」
「………、」
「それに、さすがに俺までこの状況を放って辞めるのは」
「……分かんないじゃん。紗鈴ちゃんだって、何かで入院したとかさ。なくはないでしょ」
「ないですね。紗鈴ちゃんはもう来ませんよ」
「言い切らなくても、」
「俺に通話来ましたから」
「えっ」
「『私のせいで辞められなくなったらごめんなさい』って言ってました」
「………、ママに言った?」
ホールの奥でママはまだ売上を計算しているいるので、僕は声を抑える。
「言ってませんけど、言ったほうがいいでしょうか」
「やめて。言わないで」
僕が鋭く言うと、瑞砂くんはたくさんな息を吐いた。
「紗鈴ちゃん、ほんと社会人としてどうかと思いますよ。飛ぶとか」
「水商売で飛ぶなんてめずらしくないよ」
「でも、咲羽さんに皿洗いなんてさせてる」
そう言って、水道にさらされた僕の手を瑞砂くんがつかむ。
「それが俺は気に入らない」
冷たい水を浴びながら瑞砂くんの手に力がこもり、僕はまたどぎまぎしながら、手を引っこめようとする。けれど、何だかしっかり力が入らない。
「咲羽さんが、紗鈴ちゃんのどこにそんなに惹かれてるのか分からないです」
「……確かに、あの子は要領悪いとこあるけど」
「そうですか? 俺の気持ち知って、咲羽さん無視したりしてたじゃないですか」
「それは、」
「ずうずうしいとこあったと思いますよ」
「………、瑞砂くんも、そうやって紗鈴ちゃんのこと悪く言うじゃん」
「俺は元から、あの女好きじゃないって言ってましたし」
唇を噛んだ。紗鈴ちゃんのどこが好きなのか。放っておけない。一番はそれだ。昔のことを少し聞いて、もっとそう感じた。あの女の子は、確かに若干非常識なのかもしれないけれど、そうなってしまう事情があったわけで──
でも、これってもしかして愛情じゃなくて同情、なんて考えると、何だか心が彷徨ってくる。
水道水に溺れながら瑞砂くんは僕の手をぎゅっと握り、ぐいと軆を引き寄せると唇を重ねてきた。僕は顔を背けて、「ママが」と言うけど、「気づいてません」と瑞砂くんはまた僕の唇を奪って舌をさしこんでくる。
僕は目をつぶって、瑞砂くんのまろやかな舌の動きに流されないように踏ん張る。そんな僕を瑞砂くんは見つめて、唇をちぎると耳を食んで、「好きです」とささやいてくる。
「紗鈴ちゃんなんかやめて、俺にしませんか」
低くて軆の芯が痺れそうな声に、僕は首を横に振って、つながった手もやっと振りはらうとカウンターを出た。耳たぶが瑞砂くんの唾液に濡れている。
何でどきどきすんの、と自分が嫌になってくる。紗鈴ちゃんの髪に触れるときより、よほど鼓動が速い。
「咲羽。皿洗い終わったの?」
計算が終わったらしいママが、ふうっと息を吐いてから僕に目を留めて言った。いえ、と言いかけたものの、瑞砂くんの隣に戻りたくなくて嘘をつく。
「瑞砂くんが、あと全部やってくれるそうなので」
「そうなの? 閉店作業、教わらなくて平気?」
「だいたい分かってるので」
「そう。じゃあ、瑞砂もひとりでやっちゃうほうが早いかしらね」
「ママ、帰りますか」
「そうね。咲羽も帰る?」
「そうします」
「ラーメン食べていきましょうか」
「あ、いいですね」
「よし。じゃあ、荷物取りに行きましょ」
そう言って立ち上がってこちらに来たママは、僕の肩をたたいてカウンターの中に入る。僕も続く。瑞砂くんは皿洗いをしていて、僕とママのことは見なかった。
衣装部屋の荷物を取ったママは、「じゃあ瑞砂、頼むわね」と瑞砂くんに声をかけた。「分かりました。お疲れ様です」と瑞砂くんは淡々とした口調で答え、「咲羽さんもお疲れ様です」とさっきの名残もなく淡白に言う。「お疲れ様」と僕は平静を装って答え、ママに続いてカウンターを出た。
ネオンも喧騒も消え失せた午前四時過ぎの通りを、ヒールを響かせてママと歩く。少しずつ夜明けが遅くなって、あたりはまだ暗い。酒にほてった軆を音のない夜風が包んで、すうっと撫でていく。
いつもママが連れていってくれるラーメン屋が近づいてくると、食欲の湧くいい匂いがただよってきた。「どうも」とママが顔を出すと、「おう、いらっしゃい」と今夜も大将が笑顔で迎えてくれる。
今日も僕は白湯ラーメンを注文して、ぶあついチャーシューから頬張った。とろとろに柔らかくておいしい。もやしもメンマも歯ごたえがあるし、煮卵も入っていて嬉しい。太麺にも腰があって、もぐもぐと味わうと、白湯の鶏スープが口に広がる。
やっぱここのラーメンうまいな、とずるずる食べていると、「ねえ、咲羽」とママが不意に箸を置いた。
「何ですか?」
「あんた、瑞砂に言い寄られてるでしょう」
「は……はっ?」
僕が変な声を出してしまうと、ママはあきれた吐息をつく。
「気づいてないと思った? 雇い主をナメないでほしいわね」
「う……」
「瑞砂が後釜見つかるまでなんて言ってくれたのも、きっとあんたのためなんだと思うわ」
「……そう、なんですかね」
「でも、あんたは、紗鈴に惚れてるのよね」
僕はうめいてうなだれ、「そこまでお見通しですか……」と頬が熱くなるのを感じる。
「それは、あたしがあの子を貶すたび、あんたが必死にあの子をかばうからよ」
「……でも、紗鈴ちゃん、ほんとに頑張ってたと思いますし」
「飛ばれた今となっては、どう言われても信憑性ないわね」
確かに、とそこはかばいきれずに、ラーメンを箸に絡め取って口に入れてすする。
「紗鈴は瑞砂に惚れてたわよね」
「ん……まあ、そうだったみたいですね」
「紗鈴が飛んだのは、瑞砂がいなくなるからだったのかもしれないわね。あたしも厳しかったとは思うけれど」
「僕が紗鈴ちゃん見てあげてくださいって言うから、ママも紗鈴ちゃんをクビにはしなかったんですよね」
「そうね。あの子なりに精一杯やってるのは分かってあげたかったんだけど、どうもどんくさいから、ちゃんとやる気あるのかしらって思っちゃったのよね」
「紗鈴ちゃん、欠陥はあったんだと思いますよ」
「欠陥」
「正直に言うと、ふたりで話をしたことがあるんですけど。そのとき、心療内科に通ってたって言ってましたから」
「そう……」
ママは箸を持ち直してラーメンをすすり、参ったように首を捻る。
「まったく、あたしも不器用よねえ。そんな子だからこそ、雇ってあげた身としては、支えになってあげなきゃいけなかったのかもしれないのに」
「……僕も紗鈴ちゃんの支えになりたかったです」
「咲羽から紗鈴に連絡したりは?」
「しました。何も返ってきません」
「あたしたち、嫌われたわね」
「そうですね……」
僕とママは、しばらく黙ってラーメンを食べた。「それで」と先にうつわを空にしたママが、悪戯っぽく僕ににやりとする。
「あんた、瑞砂はどうするのよ?」
「あれはどうすべきなんですかね」
「興味ないの? いい男じゃない」
「うーん……確かに、何だかんだで大切にしてくれそうだなあとは思うんですけど」
「大切にしてもらいなさいよ」
「僕は自分から好きになった人がどうしても強いんですよ」
「愛されるより愛したい?」
「そう。愛される恋愛は楽なんでしょうけどね」
「幸せになれるのは、愛してもらってこっちが折れる恋愛だと思うわよ。惚れた弱みは相手にあるんだもの」
僕は喉の奥で唸って、うつわを持ち上げるとスープをごくごくと飲んだ。ママは小さく微笑すると、「一度、瑞砂とはちゃんと向かい合いなさい」と僕の背中をとんとした。
瑞砂くんと向かい合う。確かに、このまま僕の態度があやふやな限り、瑞砂くんは僕にキスしたり口説いたりしてくるのだろう。瑞砂くんのことは嫌いだったから、僕は彼のことをちゃんと知らない。一度、ゆっくり話をしてみて、それから考えてみるのぐらい、いいのかもしれない。
そう思い、スープを飲み干したうつわを置くと、「ごちそうさまです」とふーっと息を吐いた。
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