真夜中の鼓動
とはいえ、僕に死の味を教えたのは、深夜のホラー映画だった。
自分がいつ“死”を知ったのかは忘れたけれど、意識しはじめたのは十歳の夏だ。夏休みの真夜中だった。
奴──心に棲む何かに取り憑かれて眠れず、虚脱しながら一階に降りた。奴に取り憑かれると、身動ぎも生死に関わる気がしてくる。何となくテレビをつけ、偶然放送されていた惨劇に、僕の心は生まれて初めて脈打った。
殺人鬼物で、後半三十分で三人が死ぬ脈絡のなさだった。僕は、途中からその映画を録画した。最大の見せ場である、血飛沫の場面に用はなかった。大半の被害者は殺人鬼の斧でばらばらにされたが、ひとり、斧をはらったために絞殺される女がいた。
僕はその場面を巻き戻し、何度も観た。命を絞り出された瞬間、殺人鬼の垢じみた手を引っかいていた華奢な指から手がだらりと垂れ、がくんと白い首が曲がり、ほんの一瞬、血にまみれず綺麗なままの死に顔が映る。僕はその場面を一時停止し、じっと凝視した。
演技だ。分かっている。だが、これは死人だと思いこめれば、じゅうぶん昂ぶった。
死んでいる。この女はもう死んでいる。だから、僕がどんなことをしても、黙って受け入れる。そんなイメージが強烈に湧き立てば、その映像を崇拝できた。
たびたび、夜中に一階に降りて、彼女のひとコマを何時間も見つめた。テレビが一階にしかないのだ。見開く力が消えて虚しくなった青い瞳、喘ぎも失くして舌が伸びた口元、くたくたのぬいぐるみのような首の湾曲、決して逆らえない堕ちた手──
どきどきしていた。なぜ自分がそんなに死人の顔に惹かれるのかは分からなかった。それが“人”ではない、“物”だという事実に、わけも分からず興奮した。その死を見つめ、どんなことをしても嫌がられないのだと、頭の中で無制限に空想にふけった。その無秩序があたえる解放感に、僕は初めて心に熱っぽさを覚えた。
深夜にホラー映画が放映されると、こっそり録画したり、録画できなければ起きて観にいくようになった。わざとらしく噴き出る血は目障りだったものの、何も観ないよりマシだった。
家族とレンタルショップに行くことがあった。父と義母が、義妹を連れて新作コーナーをうろついているあいだ、僕はホラーコーナーでパッケージをうっとり眺めた。ケースのスチールは、的確な場面を切り取り、停止させている。
借りはしなかった。父たちに顰蹙される以上に、死のイメージを守りたかった。せっかく静止画で、理想に沿った陶酔を感じているのに、生きて動いているのを見たら台無しだ。
僕の引きこもりを除けば、家庭は幸福で平穏だった。再婚して切れなくなった父は、四歳になった娘に夢中だ。義母は言うまでもない。無視はされなくても、両親の愛は義妹に流れた。
僕は疼痛も嫉妬もなかった。僕の蒼ざめた心は、この状況は当然だと認識していた。僕は父には挫折した家庭の残り物だし、義母とは何のつながりもない。妹は父には成功の証であり、義母には腹を痛めた愛娘だ。
理不尽でも何でもない。僕が家族に弾かれるのは、正当な処置だった。父と義母と義妹には、僕という人間は家庭に存在せず、病みかけた内向も関心外であり、自分たちの家庭は穏やかそのものだった。
どうせ、僕のほうが外界を断絶していた。僕は極端に自己中心的だったが、相手に不快なほど存在を焼きつけるわけではなく、相手を存在ごと自分に取りこみたいそれだった。心など必要ない。反応など僕をみじめにさせる。人権を略奪して心を損なう。自分に都合よく、相手の心情を創造する。同化した心に束縛をほどく。相手を支配して隣に置いておく。
僕のそばにいるためには、一滴だって僕以外があってはならなかった。だから、他人に異物の心を持って注目されるのは逆に苦痛で、くすんだ存在となる家庭に順応するのはたやすかった。
依然として周囲をはずれていた。家族や同級生は難なく属せる世界が、どうしても蜃気楼だった。つかめず、現実感がなく、追いかけても追いかけてもたどりつけない。
自分が他人と結ばれないことで、他人もまた、僕に近づけないことを承知していた。かけはなれた孤独にいた。みんなの中で閉じこもっているのではない。みんなの中にいられない、漂流した孤立にいた。みんなの世界にいると、無になった。恵みになれず、世界に溶けこむ能力が死んでいた。
十二歳になった晩夏、果てしない運動会の練習にうんざりしていた。団体競技で、“変わった奴”の僕がいると、同級生はとまどった。イジメるも怯えるもせず、どうも打ち解けられないと持て余していた。彼らの困惑に、僕は自分と外界のあいだの真空の被膜を強く意識していた。
憂鬱だった。その気晴らしも兼ねて、家族が寝静まったあと、夕べ録画したホラー映画を観に一階に降りた。
あってないような物語や、血煙の場面は飛ばす。僕が観たいのは、殺戮に意義を持つこんな映画では、申し訳程度にしか描写されない、殺されたあとの死の映像だ。
暗いリビングで、画面の蒼い光を浴びながら、続く早送りにぼんやりしていると、不意に無傷の裸体が画面に横たわった。再生ボタンを押す。それは人殺しの場面でなく、セックスの場面だった。裸体も死体でなく、事を終えた女の肉体だ。
彼女は栗色の髪をシーツに流してうつぶせ、睫毛をおろした顔は横にむけている。隣の男に髪をとかれても無反応で、かすかな肩の息遣い以外動かない。
これまでにも、濡れ場はいくつか観てきた。はっきり裸体を映すのは少なかった。声だけだったり、断片的だったり、服を着たままだったり。それでも、そういう場面のおかげで、僕の性的知識は多少生々しかった。
画面を一時停止すると、彼女の軆を観賞した。くぼんだ背筋、ほっそりした腰、ふくよかな尻につらなる白い腿、すらりと投げ出された脚。
再生ボタンをたぐった。
画面の隅に男が入っているのが邪魔だった。男が割りこんでいない場面をコマ送りで探した。男が何か言っても、彼女は顔を腕に埋めるばかりだ。ついに男は息をついてベッドを降り、彼女がひとりになった。
すかさず画面に捕らえる。
彼女は動かなくなる。死んだように。死んでいるのかもしれない。死んでいるのだ。彼女は物だ。僕が何をしても、何も言わない。彼女は死んでいる。黙って僕を受け入れ、隣にいてくれる──。
突如、蒼白だった僕の心が、どくんと血潮を走らせた。その弾みに堰が外れ、奔流が僕を飲みこんだ。すごい力だった。“奴”に似ている。あれは根底からじわじわのぼってくる感じだけれど。その衝動は正反対で、だしぬけに頭にかぶさってくるようだった。踏んばれなかった。押し流され、崩れ、強迫された。
彼女の軆を凝視する。今までに観てきた映像内の交わりを脳内に走らせ、優美な白い背中にのしかかるのを夢想する。
なめらかな髪をはねのけ、首筋をたっぷり味わい、指を食いこませて全身を撫でさする。抱きしめて、僕の軆をこすりつけて、乳房も性器も目と舌で舐めまわす。
そして、つらぬくのだ。彼女をかきまわす。彼女は何も言わない。物だから。ただ犯される。僕は彼女をまたぎ、彼女を支配する。彼女はああしろとかこうしろとか求めて、僕の没頭を邪魔したりもしない。おとなしく僕の隣に転がって、必要に応じて僕を癒して──
心象は、いきなり切断された。五分経って再生が切れ、画面がくだらない深夜番組に切りかわった。わざとらしい爆笑に、僕ははっと肩を打たれ、そのまま止まって、のろのろと床に体重を落とした。
自分が何に熱中していたのか分からなかった。憶えていたが、分からなかった。みぞおちに動揺が垂れこめる。
また再生しようとは思わなかった。ひとつ息をつくと、とりあえず憂鬱は紛れていたので、片づけて部屋で眠った。
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