月と密葬
幻想世界をいつまでも揺蕩っていられないのは、これまでの自慰生活で分かっていた。
自慰で幻想を幻想として片づけたのなら、事は無害に済まされる。いくらかティッシュを消費し、それがゴミぶくろに行くだけで、また欲しくなれば性器をこすってしごけばいい。
しかし、幻想を現実として味わったのなら、続く道は悪夢だ。他人の命を犠牲にしたツケに、がらくたになった軆を抵触して処理し、また欲しくなればまた殺す──
熱っぽく惑った夢が冷めると、一気にそんな冷酷な現実が襲いかかってきて、猛烈な恐怖に圧倒された。
自分の下で、精液と陰毛にぐちゃぐちゃになっている彼女に飛びのき、拍子にベッドを転げ落ちた。胸の奥が泥沼になって、心臓がめちゃくちゃに崩れ、その早鐘に頭ががんがんした。
どうしよう。やってしまった。とうとうやってしまった。ついに境界線を越えてしまった!
恐慌と衝撃に正気ががつんと砕け、捻じれた悲鳴が上がりそうだった。確かに、僕はこうしたかった。だけど、実行する気なんてなかった。そんな自律は他律にひしがれ、“彼”に引きずられ、実行させられてしまった。
“彼”は放埒を極めていた。状況は後退不能だった。せまい密室で水責めされるような、逃げられない確実な恐怖が僕を狂乱させる。最悪の事態がくるくると眼前を踊り、いくら振りはらおうとしても消えない。陰惨な絶望が取り返しのつかない刻印を焼きつけ、“彼”に置き去りにされた僕は動顛に打ちのめされた。
寸裂の統覚におろおろしながら、どうにかしなくてはと思った。どうにか──とりあえず、消さなくてはならない。そう、なかったことにするのだ。
こんなのが発覚したらおしまいだ。変態あつかいでさらされる。そんなのは嫌だ。顔に光を当てられるのだけは嫌だ。こんな厄介は闇に消滅させてしまうしかない。どうせ責任なんか取りきれるものではない。
逃げきらなくてはならない。いつまでも自己憐憫に浸り、無気力に舞い戻るわけにはいかないのだ。僕がやったのが事実だ。真実なんて、誰も分かってくれない。ならば、僕も事実にそって行動するしかない。僕に穢された彼女は、確かにそこに横たわっている。消去によって清める、それは僕の使命だった。平穏を取り返すには、絶対避けてはならない任務だった。
ひとまず彼女を毛布にくるんで視界から消すと、混沌に窒息する頭を抱えて部屋をうろうろした。立ち止まると膝が震え、座ると貧乏揺すりが耳障りだった。どうやって消そう。テレビや新聞の情報をひとつひとつ思い返した。
セメントでかためる。無理だ。海に沈める。海がない。焼く。そんな火を焚く広場はない。ばらばらにまきちらす。僕の交通手段は足か自転車だ。壁に塗りこめる。そんな壁がない。天井に隠す。腐臭でばれる。床に埋める。同じく。では、山に埋める──
顔を上げた。そう、ここには裏山がある。子供の頃、木にやつあたりにいっていた山だ。ひとまず、あそこに埋めよう。もっといい方法が思いついたら、そのとき掘り返せばいい。活路が見つかるとそちらにひた走り、僕は彼女を山に移動させるものを求めて部屋を漁った。
小学校の林間学校であてがわれた、やたら大きい旅行かばんが見つかった。僕はそれに華奢な彼女を押しこめた。死後硬直というあやふやな知識がよぎったが、そんなに硬くなかった。ただし、ねっとりと臭いを立てながら、糞尿は流れ出しはじめていた。排泄物がこぼれないよう、僕は彼女を尻から折りたたんだ。そして重いかばんを踏んばって抱えると、音も気配も殺して家を出た。
深夜だった。息がくっきり白く、全身を緊縛するように寒い。上着も羽織ってこなかったが、そんなのを気にしているヒマはなかった。いずれにせよ、動揺に発熱し、汗もかいていた。それでも、裏手にまわって寒風にあてられたときは、さすがに心臓が引き攣った。けれど、おかげで闇雲に突っ走るのを自制でき、周囲に適度な注意をはらえた。重みにふらつきかけるのを何とかこらえ、人目を盗んで裏山にたどりついた。
一段と冷えこみ、かすかに靴底がめりこむ山中をのぼる。この小さな山の向こうには、別の住宅地があり、山頂が境で、こちら側の中腹でたちどまった。林は茂っていても、鬱蒼ともしておらず、空を清冽に照らす月が覗ける。
僕は彼女を地面に引っ張り出し、声をもらした。僕はシャベルどころか、スコップも持ってきていない。ためしに爪先で土をえぐると、腐った枯れ葉の表面は柔らかくも、地面は氷結していた。
僕は自分の間の抜け方にうんざりして、陰気な自己嫌悪にさいなまれた。庭の手入れのために、倉庫にシャベルがあるのは知っている。上着のついでに、今から取ってこようか。しかし、ここに彼女を放置して、また来る勇気があるだろうか。いや、そうしなくてはならない。これは僕の義務だ。僕は臭う彼女に腐った枯葉をかぶせ、身元が割れるかばんを残して自分で自分を脅迫すると、上着とシャベルを取りに家に帰った。
思い起こせば、今は年末だった。近所の住人たちは、スキーや避寒にいったり、三人家族のように帰省したりしている。要は留守で人が少なく、それは僕をおびやかす重圧をずいぶん軽くした。年末年始に浮かれる単純な隣人たちに感謝し、折りたたみのシャベルや必要な諸々をリュックにつめこむと、防寒もかためて山に戻った。
熱湯を入れた水筒を連れてきていた。それを氷結した地面にまけば、少しは柔らかくなるかという浅知恵だった。ないよりマシだった。少なくとも、金属のシャベルで硬い地をつき、甲高い音を立てるのは免れた。焦っていたので、悠長におおきな深い穴を掘る気はなかった。どちらにしろ、深層部を掘る量の熱湯はなかったし、地表自体が硬くなって時間がかかる。
のこぎりを持ってきていた。それで彼女をばらばらにして、点々と埋めるつもりだった。
恐怖と恐慌に追いたてられ、何時間も穴を掘りつづけた。ざくざくという掘り返す音が、秒針のように脳を圧迫する。荒い息が白く立ちこめる。最後のほうでは、全神経が寒さに麻痺し、彼女を枯葉からひきだすのも困難だった。白い裸体を何とかあらわにさせると、垂れた糞尿には再び枯葉をかぶせ、発火する懐炉で指先をなぐさめる。
そして、まだ完全な状態の彼女を見おろした。
これで最後なのだと思った。二度と現実では彼女をむさぼれない。視覚で見たり、触覚で触れたりはできない。彼女はばらばらになる。僕は地にひざまずき、始まった死後硬直で首を垂らさない彼女を抱き起こすと、きつく腕におさめた。
僕の手足は、土と冷や汗でどろどろだった。彼女も、枯葉と糞尿でどろどろだった。本当は残しておきたかった。ばらばらになんかしたくない。僕は今、ようやく心から彼女を愛せたのだ。僕だけの物になった彼女を。だが、彼女を手元に置いておけば、僕は間違いなく終わる。僕は彼女をよく見て、よく抱きしめた。
枯葉がついた髪、閉じた睫毛、土まみれの頬に舌が垂れた口──青黒かった顔は、次第に黄ばみつつある。あるいは、その色合いは月光のせいだろうか。蛇の死骸のように伸びた手足、泥や枯葉がまだらになった軆、そして汚物がべったりとこびりついた性器──
僕は性器を取り出した。勃起していた。そして、彼女の醜い性器に向かってこすった。こすりながら、左手で彼女の股間を躊躇なくひらく。糞尿がまるで濡れているような音を立てる。耐えがたい悪臭すら馨しく、僕はそこに一気に性器を突き立てた。
白い息を吐き散らしながら、無抵抗の肉体を激しく犯す。彼女は脚を絡めるものけぞるもせず、僕の貫通をただ受けた。相手が気持ちいいかなど気にしなくていい、乱雑な動きをくりかえし、やがて僕は飽和した情熱をたっぷりと吐き出した。
しばらくそのまま、中に留まっていた。やっぱり離れたくなかった。もう二度と会えないなら、なおさらだ。けれども、僕は見つかりたくない。そっと性器を引き抜き、少し冷ました例の熱湯で洗うと、ズボンにしまった。僕は彼女との別れを覚悟し、のこぎりを持ち上げた。
しんとした月明かりの下、僕は血まみれになった。土もだいぶ血を飲みこんだ。寒さで嗅覚が麻痺したのか、僕にとってそれは悪臭ではないのか、生臭さは感じなかった。関節を切りはなすのが、もう力など入らない僕にはつらい作業だった。
切れ端になった彼女を、次々といくつもの穴に葬っていく。最後に首が残り、埋めようとしたけれど、できなかった。穴に落としても、土をかけられない。地中の彼女を見つめ、未練がましい僕は、それだけ持って帰ることにした。
三人家族が帰ってくるのは五日後だ。その前にまたここに来て、そのとき最後の別れをすればいい。彼女の首をリュックにいれると、仕上げに土を混ぜかえして血を隠した。血や泥のついた上着を脱いで平凡なすがたになると、明け方直前、人目をかいくぐって悪夢の一部と帰宅した。
眠気もなく、のこぎりとシャベルを風呂場で洗った。入念に点検してから倉庫に戻す。上着と旅行かばんはつけおきして、熱いシャワーを浴びると、水筒を片づけ、リュックと部屋に帰る。彼女の首はつくえに置いて、リュックはクローゼットにしまった。ベッドを戻すと、ふとんの下敷きになっていた彼女の荷物が見つかった。すべてゴミに出した。
彼女の首とは、一月三日まで過ごした。僕は依然として恐怖の竜巻に捕らわれていたが、彼女を見つめて自慰し、フェラチオさせるときは気絶したように落ち着けた。三人家族が帰ってくるというより、腐りはじめたので、僕は彼女を他の軆と共に地に還した。
そうして僕は、秘めやかな幻想が、おぞましく現実に流出した証拠を、残らず抹消した。
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