ナーシャは夜に舞う-23

届かない笑顔

「あの……それで」
 おそるおそる沈黙を破ると、「はい」と紗鈴ちゃんは受け皿にカフェモカを置いた。
「僕が口出すことじゃなくても、やっぱり、一番心配なことで。訊きたいんだけど」
「はい」
「実家に、帰るんだよね」
「……はい」
 すぐに紗鈴ちゃんの表情に陰がさした。それだけで、僕は出戻るのが紗鈴ちゃんの気持ちに反しているのを察する。
「大丈夫……なの? 引きこもりになっちゃうような家だったんでしょ?」
「………」
「やっと逃げ出したんじゃなかったの?」
「……もう、お金がなくて。仕事も見つからなくて」
「昼の仕事は?」
「面接で、やっぱり言われるんです。目にやる気がないとか、どうせすぐ辞めそうとか」
「それでも、」
「落ちれば落ちるほど、自信がなくなって。また面接を受けるメンタルになるのに時間がかかって。ダメなんです。私は、自分のことちゃんと養えない……」
 けれども、自殺未遂さえした家なのに。その血痕の後始末をさせる家族しかいないのに。
 怖い。僕は怖いのだ。果たして紗鈴ちゃんは、その家で生きていけるのか?
「私、おかあさんとは……基本的に、仲はいいんです」
 僕は紗鈴ちゃんに顔を上げる。紗鈴ちゃんは伏し目になっている。
「機嫌悪いときだと、『私が紗鈴を生まなきゃよかったんだよね』とか『おかあさんが死ねばすっきりするの?』とか言うんですけど……それは、私も精神的につらいときそういうこと言ってたし。おあいこというか」
 おあいこ──なのだろうか。心が苦しい娘に対して、母親が言ってもいい台詞だろうか。
「ただ、その……父が」
「……おとうさん」
「父とまた……暮らすのは、怖いです。死んだほうがマシだって思うんですけど、死ぬ勇気が出ない」
「紗鈴ちゃん──」
「父は昔から母に対して暴力的というか。殴る……というより、ひどいことを言うし、信じられないぐらいこき使うんです。能無しだとか、ウスノロだとか言いながら。私がこんな、自慢の娘にならなかったのも、人として出来損ないなのも、全部母のせいだって。でも、お前は何もできないっていうくせに、父は何でも母にさせるんですよね。お茶一杯も自分で汲めないし、通勤も母に車で送迎させて──その迎えとかが一分でも遅いとすごく怒って、ひと晩じゅう怒鳴りつづけて」
 紗鈴ちゃんの眉間が苦しげにゆがみ、脳内でフラバが起きているのか、やたらとまばたきをしている。
「その怒鳴り声が、私は子供の頃からすごく嫌いで、気持ち悪くて。ヘッドホンで音楽を聴いていないと生活できませんでした。今でも、突然大きな音がいるとか、男の人の大声とか怖くて。〈ナーシャ〉でも、酔っ払ったお客さんの笑い声とか、すごくストレスでした」
「……紗鈴ちゃん、は」
 どんどんふくれあがる不安に、僕は話をさえぎるように言葉をはさんでしまう。紗鈴ちゃんは、僕に視線を向ける。
「紗鈴ちゃんは、大丈夫だったの」
「私……?」
「紗鈴ちゃんにも……怒鳴ったりしてた?」
「………、いえ。私にはそんなに。なかったわけじゃないですけど」
「死んだほうがマシって思うなら、何かはあったんじゃない?」
 僕の追及に紗鈴ちゃんは口をつぐんだものの、「被害妄想ですから」と消え入りそうに言う。
「被害妄想?」
 紗鈴ちゃんは唇を噛んで言いよどむ。僕はそんな紗鈴ちゃんを見つめ、言葉を待った。紗鈴ちゃんはゆっくり深呼吸すると、話しはじめる。
「家を出るのを決めたのは、同じ屋根の下に父がいると吐きそうだったからでした。父は定年で、一日じゅう家にいるようになってしまったんです」
「……うん」
「それで、ずっと……リビングのテレビで、AVを観てるんです。昼間も。夕食のあいだも」
「………」
「自分でしたりもしてて」
 やや眉を顰める。家族のマスターベーションほど、気持ち悪いものもなかなかない。
「母が、完全に父を受け入れないんですね。あんなあつかいをされて、性的な世話までさせられたら、確かにたまらないとは思うんですけど」
「………」
「だから、父は母への当てつけなのか、AVを垂れ流しにして。風俗も浮気もしない俺はえらいだろうとか私に言って。それで、一度……その、すごく有名な進学校の制服を、父が手に入れてきて。私に着ろって言って」
 不穏な影がまとわりついて、心臓が暴れてくる。まさか。まさかまさかまさか。紗鈴ちゃんは、父親に──
「制服を、着ました。私には絶対入学できなかった学校の制服。写真をたくさん撮られて……その写真がどうなったかは分かりません。ただ、そのあと制服を脱いで、シャワーを浴びて軆を洗いながら、我慢出来なくて吐きました」
「触られ、なかった?」
「……はい」
「ほんとに」
「はい。それで、そのことをネットの友達に相談したら、『そこにいたら父親に犯されるから早く家出しろ』って言われて」
 やっぱり──そう思うのは、僕だけではないか。誰でも、そこまで想到してしまうだろう。
「私も……そんな気が、して」
「うん」
「だけど、分からないんです。そんなこと、なかったのかもしれない。私の被害妄想で、父はただ、私が優等生に育ってくれたような夢を見たかっただけなのかも」
「そんなわけないじゃん。絶対おかあさんの代わりにされて、レイプされてたよ。家出てよかったんだよ」
 思わず強い口調で言いながら、迫りつつある現実に気づいて、僕は混乱してくる。
「待って、え? 紗鈴ちゃん、そんな家に戻るの? 嘘でしょ? 危ないよ。そんなとこ、帰っちゃダメだよ」
「………、」
「帰っちゃダメだって。何か、ほかの道考えよう? 僕も一緒に、いろいろ、手伝うよ」
「全部、決まってるので。引っ越し屋さんとかも。大家さんにも──」
「キャンセルできる。ねえ、その家には帰っちゃダメだ」
「だけど、私、何もできないから。あの家にいるしかないんです」
「そんな──じゃあ、僕の部屋に来てもいい」
「え……っ」
「狭かったら引っ越してもいい。僕と一緒に暮らそう」
「咲羽、さん……」
「ルームメイトだよ、もちろん。何もしない。ほんとに何もしないよ。紗鈴ちゃんがそんな想いしてきたのに、できないよ」
 僕が必死になって言っていると、紗鈴ちゃんは僕をじっと見つめてきて、次第に瞳を潤ませて──しかし、首を横に振った。「紗鈴ちゃん」と僕が食い下がると、紗鈴ちゃんはなぜか笑って、「ごめんなさい」と言った。
「男の人の『何もしない』だけは、どうしても信じられないです」
「………っ」
「先生も、大好きだったのに。いろんなこと相談して、好きですって伝えて、でも『生徒だから何もしない』って言ってた。結局、家に帰りたくなくて先生とホテルに泊まったとき、そうなっちゃって」
 僕はそんな先公とは違う!
 そう、強く言うことができなかった。だって、僕も紗鈴ちゃんに何もしないと心に決めたのに、その軆をむさぼってしまった男だ。紗鈴ちゃんは、あなたも手出ししたではないかとか、そういうことは言わなかったけど、暗示しているのはさすがに分かった。
 重い沈黙が停滞すると、ふと紗鈴ちゃんはぽろぽろと涙をこぼしはじめた。そして、「咲羽さんが女の子だったらよかった」とぽつんとつぶやいた。
 僕はぎゅっと唇を噛んだ。女の子だったら。僕も初めてそう思った。もし僕が本当にこの見た目のまま女の子だったら、紗鈴ちゃんの親友になれていたのに。僕はしょせん男で、紗鈴ちゃんが好きで、……一緒に暮らしたら、彼女を押し倒さない保証はない。
 ──結局、僕にできたのは、「本当につらいときは、ここに逃げてきて」とアパートの住所を紗鈴ちゃんに伝えておくことだけだった。「念のため、僕の連絡先消さないでね」とも言うと、紗鈴ちゃんはそれにはうなずいてくれた。
 僕は手を伸ばし、紗鈴ちゃんのさらさらと髪を撫でた。すると、紗鈴ちゃんは涙をぬぐって僕を見た。
「咲羽さんに頭を撫でてもらうのは、好きでした」
「えっ」
「このおかげで、〈ナーシャ〉でも頑張れてました」
「……ほんと?」
「はい。おねえさんみたいでした」
 僕は弱く咲って、「そっか」と紗鈴ちゃんの頭をぽんぽんとする。紗鈴ちゃんも僕を見て、小さくだけど微笑んでくれた。
 ああ、その笑顔に僕は手が届かないのか。職場の立場がなくなっても、瑞砂くんがいなくなっても、それでも僕は紗鈴ちゃんを手に入れられないのか。ましてや、悪夢のような場所へと手放すのか。
 本当に──そうするしかないのか?
 その日、何度も頭を下げた紗鈴ちゃんと別れて、僕は自分の部屋に帰った。泪音に会いたいかなと思ったけど、何だか話す気力がなかった。ふとんにうつぶせると、急に喉が絞め上げられ、涙があふれだしてきた。
 僕の恋が実らなかったこと。紗鈴ちゃんが向かう地獄のこと。こんなにも好きな女の子を、自殺願望から救い出すことができないこと。いろんなことがぐちゃぐちゃになって、嗚咽をもらして僕は泣いた。
 化粧を落としていないので、たぶんひどい顔になっている。しかし、構わなかった。泣くことしかできなかった。紗鈴ちゃんが好きなのに、何もできない、何も届かない、何も持たない自分が悔しくてたまらなかった。
 紗鈴ちゃんが好きだった。
 彼女の父親のようなことは言いたくない、出来損ないなんて。
 素敵な女の子だったじゃないか。
 つらい想いをする中で、懸命に生きている。
 生きていること自体が、紗鈴ちゃんの輝きだった。
 でも、僕はもうその光を見守ることすらできない──
 そして、翌日からまた〈ナーシャ〉で仕事だった。ぼんやりすることが多くて、最初は注意していたママだったけど、それでも僕の笑顔に精気が出ないことに、美海くんと一緒に心配しはじめた。
 そして、「来週はバレンタインでいそがしいから、その前に少し休みなさい」と冬枯れもあって水曜日と木曜日をオフにしてくれた。二月は出勤が少ないからオフは収入として痛いのだけど、無気力な僕は素直に休むことにした。
 二日間、ろくに食べずに、部屋のふとんにぐったり寝こんで過ごした。木曜日の夜に、ようやく泪音に会いたいとメッセを送った。『仕事のあとピーチ行くー。』と来たものの、今から身なりを整えて街に出る力がない。『明日じゃダメかな?』と返信すると、『ぜんぜんいいよー。』と返ってきて、僕はほっとしながらスマホを手放し、またまくらに突っ伏した。
 僕は、鬱病でも何でもない。二日間も時間を無駄にすると、さすがに人生をサボっている焦燥感に、人とかかわって生きていきたい欲求が出てきた。
 日暮れが遅くなっていく十八時、ベロアのワインレッドのセパレートを着た僕は、上着とマフラーで防寒して出勤のため部屋を出た。暖房が充満する電車に乗っているときから、客に休んでしまったことを詫びて、今日は会えるよ、という営業メッセを送信しまくった。
 すると、金曜日なのもあって、予想以上に僕に会いにきてくれた客が途絶えなくて、僕は幸福ないそがしさに自然と咲ってしまった。そんな僕に、ママと美海くんも安心した表情を見せていた。
 おかげで仕事も長引いて四時をまわってしまい、僕はばたばたと〈ナーシャ〉を上がると、急いで〈ピーチィミルク〉に向かった。泪音はもう行って飲んでいるだろうか。もし仕事だったのなら、来るのは早くて五時過ぎだから、セーフなのだけど。
 SNS見たら今日出演してたか分かるな、とTLを見ることにした。つぶやきがなかったら待ちぼうけさせているので、謝る通話を入れよう。
 そう思ってスマホを取り出し、表示された日づけにはっとした。
 二月十日。
 ……紗鈴ちゃん、今日引っ越すんだ。
 何だか胸がざわりとしたものの、僕は二日間の休みでたっぷり染みこんだ無力感を思い出して首を振り、SNSを画面に呼んだ。

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