死華花-13

次なる生贄

 事実の全滅は、残された真実を際立てる。
 その日、僕が消したのは、表面的な事実であり、真実は呵責として記憶に深く食いこんだ。あの夜を永久に忘れられないよう、僕は義務づけられたのだ。僕は生きることを貶め、自分の魂に致命的な汚点をつけてしまった。けして消えない、受け入れるのも耐えがたかい、邪悪をうながす不吉な傷口を。それは常人としての正常を決壊させる、孤独への亀裂だった。
 僕の行為は発覚しなかった。さっさと発覚したほうがマシだったかもしれない。でも、僕と彼女には表向きには何の接点もなかった。僕は保身のため、彼女は恋人のため、関係がおおやけになるのは恐れていた。完全な秘匿が僕を明るみから保護し、不審人物として浮上させるのを妨害した。自首なんて眼中になかったし、そもそも彼女は、殺されたのでなく失踪したことになっていた。
 彼女はかねがねつきあっていて、自分のために離婚した教師と結婚したいと打ち明け、親と喧嘩して家出した。ここで僕に不審の目が向くのは、僕の不安にかられた悲観以外でありえない。矛先は必然その教師に向かい、僕は少しずつ発覚の恐怖は逃れていった。
 しかし、内面的な恐怖は僕の骨髄に蔓延った。つきまとう不安の暗雲は、常に忌まわしい記憶の影を落とし、不意打ちに精神に雷撃を与えた。安息は許されなかった。
 一番恐ろしいのは強迫観念──“彼”で、それは僕の精神の均衡もひしぎ、さらなる生贄を要求した。それがゆいいつ僕に許された慰安でもあった。殺して、心を取り除いた肉体に没頭し、刹那的に現実を逃避する。
 どうしたらいいのか分からなかった。こんなすさまじい恐怖なら、一秒でも長く忘れたい。でも、実行したあと倍増しになった恐慌に引きちぎられるのも嫌だ。
 僕は後悔していた。あの夜、自分の魂を冒涜し、人生を台無しにしてしまった。僕は恐怖にしがみついた。本心では堕ちてしまいたくも、なけなしの自我で耽溺への堕落を拒否した。だが“彼”の圧力は絶大で、逃げても逃げても背中にかかる貪欲の影を抜け出せなかった。
 うわべでは、僕の生活は相変わらず凡庸だった。陰気で退屈で礼儀正しい凡人だった。誰とも打ちとけず、最低限の愛想しか使わず、たいていは鬱にこもって滅入っている。三年生になった学校でも、居候のような家庭でも、殺人者となる前と何ら変わりなかった。
 しかし、内面は崩壊的な混濁にあり、始終起こる錯乱に彼女がよぎっては、悪夢の心象に胸をえぐられた。生きているのが、いっそう後ろめたくなった。事実もろとも記憶を削除しようともした。意思で消せる血痕ではなかった。
 深刻に自殺を考えても、やはり勇気がなかった。自分には死しかないと分かっていた。僕は死でしか止まれないのだ。死なない限り、また陥落し、魂を傷つけ、きっと悪循環に取りこまれていく。
 僕はあの夜についた傷口の出血を抑えようとしていた。“彼”はそこを突き破り、狂気をほとばしらせようとしていた。表面はぼんやりしていても、内面では妄執と闘いつづけていた。
 このまま生活していたら、何か起きるのは必至だ。僕は幻想をはねつけ、ポルノも処分し、自慰の回数もできるだけ減らした。そうして、今にも自分を押しつぶしそうな土砂に、必死に現実という堤防を立てた。自分の卑しさはじゅうぶん承知していた。けして逃げられない自分にびくつきたくなくて、僕は真っ当になろうと努力した。
 そこに人づきあいはふくまれていなかった。むしろ、さらなる孤独に沈んだ。もう僕には、孤独しかなかった。人と関わるのが怖かった。元はといえば、彼女も僕と関係してこんなことになった。僕は人と接してはならないのだ。彼女の死は僕にそんな自戒を与えた。
 僕は人を傷つけるしかできない。僕は僕を主張してはならない。引きこもって、それでかろうじて存在が正当化される。僕は孤独の殻に身をひそめ、二度と誰とも関わらないと誓った。こんなみじめな恐慌は一度でたくさんだった。内界に巣くって外界を隔て、すべてを締め出した。それで“彼”が標的を見つけて絶大な魔力を発揮するのをさえぎり、不満や苦痛には目をつぶり、精神の瓦礫と沈殿した。
 死力の禁欲生活は、半年以上続いた。彼女の幻影はなおも僕を苦しめ、僕は次第に消耗した。いくら押し返しても押し返しても、それはやってきて、衝動で僕を飲みこもうとする。やがて僕は、この苦闘を徒労だと感じはじめた。苦痛が過ぎて麻痺が起こり、ヤケになりかけていた。
 僕は脆弱だった。この圧迫をやわらげるのは、抑圧ではない気がした。では、何が僕を救うのだろう。告白だろうか。彼女のことは、みんなすっかり忘れている。いまさら掘り返して波を立てるのも間抜けだ。
 何か上塗りしようか。“彼”と抱き合って、腐敗を突き進んだらどうか? さもなくば、死だ。僕は真っ二つの選択に立っていた。腐蝕か死去か。どのみち報われない。僕が何かの恵みになる日は、間違いなくやってこない。だったらバカげた幻想を突きつめ、徹底的に自分を汚辱したほうがいいのではないか。
 ふれた指針に抑圧は徐々に弱まり、僕は再び、あの幻想に溺れるようになった。十八歳になった特権でポルノを買いこみ、無尽蔵な自慰にふけった。
 死体をイメージした。無言で受け入れ、何も求めず、眺めてまさぐらせる美しい物体を。
 ところが、昔のように興奮できなかった。長らく抑止していたせいかと思ったが、違う。僕の空想は使いすぎてすりきれ、現実に破裂するほかは刺激にならなくなっていた。彼女を陵辱してさらなる快楽を覚えた欲望が、もう空想では満たされない免疫を作ってしまったのだ。つまり、僕の欲望は現実化しないと満足できない、頭の中の絵空事ではかえって欲求不満になる、驕奢なものになっていた。
 それは僕を焦慮と不安に憑りつかせた。吐き出せずに滞納した欲望は、かなりいらだたしいものだった。勃起するだけで達せなかったり、萎えているままのときさえあった。射精したい欲求はある。その欲気が下肢に染みつき、解放はできない。僕は集中力を失くして不機嫌になり、自慰もできない自分に塞ぎ、満たされるには何をしなくてはならないかに怯えた。
 彼女を密葬して一年が過ぎた十八の冬、僕はついに狂気に敗北する。死んだほうがマシだった。なのに僕はしぶとく腐るのを選んだ。今回の犠牲者への仕打ちは、まさに悪魔的だった。僕の中では彼女への行為よりマシに思えたが、客観的には恐らくむごい陵辱だ。
 ずっと抑えつけられていた幻想の息吹は、凶暴なまでに研ぎすまされていた。その白熱の生贄になったのは、まだたった十二歳の少女──僕の妹だった。

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