進学のこと
小学六年生の夏休みまで、俺は何も考えずに、近くの公立中学に進むと思っていた。
その考えを変えたのは、親友の渚が市内の私立中学に進学すると聞いたときだった。その頃には、渚は機能不全だった家庭を離れて転校し、里親に引き取られて違う町に暮らしていた。しかし、会えない距離ではなかったので、俺たちは休日によく会っていた。
その夏の日も、外では蝉の声が降りしきる中、渚は電車に乗って俺の家に遊びに来てくれていた。「最近の公立は心配だから、私立に行きたいならそうしてもいいよって」と渚は言って、クーラーの真下にいる俺は「ふむ」とこまねいた。
正直、中学のことなんて、まじめに考えていなかった。でも、公立って確かにちょっと頭が悪いかもしれない。俺の兄貴である響くんは、公立の中学でイジメられていた。しかも、理由は司くんと南くんのことであるらしい。
俺も陰口では言われているけど、「あいつの親、ホモなんだって」──俺なら面と向かって言われたら跳ね返せる。おとなしい響くんは耐えるから、調子に乗った相手に「ろくな大人になれない」とかさんざん言われた。
そんな響くんだけど、高校生になってやっとイジメはなくなった。受験でふるいにかけられた人は、多少、自分でものを考えるようだ。
イジメられるのは、怖いというか面倒臭い。私立なら、俺も周りに司くんと南くんのことをとやかく言われないのだろうか。
「俺も私立行けるかなあ」とつぶやくと、「奏とまた同じ学校に通えたら嬉しい」と渚は言った。俺はうなずいて、ひとまず親に相談してみることにした。
「あんた、イジメられるってタマじゃないでしょう」
かあさんはそう言ったけど、司くんと南くんは、自分たちが響くんにつらい想いをさせたと感じていたせいか、「そういう心配が減るなら行ってみてもいいと思う」と言ってくれた。
「別に甘やかさなくていいよ?」
俺の進学の話し合いのため、司くんと南くんの家に来たかあさんは、ダイニングでふたりと向かい合ってそう言った。
三人の兄貴は、それぞれリビングで勉強している。築くんは受験勉強、授くんは夏の課題、響くんは塾の宿題。かあさんの隣に座って濃いめのカルピスを飲んでいた俺は、「陰口だけでもけっこう鬱陶しいもん」とむくれる。
「何か言ってる奴、ほんとは片っ端から殴りたい」
俺の発言にかあさんはため息をつき、「私立なら嫌がらせはないって言えるの?」と訊いてくる。
「まあ、イジメなんかやってたら退学とかなるんじゃない?」
「そんなもんなの? 公立と私立のそのへんの違いなんて、あたし、よく分からなくて……」
「何なら、僕と司で調べてみるよ。とりあえず、奏自身は私立に行きたいんだね?」
「うん」
「奏がそう思うなら、尊重してもいいんじゃないか。金はかかってくるかもしれないけど、俺たちは三人いるわけだし」
やった、と思っていると、「しょうがないなあ」とかあさんもしぶしぶ納得した。
そんなわけで、夏休みのあいだに俺が私立に進学するのはほぼ決まり、渚も同じ学校に通えるのを喜んでくれた。もちろん、通う前に受験を受けなくてはならないけれど、もともとそんなにひどい成績ではなかったし、首席で進学校に入学した響くんも勉強を見てくれる。
冬、中学の最寄り駅で渚と待ち合わせて一緒に試験会場に向かった。響くんが中学レベルの知識は植えつけてくれていて、ほとんど引っかからずに解答していくことができた。
そしてその春、俺と渚は無事合格できた私立中学に通いはじめた。
渚と同じクラスにはなれなかったけど、通う学校が違ったあいだより一緒にいられるようになった。教室にもわりとすぐなじみ、イジメが面倒とかかったるいとか、同じような考えで入学してきた友達もできた。近所の集まりでもないから、親のことまでいちいち知られないし、勉強のレベルの維持以外は思っていた以上に気楽だった。
司くんと南くんもそれを聞いてほっとして、かあさんもようやく「私立行かせてよかった」と言ってくれるようになった。そしてあっという間に夏が来て、秋が過ぎて、また冬になった。
クリスマスは、南くんが用意したケーキやチキンを食べて、年末年始は暖房のきいたリビングでゲームをしたり宿題をしたりした。スタイリストとして、いろんな芸能人に気に入られているかあさんは、年末年始だろうと仕事でいそがしい。だから俺は、かあさんにも自宅よりも司くんと南くんの家のほうで過ごせと言われていて、素直にそうしていた。
専門学校に通うため、現在違う街でひとり暮らしをする築くんは、春休みに帰ってくるそうで帰省しなかった。築くんが今暮らす街は、幼なじみの雪姉が暮らす街で、部屋も近所にあるらしい。だから、築くんが帰省しないなら雪姉もそうなのかと思っていたら、元日の昼過ぎに雪姉が俺たちの家を訪ねてきた。
「あけましておめでとう」
そう言って微笑んだ雪姉は、ますます美人になっていた。雪姉は家族からの俺たちへのお年玉を渡すと、リビングにいた司くんと南くんにも挨拶する。ふたりは嬉しそうに雪姉を迎えて、「あけましておめでとう」とそれぞれに返した。
「築の面倒も見てくれてありがとう」
「あいつ、ちゃんと勉強してる?」
「やってるみたいですよ。冬休み明けの試験勉強をするから、今回は帰省しないみたいです」
「殊勝だな」
「大学は春休みが長いからね」
「雪ちゃんは大学って──あれ、もう卒業した?」
「あたしは留年してるんで、働こうか退学しようか迷ってます」
「へえ、意外」
「せっかく入学できたんだから、頑張ってみてもいいと思うよ?」
「そうですよね。今やってるバイトも、そろそろ辞めないと」
「バイトしてるんだ」とまばたいた南くんに、「築がそのバイトにいい顔してないんですよ」と雪姉はくすりとする。
「いや、別に築の顔色は気にしなくていいんだぞ」
「あたし自身も、引き際かなとは思ってるんで。築はいい切っかけです」
「はは、そっか」
「ちなみに、築って女の子とはどう? 遊んだりしてない?」
「してないと思いますけど、あたしの目を盗んでなければ、ですね」
「そっか。一応、本人もやってないって言ってるけど」
「もし見つけたときは、たっぷり絞っていいからな」
「了解です」
咲いながら雪姉はうなずいて、「築くん、女遊びしてないんだって」と俺はポチ袋を覗く授くんと上着のポケットにしまう響くんに言う。「兄貴がヒモ野郎にならないのは良いことです」と授くんは顔を上げ、「雪さんがずっと見てくれるならいいのにね」と響くんは苦笑した。
雪姉は二日の朝には暮らす街に帰っていって、それからあっという間に一週間経ち、冬休みは終わって三学期が始まった。
七時になる前に朝ごはんを食べたあと、ブレザーの制服に着替えて、響くんに見てもらった宿題を忘れていないか確認し、七時二十分に家を出る。響くんは余裕を持ってすでに出ているし、授くんも部活の朝練の慣れでもういない。司くんが南くんとの日中の別れを惜しんでいる横を、俺は「いってきまーすっ」と声を上げてすりぬけていく。
外に出ると、雪の降りそうな灰色の雲から冷たい風が吹いてきて、思わず紺色のコートの中に身をすくめた。空気が乾燥した匂いがする。凍えそうな手でかばんの持ち手を握りなおすと、吐く息を薄く色づかせながら、十分間、早足と小走りを繰り返して駅に向かう。出勤する大人、通学中の学生、犬を連れた散歩の人──ちらほらすれちがっていく。
三十四分発の満員電車に乗りこむと、車内では一気に人の密度のせいで体温が上がった。一度乗り換えをして、中学の最寄り駅に着く頃には時刻は八時十五分をまわっている。予鈴が二十五分だから、駅からはいつもダッシュだ。一本早い電車に乗ればいいのは分かっていても、これで何とか間に合うので、ついぎりぎりになってしまう。
「おはよー」
そう言いながら、教室のドアを開けると、「おはよー」と誰かが返してくれる。白い電燈がついた教室はまだ騒がしく、間に合った、とほっとして自分の席に荷物を下ろした。
「久賀はいつもギリだなー」なんて言いながら友達が寄ってきて、「おかげで五分長く寝れました」と俺は椅子に座る。私立のいいところで、教室にはエアコンがあって、今も温風が室内を暖めてくれている。
「久賀は冬休み、どっか行った?」
「家でゲームか宿題やってた」
「だよなー。牧原とかは正月は海外だったらしいぜ」
「金持ちグループのみやげ交換が、朝から嫌味だわ」
「ほんとの金持ちなら、クラス全員にみやげ買ってくるよ」
俺がそう言うと、「それだ」と友達は笑う。
私立なので、どうしても親の金や仕事を鼻にかける連中もいる。まあ、俺のかあさんも芸能人と仕事するし、南くんもゲームのキャラデザとかやっているし、業界で有名といえばそうなのだけど。別に、そういうことはわざわざ話さない。俺自身のことでもないのに、自慢とか思われたくない。
予鈴の五分後、八時三十分に担任が教室に入ってきて、みんな席に着いた。担任は出席を取ると、ホームルームで今日の予定を伝える。始業式、宿題の回収、プリントの配布。それで今日はおしまいだ。
放課後は渚と一緒だろうから、お昼は駅前のファミレスで一緒に食べて帰ろうかな、なんて考える。そうこうしているうちに、校内放送が流れて、三年一組から順番に体育館に移動していくよう案内される。俺は一年五組だから、かなり最後のほうだ。
それでも、早めに廊下に出席番号順に並んで待機する。一年七組まで体育館に入ると、俺の髪の色にたまに文句をつける生活指導の教師が挨拶したあと、校長がゆっくり話しはじめる。どこの校長も話長いよなあ、なんて思って、昨日も零時近くまでゲームをしていたのであくびを噛む。
始業式が終わると、予定通り教室で宿題を集めて、プリントが配られて、「じゃあ三学期もよろしく」と担任が締めくくって終業になった。
【第二章へ】
