死華花-15

葬送の花

 僕は泥の中に横たわっていた。手足はどろどろで、服も真っ黒だ。地面にうつぶせると、濡れた頬に顔も汚れる。
 泣いたのなんて、何年振りだろう。全部終わった気がする。早くこんな日が来るべきだとは分かっていた。けれど、実際なってみるとつらかった。
 振り出しに戻ったのだ。そしてそこに監禁された。二度と駒を進めることはできない。サイコロを振ることもできない。
 僕は無に収容された。生まれる前から死んだあとへ、人生を飛ばして無価値に消えるように。単なる肉のかたまりとして、魂の意義を欠落させ、心情も尊厳もない、連綿と鼓動を打つからくりの物体として生きろと──
 受けさせられた大学受験に失敗し、僕は高校卒業と同時に引きこもって過ごしはじめた。世界は完全に部屋におさまり、それは非現実的な幻想をあおるのにあまりに都合がよかった。断絶に秘匿された密室で、幻想は危険なまでに増長し、高まり、苛烈に熱された。僕は一段と夢想に取りつかれ、ポルノをあさって自慰し、中学生になった義妹を媒介に射精した。
 が、その生活は長くは続かなかった。
 五月のなかば、言い換えれば今日、ポルノ雑誌を買いにいって帰宅すると、妹がすでに帰っていた。父の靴も義母の靴もあったので、彼女に何かしようとは思わなかった。
 いつも通り、気配なく二階に上がろうとしたら、いきなりリビングで義母が泣き出す声が聞こえた。その唐突さにわずかにびくりとして、耳を澄ます。本当なのかと父親の信じがたそうな大声が重なり、だから早いうちに施設に追い出せばよかったのよと義母が悲鳴じみていった。妹のすすり泣きも響いていて──
 僕もそこまで鈍感ではなかった。妹がしゃべったのだ。あいつはどこに行ってると父が遠い昔に毎日振りかざした大声で言ったときには、僕は反射的に家を飛び出していた。
 薄暗い道路を走りながら、心臓が狼狽に破綻していた。焦心と恐怖が絡みあって、吐き気を催した。
 どうしよう。ばれてしまった。とうとうばれてしまった。僕の秘密がさらされてしまった。
 この愛が罪なのは分かっていた。世界に受容されない人間が、まやかしでも愛されたくて密造した愛だ。外界に絶対にばれてはならない、模造の愛だった。
 それが暴露された。どうしよう。世界は僕の非望を罰する。たたきつぶして、今度こそ孤独に追放する。そんなのは嫌だ。何かに逃げこみたかった。でも行くところなんてない。誰も僕を受け入れない。だから物体を愛したのだけど、実際受け入れさせたものなんて──
 ……ある。そうだ。彼女だ。彼女に会いにいこう。まだ山にいるはずだ。彼女は僕を待っている。待つしかできないのだから。抱えていた雑誌はいつのまにか落とし、無我の全力で裏山に急いだ。
 あやふやな記憶をたどり、彼女を埋めたあたりに行った。月がくっきり覗ける場所だった。シャベルもスコップもない僕は、無意識にさけてきたその場所に着くと、素手で土を掘ろうとした。硬くて表面しか崩せなかった。立ち上がり、靴で地面をえぐった。それで表面をやわらげると、再び這いつくばって土を掘りまくった。
 初めは、再会に胸がふくらんでいた。掘っても掘っても見つからないうち、焦慮と不安が立ちこめてきた。
 どうしたのだろう。どこか行ってしまったのか。まさか。彼女は死んで、意思なきものとなった。ここにいるはずだ。なのに、いない。
 何で。ここではないのか。場所を変えて掘った。山をうろうろして、手あたり次第掘った。いらいらしてきて、殴るように掘った。涙がこぼれてきた。爪が剥がれても掘った。
 彼女の痕跡は発掘されなかった。どこに行ったのだろう。消えてしまったのか。いてくれると思ったのに。僕は死体にすらそっぽを向かれたのか。そんな──
 僕は地面に突っ伏して泣き出した。泣きながら、地面を引っかいた。指先がずきずきしている。それでもひりつく孤独感に抗おうと、彼女を捜した。
 不安が腫れあがり、虚しさが襲ってくる。恐怖が全身に広がっていく。彼女は見つからない。僕はひとりなのか。本当にひとりなのか。死体さえそばにいないのか。闇が内攻する。真実が僕を嘲笑う。掘れば掘るほど何かを失う。大切なものが逃げていく。幻想が死んでいく。どんなに掘り返しても彼女はいない。誰もいない。僕の身分がきわやかになる。
“ひとりぼっち”──
 ついに僕はだるさに腕を止め、止めたらもう動けなくなった。
 そうして、あの白昼夢を手放せなかった訳をやっと理解する。こうして奈落の絶望に堕ち、途方もない虚しさに置かれて理解する。あの邪悪な幻想は、僕のすべてだった。あれには僕の存在がかかっていた。僕はそれを唾棄すべきだと承知しながら、どうしても捨てられなかった。
 なぜなら、あの白熱の妄念は、僕の心の息吹であり、血の気であり、それを失くせば蒼ざめて凍りつき、死ななくてはならなかった。今こうしてそれを失くし、空っぽになってみて、消滅するのが恐ろしかった自分がよく分かる。
 幻想は僕の中枢を蝕みきっていた。僕が僕であるという心臓に根ざし、幻想は繁殖した。心臓を切り取れば死ぬ。幻想が消えることは、“僕”が消えることだった。自分の存在を犠牲にしなければ、僕は正義を執行できなかった。
 今、僕は精神の心臓を空洞にし、生きる意味も存在する価値も失くしている。これまでだって、そんなものはなかったのだけど、幻想によって正当化することもできなくなってしまった。
 幻想が心臓を棲み処にしたのは、邪悪の力でも何でもない。僕がそれを“愛”と名状したからだ。邪悪が生まれたのもそこからだ。愛は人の枢機に宿り、その魂を上品に包む。愛と呼ばれて幻想は僕の中枢に降り、だが虚構なので神聖になれず、僕の心を卑俗で支配した。
 なぜ“彼”があんなに強力だったかも分かる。“彼”は自我より存在を推奨していたのだ。幻想に内包された、僕の存在を守護していた。ただし、善悪の眼識がなかった。もし僕の幻想が健康だったら、“彼”は心強い倫理となっていただろう。
 結局、悪いのは僕だ。自分を守る愛をゆがんだものにした僕が悪い。すべては僕に従っていたにすぎない。臆病で、人と向き合う自信がなく、裏切られて傷つきたくなかった僕に。“彼”はひどく非人間的だったが、同時に僕の『認めてほしい』という人間的な悲鳴でもあった。“彼”──強迫観念は、僕の防衛本能だった。
 死者への幻想は、僕の慰安だった。それを失くしていよいよ無価値になるのが怖くて、僕は罪を手放せなかった。僕は人の役に立てなかった。だからせめて、自分で自分を必要としようとした。それが誇張され、あんなかたちに成長してしまった。
 僕はひとりだった。本当にひとりだった。誰もいなくて、何もなくて、あの幻想が初めてそばにいてくれた。どんなに悪いものでも、そこが大切だった。ひとりぼっちの僕には、弁別より、この心に寄り添ってくれたのが許否の基準だった。
 いつ犯されたのかは分からない。遠い昔、生まれたばかりの頃、僕の心にこんな細菌はなかった。あるいは、僕は先天的に心が奇形だったのか。あらかじめ精神を毒されていたのか。母親の胎内にいるときから、死体を愛するよう定められていたのか。
 たぶん違う。いつ毒が寄生し、いつ始まったのか。それは分からなくても、孤独が病菌を増殖させたのは分かる。なぜ誰も助けてくれなかったのだろう。まだ消せるうちに、切除できるうちに、ほんの少しでも健康が残っているうちに、僕の心を癌細胞から救ってくれなかったのだろう。僕は完全に蝕まれてしまった。僕を救う切っかけなんて、幼い頃ほどたくさんあったはずだ。そこで、僕は思い出す。僕の幼少期が、父の怒号と母の痛みのため、抑圧されて何もなかったことを。
 透けた理解に胸が重力を失くし、僕は仰向けになった。月が見える。自分の存在の軽さが、垂れこめる雲のように重い。いや、軽いというより無いのだ。精神の壊死に肉体の衰退が追いつくのを待つばかりだ。
 何もない。変わることも、進むことも、当然戻ることもない。何もかも知ってしまった。現在に監禁され、虚ろな時間に人生を無駄にしていく。生まれる必要がなかった魂は、ずたずただ。何もない絶望だった。幻想も砕かれたまったくの無、いっさいが孤立した絶望、光という観念自体がない世界、自認も奪われた平衡感覚が狂う暗闇、這いあがる壁もおちぶれる床もない。
 僕は永遠にこの真空の孤独に閉じこめられる。死も許されず、生きているせいで垂れ流れる思索にさいなまれて、自覚だけが冴えわたり、その木霊に鬱し、長く退屈な余生に気を遠くする。
“奴”を感じる。僕は“奴”が怖くて、“彼”を芽生えさせた。“奴”は孤独の象徴だった。僕のありのままの真実の集合体だった。僕は“彼”で真実に抵抗しようとした。孤独ではなくて、無価値でもなくて、存在していてもいいと──愛をもって闘おうとした。合法の愛を教えられなかった僕は、そこで非合法の愛を取ってしまった。拒否させないために支配し、そばにいさせるために所有し、心を交わす必要をなくすために物体化する。しょせん“奴”の磁気に犯されながら、死者への愛をかたちづくった。
 それでようやく、居場所を確立したつもりだった。ダメみたいだ。彼女は見つからない。死すら僕に永遠をくれない。僕は永遠の愛が欲しかった。その想いによって、永遠に生かされてみたかった。だけど、誰も僕なんて想ってくれない。いつも捨てられる。妹にも、彼女にも、母親にすら──
 僕は、自分を抑えれば抑えるほど人を幸福にする。見るだけで滅入り、触れるだけで指が腐り、関わるだけ心が傷つく。こんな存在に、何の意味がある? いっそ死んで消えてしまいたい。魂の残骸がそんなのは嫌だと言う。けれど、それが僕の真実だ。死んで消えるしか、僕には能がない。
 死体への幻想は僕の魂の欠片で、存在の切り札だった。かろうじて見つけた愛であり、心のなぐさめだった。美しい死体を思い描くとき、僕は孤独を癒されて自分の魂の息づきを聴けた。しかしこうして死体にも拒否された。
 僕はいったい、何を愛せばいい?
 身動ぎをすると、視界の端に白いものがぼやけた。うつぶせになり、這ってそれに近づく。
 花だった。小さな白い花が、少し泥をかぶって咲いている。僕の吐息が触れるとかすかに揺れ、泥が落ちて純白があらわになった。月明かりを反射して、花びらはほのかに光っている。花はそこを動かず黙って咲いていて、それを見つめているうち、僕の胸には切ない愛おしさがこみあげた。
 花に触れて、そっと頬をうずめた。土の匂いに混じって、花の香りがする。
 僕はこんな人が欲しかった。ずっとそこにいて、寂しさを温もりで癒してくれる、花のような人が。そんな人がいれば、病んだ妄想も強迫観念もいらなかった。
 孤独なんて知らなければよかった。そうしたらきっと救われていた。ただやすらぎを知りたかった。優しくそばにいてくれる、暖かく柔らかい、微笑む花のような人の隣に眠って……。

 FIN

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