ナーシャは夜に舞う-25

一番好きな服で

 朝の蒼い街並みに、かつかつとヒールがうるさく叫ぶ。すれちがう人が僕を振り返る。僕は構わず走って、軽い酔いで息が切れて、めまいがしても走って、やがて駅にたどりついた。
 軆がほてって、心臓がばくばくと跳ねまわっている。
 スマホで調べるのがもどかしくて、まだちょっと眠たそうな駅員に紗鈴ちゃんの最寄り駅を伝え、どのホームから向かえばいいのか急き立てるように訊いた。駅員は驚いた様子でも、嫌な顔はせずに、何番ホームから向かえる何駅で乗り換えればたどりつけるか説明してくれた。「ありがとうございますっ」と僕はお礼を叫ぶと、ICカードで改札を抜けてそのホームに向かった。
 大きな駅だ。長くても、五分待てば次の電車がやってくる。ただ、完全にラッシュにかちあってしまって、僕は車内でもみくちゃになってしまって、ウィッグが無様に外れないかを案じた。窮屈に身動きして、スマホで時刻を確認すると、七時をまわっている。
 最悪、紗鈴ちゃんの引っ越し作業が朝一だったら、すでに業者は来ているだろう。そして、ひとり暮らしの荷物なんて、一時間もせずに運び出してしまうはずだ。そのあと、運よく紗鈴ちゃんが退室する部屋を掃除すると考えても、二時間残っていない。
 スマホで検索すると、今通り過ぎた駅から紗鈴ちゃんの最寄り駅まで約四十五分だ。掃除とかを後日再訪してやるとしたら、時間はぎりぎりだった。もちろん、もし作業が朝一からだったら、だけど──
 僕はスマホを胸に押し当てると、神様、と本気で祈った。
 お願いだから、僕を紗鈴ちゃんに逢わせてくれ。
 ひと言、彼女に伝えさせてくれ。
 僕は、君を、助けたい、と。
 電車を乗り換えると、ローカル線なのでさいわい混雑がやわらいだ。ドア付近に立った僕は、ガラスで自分の女装がおかしく崩れていないのを確認し、ほっとする。
 激しかった搏動は落ち着いたものの、どくんどくんと不安はまだ吐き出されている。視線がうつろい、紗鈴ちゃんにメールしようかな、とも思ったけど、もしかしたら実は作業はこの不安を投げ飛ばす夜とかで、その場合は眠っているかもしれない。
 作業の時間まで訊いとけばよかったな、と質問不足だった自分のミスが痛い。渇いた口の中で粘つく唾を飲みこんでいると、ようやく、このあいだの日曜日にも訪れた紗鈴ちゃんの最寄り駅に到着した。
 よろけながら改札を抜けると、こんな朝からたい焼きが売られていて、甘い香りの東口の階段を降りた。コンビニの前に行き着くと、さすがにバカみたいに紗鈴ちゃんが通りかかるのを待つことはしなかった。
 迷惑を承知で、僕からはもう呼び出さないと思っていた紗鈴ちゃんの携番を表示させ、タップで通話につないだ。耳に当てると、コールが耳に届いた。
 出なくても、ストーカーレベルで何度だってかけなおしてやる。そう思っていたけれど、不意にコールは途切れて、『もしもし……?』ととまどったようなあの声が聞こえた。
「あ……さ、紗鈴ちゃん?」
『はい……えと、どうかしたんですか?』
「ごめん、僕、今、紗鈴ちゃんの駅に来てる」
『は……はい? えっ、何で──』
「会いたいんだ。お願い、もう一度だけ僕に会って」
『………』
「迷惑って分かってる、でも、どうしても──」
『……十五分くらいで、行きます』
 息を飲む。ついで、向こうで何やら話し声がした。まさかマジで朝一の作業かよ、と背筋に冷や汗が伝うのが分かった。本当にぎりぎりだったようだ。紗鈴ちゃんは相手に何か答えたあと、『なるべく早く行きますので』と残して通話を切ってしまった。
 僕は通話終了の通知音を聞いて、ゆっくり腕をおろすと、その場にしゃがみこんだ。
 会える。
 紗鈴ちゃんにもう一度会える。
 そしたら、僕は伝えるんだ。
 荷物は地面に置いてしまい、膝を抱えてじっとしていた。何人か、通りかかった人が具合が悪いのかと心配してくれた。僕はぎこちなく「大丈夫です」と述べて介抱を遠慮しておく。
 自分の呼吸をやけにうるさく感じながら、ぴくりとも動かなかった。ふと、こつこつ、と小さな靴音が近づいてくるのに気づく。また大丈夫か訊かれるのか。正直愛想咲いをすることにげんなりしつつ、顔を上げた僕ははっと目を見開いた。
「咲羽さん……」
 紗鈴ちゃん、だった。でも、いつもスニーカーの紗鈴ちゃんが、硬い靴音をさせている。服の色はほとんど真っ黒だけど、チェーンやアシメトリーのちょっとパンクめのゴスロリ。髪に赤い薔薇を一輪咲かせている。
 それは、あの一度きりのデートで、僕が紗鈴ちゃんに強引にプレゼントした服装だった。
「すみません、咲羽さんがしてくれたみたいに化粧できなくて」
 言われてよく見ると、うっすら化粧もしている。僕が教えたピンク系のかわいい化粧だ。
「何……で、」
「え」
「何で、今日、その格好……?」
 僕が立ち上がれないまま問うと、正面で立ち止まった紗鈴ちゃんは、あの困ったような笑顔をこぼした。
「一番、勇気が出る格好だからです」
 息がぎゅうっとすくむ。首を垂らし、目をつぶった。泣きそうだった。
 くそ。くそくそくそ。何で僕はこの期に及んで、この子にときめいてしまうんだ。大好きだって、たまらなくなるんだよ。しかし、そんな未練がましい僕の目の高さにしゃがむと、「私も、咲羽さんにもう一度会いたかったです」と紗鈴ちゃんは思いがけないことを言った。
「えっ」
「だから、会えてよかったです」
「………、会いたい、なら、……すぐ来たのに」
 紗鈴ちゃんは弱い笑みを浮かべる。
「何か、もう、迷惑かなあって」
 泪音。ビンゴだよ。
 紗鈴ちゃんと僕は、その場にしゃがんだまま向かい合っていた。たまに周りの人が変な目で見ていく。紗鈴ちゃんの僕を見つめる瞳がいつになく穏やかで、ゆっくり、僕はそれを見つめ返した。
「咲羽さん」
「……ん」
「私、昨日、おかあさんと電話で話したんです」
「おかあさんと……?」
「こっちに帰ってきたら、またつらいだろうから、通ってた病院にまた通院できるように連絡したって」
 僕は目を剥いた。
「病院なんかっ──」
「なんかじゃないです」
「え」
「先生は私の話を聞いてくれるので」
「………、」
「咲羽さんが、いつも『話聞くよ』って声をかけてくれて、何でも聞いてくれたみたいに」
「……あ、」
「先生、私のこと憶えててくれてたそうなんです。ずっと心配してたって。また通院するなら、待ってるよって」
 紗鈴ちゃんは僕の手に手を重ねた。小さな柔らかい手。もう水荒れも消えていた。
「私、自分のこと、治します」
「……治す」
「何年かかるか分からないです。もしかして、一度別の環境に行くとかあるかもしれないし──どうやって治すのか、ほんとに何も分からないです。でも、絶対に病気を乗り越えます」
「紗鈴ちゃん……」
「それで──しっかり治ったら、必ず、また咲羽さんに会いにいきます」
 僕は大きく目を開いた。それから、ぱたぱたとまばたきをしてしまう。溜まっていた涙が、不覚にぽろぽろと何粒か落ちた。
 紗鈴ちゃんはそんな僕に優しく微笑みかけ、言葉をつなぐ。
「咲羽さんが、私のこと……信じてくれるなら。治るって、一緒に信じてくれるなら」
 一番、勇気が出る格好。その魔法が、紗鈴ちゃんをこんなに強く見せているのだろうか。
 だとしたら、その魔法はきっと僕にとって女装だから、僕は人にはそんなふうに見えているのだろうか。
「私は、治るので、待っていてください」
 僕は紗鈴ちゃんの手をぎゅっとつかんで引き寄せると、その軆を強く抱きしめた。我慢できなくて、まるで置いていかれるのを嫌がっているみたいに泣き出してしまった。紗鈴ちゃんはひかえめに僕の背中に手をまわし、僕が何も答えていなくても、「ありがとうございます」と何度もささやいてくれた。
 あったかい。ちっちゃい。やわらかい。
 この軆は、これから、一度しばらく僕を遠く離れてしまう。だけど、大丈夫なんだ。失くしてしまうわけじゃないんだ。紗鈴ちゃんは、僕のところに帰ってきてくれるんだ。
 紗鈴ちゃんの指が僕の頭を撫でる。「ウィッグ取れそうだから」なんて僕が泣き咲いすると、「あ、ごめんなさい」と紗鈴ちゃんは手を引っこめ、代わりに僕の服をつかむ。僕はもう一度、腕に力をこめて紗鈴ちゃんを抱きすくめた。
 僕のかわいい黒のお姫様。
 ああ、これから僕も黒をたまには着てみようかな。
 こんなに素敵に見えるなら、僕もその格好をしてみたい。
 自分の一番好きな服を着る。
 それが、誇り高い男の娘の僕にとっての、最上級の魔法だから──。

第二十六章へ

error: