死華花-8

触れられる肉体

 高校生になった。高校生活も淡々としていた。学校や同級生が悪いのではなく、僕の活力の怠惰がそうとしか取らせなかった。
 小学校や中学校に上がったときより、知らない人間の寄せ集めだったけれど、外界は外界に過ぎない僕には変わりなかった。周囲にとっても僕は僕に過ぎず、世界じゅうで相談したみたいに、僕への認識は誰しも共通だった。
 社会に野放しにできない、変わった奴──
 僕の澱んだ瞳や虚ろな存在感は、輝く未来や瑞々しい現在を生きる同級生に、失望や衰弱といった裏面を見せる公害だった。生活指導の教師に目をつけられ、ときどき叱責された。僕はうなだれ、上の空でごめんなさいと言った。
 僕は人間として枯渇していた。感情が故障し、滅多に咲わない。咲ったとしても、ただの頬の痙攣のようなものだ。血の気がなく、内心いつも機嫌が悪く、自分を主張しない。積極性も好奇心も、人と関わることもない。ゴミみたいにそこにあるだけだ。
 僕はクズを極めていた。ほかに言いようがない。僕は正真正銘のクズだった。
 疎隔され、疎外し、僕には友人も恋人もなかった。陰気な殻に身をかがめ、家でも部屋に閉じこもり、人間味も生気もない。関わると相手の気分まで憂鬱にさせ、幽霊みたいに得体が知れない。僕には地を踏む足がなく、みんなの世界に属せず、宙ぶらりんで、孤独だった。孤立が深まるほど精神の均衡は崩れ、僕はがらんどうの魂を夢想し、それを卑猥な被写体に宛てては、欲望を右手に吐き出した。
 一年生の終わり頃、僕は例の生活指導教師につかまり、生徒指導室に連れていかれようとしていた。向かう途中、すれちがった女生徒を教師は呼び止めた。
 栗色の髪を肩まで伸ばした、綺麗な顔立ちの女生徒だ。胸のリボンが緑色だから、二年生だろう。教師は彼女の化粧をなじり、ピアスやブレスレットを咎めた。彼女は明らかにうんざりして、「うるせえよ」と振り切って行ってしまった。
 かちんときた教師は彼女を追いかけようとしたものの、僕を思い出し、仕方なくあきらめた。
 説教は僕の人生のように退屈だった。やっと解放され、教室に帰ろうと階段にさしかかったところで、声をかけられた。首を後ろにねじると、さっきの注意されていた女生徒だった。
 ──それが、彼女との出逢いだった。
「あたしもあいつには一年のときから目つけられててね。ジジイだから、話相手欲しいんでしょ」
 彼女に午後の授業をサボるのを誘われ、断る理由がなかった僕はつきあった。屋上に連れていかれ、彼女は慣れた手つきで煙草に火をつける。「いる?」と問われて、僕はうつむいた。肩をすくめた彼女は煙草をふかし、金網にもたれると、女特有の甘い声でしゃべる。
「ああいう旧式の教師って、いつになったら絶滅するのかしら。自分が必要とされてないの、分かってないのかしらね」
 彼女は喉で嗤い、煙草に口をつけた。彼女の唇は、濡れたような桃色だった。肌は柔らかな肌色でなめらかそうで、まばたきのたびに睫毛やまぶたがきらめく。冷めた瞳には見切ったとげがあったが、挑発というかたちで外界に向かっていて、僕のくたばった瞳とは違った。
 金網と向き合って茫漠としている自分を、僕は幽体離脱のように眺める。彼女は僕の視線をたどり、「おばけ見てるの?」と言った。僕は彼女を見た。
「不思議な目ね。見てるものじゃないものを見てるみたい」
 穿った指摘に、僕は金網に向き直った。意識すれば、向こうに春をひかえた青空が広がっているのは見える。でも、意識しないとすぐ五感は放り出される。五官は働いているのだ。だけど捕らえた五感が感情に翻訳されず、知覚への反応ができあがらない。
「一年だよね、ネクタイ青って」
 うなずいた。彼女は灰をコンクリートに落とし、「君のこと前から知ってたよ」と言った。
「やばそうって有名だもん。気になってたの」
 僕は彼女に尻目をし、うつむいた。
 気味が悪かった。何を言っているのだろう。物好きなのか。揶揄っているのか。そうに違いない。
 僕は急に屈辱を覚え、この場を立ち去ろうとした。彼女は僕の唐突な行動に驚き、煙草をにじると追いかけてくる。彼女は僕の手首をつかみ、僕はその指の冷たさにはっとした。
「気に障ったの?」
 また穿ったことを言う。僕は彼女をかえりみた。
「ごめん。あたし、君と仲良くなりたいだけなの」
 目を剥いた。ひどい衝撃だった。この女は狂っている! 僕は彼女の手を振りほどき、屋上を逃げ出した。
 心臓が錯乱し、息が切れていた。何が何だか分からなかった。僕が気になっていた? 仲良くなりたい? 何を考えているのだ。僕と関わっても、不安で心が傷つくだけではないか。
 動顛が過ぎ去ると、困惑した。喜びはなかった。いまさら嬉々と好意に飛びつくには、僕は孤独に没していた。僕は孤独を前提にしないと、人と関わりを持てない。だから物体を愛人にする。直接関わるなんて、とんでもなかった。まして相手に望まれて関わってこられるなんて、そんなのは僕の愛の対極だ。僕の愛の対象は、のしかからせ、自慰させる道具だ。
 彼女は僕に、外界の生命的脅威をふっかけた。僕は恐ろしさに非常階段に縮み、六時間目には授業に逃げこんだ。
 以来、彼女は僕を見かけると、声をかけてくるようになった。わざわざ会いにきたり、公然とまとわりついてくるしつこさはなかったものの、当惑した。彼女が何を考えているのか分からなかった。揶揄っていて、僕が応えた途端に裏切って、勝利するつもりなのではないか。そんな猜疑が消えなかった。
 放っておいてほしかった。自慰にさえ集中できなくなった。生まれて初めて外界に手をさしのべられ、動揺していた。その手を押しのけるのか、握り返すのか、握り返したとして、どのくらいの握力が不快ではないのか、今までそんなのを知る必要がなかった僕は、何も分からなかった。彼女は僕の病んだ安定を揺るがし、よかれあしかれ変化させようとしていた。
 二年生になった。消極的な僕は、誘われるままときどき彼女と時間を割いていた。彼女の真意は謎ながら、彼女が僕のように周囲に染まらない人間なのは分かってきた。読み取ったのでなく、彼女が語ってきたのだが。それに、彼女は“染まらない”であって、“染まれない”ではない。
 僕は彼女を根と触手をもった生者と認識し、隔たりを感じていた。彼女は僕を同族だと思っているらしく、それで近づいてきているらしい。その日も僕は、購買部で昼食を買って、ひとり教室で食べようとしていた。廊下で彼女に逢い、本当は立入禁止の屋上に誘われた。
 昼食の献立は、僕はパンとカフェオレ、彼女は缶コーヒー一本だった。この頃、食欲がないそうだ。僕と関わっているからだろう。金網を打ち立てるフェンスに腰かけ、僕はパンをかじる。義母が仕事を建前に弁当を作らず、学食でもがつがつとおいしい券を買えない僕は、毎日売れ残りのパンを食べている。
「天気悪いね」と彼女が言って、今日は肌寒くて空が雲で湿っているのを思い出す。
 彼女はとりとめなく話をした。同級生たちにはうんざりするとか、あと一年でこんな学校とはお別れだとか、卒業したら好きなことをやるとか──僕は滅多に相槌を打たない。
 卒業といえば、僕は将来、何をしているのだろう。したいことは何もない。死ぬのがちょうどよさそうだが、僕には死ぬ勇気がない。誰かいればいいのに、誰かいるのが苦痛でもある。愛すべき物体がずっと隣にいて、それに向かって自慰できたら──パンを飲みこんでぼうっとしていると、「ねえ」と声をかけられ、初めて彼女がしゃべるのをやめているのに気がついた。
「君って、ずっとそうなの?」
 表情ひとつ動かさず、何がと抑揚なく言った。
「いろいろ。友達いないとか、無表情とか」
 うなずき、二百ミリリットル紙パックのカフェオレにストローを刺す。彼女は缶に口をつけ、「もったいないな」と言う。
「そんな綺麗な顔なのに」
 無反応にカフェオレをすする。聞こえていたが、反応しようと思わなかった。彼女は僕を見つめ、缶を置くと、至近距離に座り直す。僕は少し彼女を見た。
「ほんとだよ」
 彼女のきらきらと生きる瞳は、嫌な刺激だった。
「どうしてそんなに暗くしてるの。すごい美少年なのに。服きちんとして、咲って、髪ほどいたら、絶対人生変わるよ」
 彼女はいくつも指輪をはめた指で、僕のぼさぼさの髪に触れた。彼女の瞳に、自分の陰気な顔が見取れる。彼女のあけすけなお世辞に、僕はかえってみじめになった。
「君が咲ったところ、見てみたいな。どうしたら咲ってくれる?」
 パンを食べた。彼女は指先を僕の頬にすべらせ、僕を自分のほうへ向かせる。そして身を乗り出し、僕に口づけてきた。僕は目を開いてパンを取り落とした。
 彼女の舌は、なめくじを口にふくむような異様な感触で、僕の口を犯してきた。犯しながら、彼女はフェンスを降り、僕の正面に来て軆を押しあててくる。背中に金網が食いこむほど、彼女の胸の弾力が僕を圧する。
 僕は衝撃にほうけ、ただ突っ立っていた。彼女は僕の背中に腕をまわすと、熱い唇を耳元に移してきた。
「こういうのさせたら、変わってくれる?」
 僕の心臓はパニックにおちいっていた。間近になめらかな肌がある。首をかがめれば舌を這わせられる。女の皮膚を間近に感じるのは初めてだった。嫌悪はなかった。むしろ、しゃぶりつきたくなった。
 彼女の“心”が邪魔だった。地面に横たわって、自慰の餌になってくれといって、応じるわけがない。でも僕は、彼女を道具に貶めないと楽しくない。探る手や口に、彼女も気持ちよくさせる技術も加えるなんて負担だ。
 現実を突き破ろうと、ひりつく幻想を抱えた“彼”が猛烈にせりあげてくる。息づく白い肌に、頭が興奮や遅疑で混濁する。欲望をほとばしらせ、孤独を解放されたかった。僕には、誘惑とか求愛といった関係を中和する糸はない。彼女を支配したかった。満たされる方法はひとつしかない。
 そう、彼女の意識を奪い、そのあいだに──僕の膨張する衝動に気づいているのかいないのか、彼女は僕に軆を密着させてくる。
「女、知ってる?」
 彼女は腰を性的にすりつけてくる。彼女の髪は、トロピカルフルーツのような、ややくせのある甘みを香らせていた。たたずんでいるだけの僕に、彼女はもういちど口づける。
「何してもいいんだよ」
 なにをしてもいい──
「もしかして、女、嫌?」
 僕は彼女を見た。
「男がいい?」
 首を振った。「だったら」と彼女は僕の股間に探りを入れた。“彼”が物凄い気炎をあげ、僕を突き破ろうとする。今にも彼女を突き飛ばし、その首を絞めあげ、ひとりゆっくり堪能しそうだった。
 彼女は僕の手を取り、自分の胸に導く。柔らかかった。これまで二次元で見つめるほかなかった肉体が、現実にすりよってきている。幻想が現実に飛び出そうとしているのではない。現実が幻想を呼びよせているのだ。抵抗する理由は何もなかった。理性も道徳も、急速に腐敗していく。
 写真では“触る”のは不可能だった。瞳で愛撫する以外、手や口で楽しむのは無理だった。ポルノは鑑賞しかさせず、空想の補助が精一杯だった。僕はこれまで、女の温柔は想像のみで味わってきた。今、その想像が、自慰に没頭させた心象が、脳内以外でありえなかった感触が、現実に手のひらを圧している。
 指先がぴくんと動くと、乳房はその通りに弾む。本物なのだ。写真じゃない。今、僕は彼女に触れている。三次元に触っている。この手と口に、女の曲線を広げられる目の前にいる。
 彼女はひざまずき、僕のスラックスのファスナーをおろした。僕は困惑した。積極的にされるのは嫌だった。相手には空っぽでいてほしい。相手の気持ちは僕が脳内で創造し、恋人同士の真似事がやりたい。実際の恋人同士は、何があるか知れなくて嫌だ。僕が欲しいのは、僕のためだけに存在し、ずっとそばにいてくれる“もの”だ。
 だが、拒絶が怖くて口ごもっているうち、彼女は僕の性器を取り出してしゃぶりはじめる。自慰が低迷していた性器は、心理より身体で充血した。物体との幻想で快楽と溶け合う僕には、あのイメージが絡まない勃起はひどく奇妙だった。唾液が水音を立てるそこだけ、自分の軆ではない気がする。舐められて気持ちはいい。だが、快感だけでは快楽ではないのだ。僕はぼんやりとしていて、そのうち射精した。
 彼女は僕が散漫としているのに気づいた。「よくないの?」と問われ、頭が空白化していた僕は、何も考えずにうなずいた。彼女は鼻白み、「じゃあ、どうしてほしいの?」と立ち上がる。僕は彼女を見つめた。
 彼女は本気なのだろうか。本気で僕を受け入れようとしているのか。この奇怪な幻想も拒まない自信があるのか。僕の前開きを正すと、「あたしのこと嫌い?」と彼女は僕に軆を重ねる。僕はかぶりを振った。媚でも義理でもない本心だった。彼女が、ではなく、彼女の肉体が、だったが。
 僕は身動ぎ、頑是ない手つきで彼女のふかふかの胸に触れる。彼女は僕の指先を見下ろした。
「ここ、気になるの?」
 躊躇ったあと、うなずく。
「どうしたい?」
 彼女に目を上げた。
「何でもしていいよ」
 相変わらず心臓をつづまらせながら、脱がせたいと痙攣を帯びた声を発した。彼女は僕をたっぷり見つめたあと、「いいよ」と軆をさしだした。
 途端、僕は欲望に圧倒され、このとき、取り返しのつかない悪夢の沼に踏みこんだのだった。

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