ナーシャは夜に舞う-24

彼女の名前

〈ピーチィミルク〉に泪音はまだいなかった。SNSの告知によると、今夜のトリとして出演するみたいだから、ちょうどいそがしいだろうと今から行くというような連絡も入れなかった。
「咲羽ちゃん、いらっしゃい」とマスターは相変わらずにっこり僕を迎えてくれて、「ファジーネーブルください」と僕が開口で言うと、「あら、かわいらしい」なんて言いながら、ピーチリキュールとオレンジジュースですぐにカクテルを作ってくれる。
 スツールに腰かけた僕は、その甘いオレンジ色をすすって、酔いはじめたら止まらないだろうからなと思った。
「泪ちゃん、昨日も来てたわよ」
 マスターはピーチリキュールの瓶を棚に戻して、僕と向かい合う。
「何だか、咲羽ちゃんを心配してるようなことを言ってたわ」
「あいつは鋭いなあ……」
「少し疲れてる?」
「ん、いや。三日前よりマシです。三日前は死んでました」
「失恋でもした?」
「そうですね。例の好きだ好きだ言ってた女の子に会ってきたんですよ」
「まあ。しっかり振られちゃった?」
「………、男って浅はかですよね……」
「ふふ。女は女でずるいわよ」
「ずるい……の、かなあ。あんなに、頑張ってる子だとは思わなかった」
 僕の言葉にマスターは首をかたむけてから、「ずいぶん本気だったのねえ」と微笑む。
「泪ちゃんが妬きもちしてくるわよ」
「……『バカか』って怒りますよ」
「じゃあ、ちょっと賭けてみる?」
「僕が勝ったら、今日の代金チャラにしてくださいよ」
「いいわね。あたしが勝ったら、一緒にホテルに泊まってもらおうかしら」
「えー、マジですか? 何で僕、地味にタチとしてモテるかなあ」
 思わず苦笑しながら、頬杖をついてファジーネーブルをこくんと飲む。デートで紗鈴ちゃんに勧めたのもこのカクテルだったな、とぼんやり思い出し、脳裏が軋んだ。
 泪音が〈ピーチィミルク〉にやってきたのは、午前六時が近くなった頃だった。慌ただしくドアを開け、「あーん、咲羽ごめーんっ」と僕の背中に抱きついてくる。「仕事でしょ」と僕が肩をすくめると、「仕事だけどー」と泪音は相変わらず僕の股間に手を伸ばそうとする。「やめなさい」とその手をぺちっとはたくと、「疲れた軆にちんこ一本欲しい」とか泪音は僕に頬ずりをする。「一本は自分についてんじゃん」と僕がふうっと息をつくと、「じゃあ二本目ー」と泪音はくじけない。
「いいから、何か飲みなよ」
「おごってくれるの?」
「いつもおごると思わないで」
「ふん。じゃ、マルガリータ」
「はあい」とマスターは僕たちの会話を聞き取って、カクテルを用意しはじめる。
「いきなりテキーラ行くの」
「お仕事がんばったから、ぐだっぐだに酔う!」
「僕、今日そんなに酔えるか分からないんだけど」
「ということは、僕はわけ分かんなくなっても咲羽に送ってもらえるんだね。やった!」
 泪音はガッツポーズをして、まあそうするだろうな、と思ったので何も言わなかった。マスターに透明なカクテルを作ってもらった泪音は、それを多めに口にふくんでごくりと飲む。
「んで、昨日は何かあったの?」
「昨日というか──実は、日曜日に紗鈴ちゃんに会ってきたんだよね」
「は?」
 泪音はぐるっと僕のほうに首をまわし、顰め面になる。
「それ、飛んだんじゃないの?」
「『それ』って。諸事情で連絡取れて──」
「待って待って。『諸事情』とかひと言でごまかされるの納得いかない」
 何だか、先ほどの賭けはマスターのほうに勝算があるようだ。明らかに泪音は紗鈴ちゃんの名前でむっとしている。めんどくさいなあ、と思ったものの、僕は順を追って紗鈴ちゃんの連絡先を手に入れたいきさつを語った。「元黒服め、余計なことを」を泪音は不穏に舌打ちして、頭を抱えた。
「えー、それで会ったの? また会っちゃったの?」
「会っちゃったね」
「まさか、つ、つきあうことになっ……あああ!」
「泪音って、一度は僕と紗鈴ちゃんのこと応援するって言ったよね」
「無視とかされたの忘れたの? 無視だよ。女子中学生か」
「んー、まあ……あれは仕方ない」
「仕方あるでしょ。けっこう頭悪い女だと思うよ」
「紗鈴ちゃんはいい子だよ」
「うわ、もう無理。信じらんない。あわびに咲羽のちんこ取られるとか」
 僕は懊悩する泪音を眺めて、そっとその肩を抱き寄せると、耳元でわざと低い声でささやいた。
「そんなに僕に抱かれたい?」
 途端、泪音はがばっと僕を振り向いて、めずらしくじわじわと褐色の肌を赤に染める。
「え、やっ……ちょ、マジ? 待って、うそ、嘘です、そんな……」
「冗談だよ」
 僕がぱっと軆を離すと、「きゃー」とか言っているマスターを睨んで泪音は僕の肩をぽかぽか殴る。
「もうっ。今のはイケメン過ぎたもんっ。くっ、僕としたことが」
「泪音はさー、いるじゃん」
「いる? 何が?」
「美海くん、マジっぽくない?」
「よしみん? ああ、まあいい軆はしてたなー」
「黒服の前は土方だったらしいよ」
「聞いた。エロ過ぎるだろ、肉体労働……絶対前の仕事はホストだと思った」
「泪音も気に入ってるの?」
「嫌いじゃないよー。でもあの子、ノンケでしょ?」
「覚醒したとか言ってたけど」
「マジでか。んー、そうだねえ。とりあえずお友達になるのはOKかな」
「行きずりにしないなら、彼氏にすればいいじゃん」
「恋愛めんどいなー……セックスが好き。だから僕は、ノンケとやるのかもしれない」
「そうなの?」
「そうなの。ゲイとは恋愛になるからね」
「恋愛、悪いもんじゃないよ?」
 泪音は僕を見て、「幸せなの?」と上目遣いで改まって問うてきた。僕はくすりと咲ってしまうと、そろそろ正直に言うことにする。
「紗鈴ちゃんには振られた」
「はっ?」
「今でも好きだよって言ったけどね。やっぱり、僕じゃないみたい」
「え、まさかまだ元黒服……」
「それもあるし、うーん、どうしても僕は対象じゃない感じ。おねえさんみたいって言われた」
「おねえさん!」
「いいんだ、それで。ただ、僕は紗鈴ちゃんにとって、ほとんど何でもなくてさ。そのせいで、紗鈴ちゃんを助けることもできなかった」
「助ける、って」
 首をかしげた泪音に、僕は一度目を閉じて考える。
「……泪音のことは、信頼してるから」
「うん」
「勝手に話してもいい……よね」
「たぶんダメだろうけど、咲羽がひとりで抱えきれないなら、僕は聞くよ」
 目を開けて泪音を見て、「ごめんね」と断った。泪音はかぶりを振る。雰囲気を察して、マスターも僕たちの前を離れてくれる。
 僕は小さな息をついてから、ゆっくり、ゆっくりと、紗鈴ちゃんが今日帰ろうとしている家庭について泪音に話した。
 ちなみに、泪音は家族にカミングアウトを受け入れてもらっているし、ゲイストリップという仕事も理解してもらっている。「性病になりそうな生活だけはやめておけ」なんてことも言ってくれるらしい。
 だからこそ、泪音は紗鈴ちゃんの気味の悪い家庭が与えるざらつきを、より強く感じた様子だった。僕の話がひと通り終わると、こまねいてめずらしく深刻に考えこんでいた。
「……胸糞悪いな」
 泪音はふと真剣な声でつぶやく。「ごめん、こんなの聞かせて」と僕がうつむくと、「いや、咲羽は悪くなくて」と泪音は腕組みをほどいてカウンターに寄りかかる。
「そっかあ。そりゃ病むね。頭悪いんじゃなくて、トラウマかあ」
「父親がさ、僕、ほんとに怖くて」
「そうだね……。正直、手出しされてないってのが、ほんとかも分からないね。ほんとのこと言いたくなかっただけかも」
「……うん」
「母親もどっか頼りなさそうだなあ。えー、でも、その子って未成年ではないよね?」
「二十歳になってる」
「ちっ、保護なんてしてもらえる歳じゃないか。自分で立てって言われるだけだね」
「自分で、立てないでしょ。そんな力、きっと出ないよ」
「うーん、どうしたらいいんだろ。ぶっちゃけ、咲羽がルームメイトとして引き取るのは名案だった気がする」
「そう、かな」
「咲羽のことだから、全部面倒見てやるよね。ああ咲羽に甘えてるねって言う奴もいるかもしれないけど、今までその子甘えたことなんてなかったでしょ。じゃあそろそろ、甘えていいよ」
「……強引にでも、僕の部屋に連れてこればよかったのかな」
「んー……とりあえず、このままはやばいね」
「このまま」
「逃げたくなっても、たぶん咲羽のとこに逃げてくるわけないし」
「僕も、そう思う」
 僕が首を垂らすと、泪音は「きっとね」と優しく言う。
「迷惑をかけたくないんだよ」
「えっ」
「自分が身を寄せたら咲羽が迷惑するって、そう考えたんじゃないかな」
「………、」
「やられたくないとか、興味ないとか、そんなじゃない。咲羽を胸糞の家庭に巻きこみたくないんだよ。咲羽に嫌われたくないのは、よっぽどその子のほうなんじゃない?」
「嫌う、わけっ……ない、のに」
「じゃあ、そうだね、まずそれ伝えれば?」
「え」
「この時間なら、始発動いてるし。朝一に引っ越し作業始まってても、まだいるでしょ」
「いや、僕、アパートまで知らない……」
「探し出せ!」
 泪音がきっとした男らしい声で僕をしかったので、一瞬店内が静まり返った。すると、泪音は澄ました顔でカクテルをひと口飲む。
「って、言いたいとこだけどね。親友の僕がナイスヒント。引っ越しセンターって、荷物は運んでくれるけど、引っ越す本人は運んでくれない」
「………、電車……?」
「そう。親が車とかで迎えにきてたら詰むけどね。そんな親でもなさそうだし。どうせ、タクシーの金もないでしょ。たぶん、駅で捕まえられる」
 泪音がそれを言い終わる前に、僕はスツールを降りた。「賭け、負けちゃったわあ」とマスターがわざと大きく言ってくれる。僕は感謝で泣きそうになりながら、「ありがとうございますっ」とマスターに言うと、「行ってくる」と泪音と目を合わせた。
 泪音はうなずき、「咲羽なら紗鈴ちゃん助けられる」と言った。泪音が紗鈴ちゃんの名前を口にしたのは初めてだった。何だかそれが心強くて、僕はうなずいて泪音の肩をたたくと、上着やバッグをつかんで〈ピーチィミルク〉を飛び出した。

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