閉店後に
「グラスが足りないって何なの! もうちょっと早く洗ってくれない?」
ママがカウンターに身を乗り出し、中のふたり──というか、紗鈴ちゃんに声を荒げている。紗鈴ちゃんがどう答えているかは、テーブルについている僕には分からなくても、瑞砂くんが何か答えているのは覗ける。
苦手ってわりにかばうじゃん、と思いつつ、僕は騒々しいくらいの五人の団体の客のテーブルにひとりでついているので、あんまりよそ見もできない。
笑顔で話して、全員のグラスを見て、空になる前に水割りを作って、グラスをなみなみにしておく。煙草の火にも、三本以上溜まった灰皿にも気をはらう。何か歌ってと言われたら、客の世代の曲をかけ、巻きこんで一緒に歌う。
とにかく今夜はやけにいそがしかった。グラスが足りなくなるなんて、いくら洗うのが遅くたって、そうそうあることじゃない。店内がどんちゃん騒ぎで、嵐のような仕事に追われて、おいしくなくても水割りを飲んでテンションを上げないと、しらふじゃついていけなかった。
いつもの午前三時もまわってしまい、客がみんな帰宅したのは、四時過ぎだった。僕は疲れきって、ボックスのソファに横たわってうとうとしていた。
ママは売り上げの計算をして、瑞砂くんと紗鈴ちゃんは店内やカウンター内を片づける。
黒と赤チェックの少しゴシックな僕は、赤いニーソの脚をぶらつかせながら、しばらく意識が半分ないような状態だった。「咲羽さん」とふと肩を軽くたたかれ、うめいて目をこすりかけ、化粧してるんだ、と思い出して手をおろす。ぼやけた視界をまばたきではっきりさせると、そこには紗鈴ちゃんがいたのでどきっとする。
「あ……紗鈴ちゃん。ごめん、僕、寝てたね」
「お水、飲みますか」
「うん。ありがと。ちょうだい」
まだ黒服を着る紗鈴ちゃんは、カウンターに向かって瑞砂くんに「お水をもらえますか」と頼む。瑞砂くんは手早くミネラルウォーターをコップにそそぎ、紗鈴ちゃんに渡した。
紗鈴ちゃんは小走りにそれを僕に届けると、「ありがとう」と起き上がった僕は冷たい水を飲んだ。
店内の照明は明るく、音楽も止まっている。ママのすがたはなく、訊いてみると「さっき帰りました」と紗鈴ちゃんは相変わらずかぼそい声で答えた。
僕はコップをかたむけ、「ママに何か言われた?」とうつむく紗鈴ちゃんを覗きこむ。
「……少し。言われて当然なので」
「お客さんがいるときに、あんなふうに大声で言わなくてもね」
「グラス足りなくて、咲羽さんも迷惑かけましたよね。すみません」
「大丈夫だよ。気にしないで」
紗鈴ちゃんは小さく息をつく。
ちなみに、決まりなのだけど、黒服は客が許さない限りソファには座ってはいけない。呼ばれたときは床に膝をつく。紗鈴ちゃんも今そうしているから、「隣座りなよ」と僕はソファのスペースをたたいた。
「えっ、で、でも」
「ママもいないし、今、ここで一番えらいのは僕だよ」
紗鈴ちゃんはとまどった表情を見せても、「ね」と僕に言われて、そろそろとソファに腰を下ろした。僕は紗鈴ちゃんのさらさらの髪を撫で、「つらいだろうけど、一緒に頑張ろ」と言った。
すると、紗鈴ちゃんの瞳が震えて濡れて、ぽろぽろと雫が頬にしたたっていく。
「……つらい、です」
「うん」
「私、どうしてこんなに上達しないのか……頭が悪くて、自分で嫌です」
「頭が悪いってことはないでしょ」
「でも、……何というか、要領は悪いです。瑞砂さんみたいにできない」
「瑞砂くんと較べなくていいんだよ」
「私なんか、ここにいても邪魔なんですよね。分かってるんです。ママは、私が『辞めます』って言うの待ってるから」
「僕は紗鈴ちゃんに辞めてほしくないよ」
「けど、私は……ほんとは、辞めたいです。もうずっと前から、辞めたいんです」
紗鈴ちゃんの涙を見つめる。雫は顎に伝って、胸元や膝に落ちていく。
僕は紗鈴ちゃんの手を握りたいけど、そうしていいのか分からない。
「続けてほしいな」
「えっ」
「僕、紗鈴ちゃんの愚痴でも何でも聞くし。仕事もなるべく助けるから。ここにいてほしい」
「咲羽さん……」
「僕は、紗鈴ちゃんがカウンターにいるとほっとするよ」
「……咲羽さんは、優しい、ですね」
僕は小さく照れ咲って、好きだからね、という言葉は飲みこむ。
本当に、まったくもって、できない子なのに。どうしてこんなに惹かれるのだろう。顔がかわいいというのはあるけれど、たぶん、あまり実践で報われなくても努力はしているところだと思う。彼女はとろいし、鈍いし、遅いけど、いつも一生懸命ではあるのだ。
「あの、俺、先に上がってもいいですか」
不意にそんな声が割って入り、見ると瑞砂くんだった。紗鈴ちゃんは慌てて泣き顔を伏せ、「いいよー」と僕は脚を組む。
「じゃあ、戸締まりお願いします。ロックの方法、咲羽さんは知ってますよね」
「知ってる。じゃあ、お疲れ様」
「お疲れ様です。紗鈴ちゃんも、お疲れ様」
紗鈴ちゃんはこくんとうなずき、「お疲れ様です」と消え入りそうに言った。瑞砂くんはいったんトイレに入って、そこで黒服を私服に着替えると、リュックを肩にかけて帰ってしまった。
さて、と僕は考える。紗鈴ちゃんとふたりきりか。
ここだと落ち着かないかもしれないし、ファミレスでも誘うか。というか、紗鈴ちゃんってそういえばひとり暮らしなのか、実家暮らしなのか。朝帰りになって大丈夫だろうか。
紗鈴ちゃんは鼻をすすって、涙をぬぐっている。
「紗鈴ちゃん」
「はい」
「どっかでごはん食べていこうか」
「えっ」
「紗鈴ちゃんの話、聞いてあげたいし」
「………、」
「あ、もちろん僕でよければだけど。ほかに聞いてくれる人いる?」
「……いえ。友達とかもいないので」
「そうなの。彼氏──も?」
「いません」
「そ、そっか。まあ、僕も今はフリーだけどね」
「そうなんですか。彼氏……彼女? どっち……ですか」
「どっちも──いける、かな。僕は」
「そう、ですか」
……何だろう。何か気まずい。紗鈴ちゃんとこういう話するの、めちゃくちゃ恥ずかしい。客や泪音とは、ばんばん話せるのに。
「あんまり、僕は頼りにできないかな」
首をかたむけて訊くと、「あ、いえっ」と紗鈴ちゃんはやや慌てたように言う。
「咲羽さんがよければ、……話は、したいです」
「ほんと?」
「昔、話して少し楽になってたから」
「昔」
「その、心療内科というか」
「ああ。今は行ってないの」
「実家にいるときでしたから。今はひとり暮らしで、遠くなってしまったので」
「そっか……」
心療内科。考えたことがなかったけれど、紗鈴ちゃんは過去に何かあるのだろうか。それでそんなに不器用になってしまったのだろうか。
「じゃあ、まずは紗鈴ちゃん、着替えておいで。僕、一番近いファミレス検索しておく。ファミレスでいい?」
「はい。すみません、面倒かけて」
「そんなことないよ。気にしないで」
紗鈴ちゃんは立ち上がり、頭を下げるとカウンターの中を通って、衣装部屋に行ってしまった。紗鈴ちゃんは黒服でも、そこでの着替えを許可されている。
僕は充電がじりじり減るスマホで、マップ検索をした。歓楽街を進んでも〈ピーチィミルク〉のような店しかないし、駅方面か。駅周辺で検索をかけると、二十四時間のファミレスとカフェがヒットした。カフェでもいいけどな、と思いつつ、ひとまずファミレスを目的地に設定しておく。
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