雪の十字架-11

壊れる前に

 陽葵まで仕事を休むわけにはいかなかったので、日中、俺は部屋にひとりだった。実家にはまだ立ち入れないので、残されたものの整理にも行けない。行けたとしても、行く気力がなかったかもしれない。ただリビングのソファに座ったり、寝室でベッドにこもったりしていた。
 家族の声の幻聴が、本当にそんな声だったか自信がなくなってくる。頭の線がふっつり切れて、おかしくなってしまいそうだった。
 リビングにあるチェストの引き出しを開け、最後にもらったまま少し残っている薬を取り出して、飲んでみた。すると、闇がさっと晴れるとまではいかなくも、倦怠感のようにのしかかっていた靄は軽くなった。
 外に出るのは憂鬱だが、薬の効果を感じて、投げ出した心療内科に行ってみようかと思った。誰かに吐き出したいけど、誰でもいいわけじゃない。先生となら、話ができるかもしれない。薬を飲みこんだミネラルウォーターのグラスを座卓に置いて、ソファにぐったり沈みこんだ。まぶたが重くなって、うとうとしてくる。
 気づくと、俺は自分の部屋のベッドに仰向けになっていた。雪舞に何度も貸した部屋。雪舞が兄貴と忌まわしく結ばれていた部屋。きっと雪舞が妊娠した部屋。
 雪舞がまくらもとに立って、俺を見下ろしていた。ゆまい、と言おうとした瞬間、彼女は無表情のまま言った。
「みんな、殺してやるから」
 俺はびくんと目を覚ました。一瞬の夢だった。だが、雪舞の冷酷な声は、はっきり耳に残っていた。
 何だ? どういうことだ? 殺すって、俺の家族が殺されたことか? でも、雪舞がやったなんてありえない。彼女は死んでいるのだ。幽霊なんて、呪いなんて、そんなものがありえるはずもない。
 ただ、確かに雪舞には動機はあるのかもしれない。俺の幸せをすべてぶっ潰すという動機が。だからといって、雪舞がこの世に戻ってきたとか思うものか。それはオカルトだ。いよいよ気違いの考えだ。
 不安で思考がおかしくなって、夢に反映されてしまったみたいだ。バカだな、と息をついて、冷や汗に濡れた髪をかきあげ、俺は残っていたミネラルウォーターをもうひと口飲んだ。
 陽葵は残業せず、エコバッグを提げて、十八時頃に帰宅してきてくれる。
 陽葵の作ってくれた料理を残すなんて今までしなかったし、できなかったのに、どうしても食欲がなくて飲みこめないときがあった。作り置きしてもらっていた昼食も、一緒に食べる夕食ですら、喉が詰まって口にふくんだものが嚥下できず、咳きこんでしまったりする。
 それでもなるべく食べようと思うから、俺は以前より時間をかけて食事を取るようになった。「無理しないで」と陽葵は言ってくれるけども、やっぱり寂しそうだ。しかし、ごめんと言いそうになると、陽葵は俺をぎゅっと抱きしめて言葉をさえぎる。
「いいんだよ。瑞栞は今、甘えてていいの」
 俺は陽葵の胸のふくらみに顔を当て、また泣きそうになってしまう。
「私も、おかあさんたちが亡くなったのすごくつらい。哀しい。だけど、どこかでは瑞栞だけでも助かってよかったって思うの」
「俺……」
「同棲してなくて、瑞栞がおかあさんたちと一緒に住んでたら、きっと瑞栞も……って、そんなこと考えると、私も怖くなる」
 陽葵の匂いに包まれる俺は、そんなことは考えもしなかったが、おそらく陽葵の言う通りなのだろうと思った。
 実家暮らしをしていたら、俺も殺されていた。陽葵を残して、死んでいた。
 想像するとぞっとして、陽葵の細い軆にしがみつく。
「陽葵」
「うん」
「俺、……その、今日、昔の薬を久しぶりに飲んで」
「薬」
「すごく飲んだわけじゃない。少し。でも、少しでもマシになったから、できればまた薬が欲しい」
「うん」
「そのために、もう一度……病院に、行っていいかな」
「いいと思う。瑞栞がそうしたいと思うなら、それがいいんだよ」
「そっか……。じゃあ、明日、前行ってた心療内科に連絡してみる」
「そうだね。そうしよう」
「勝手に行かなくなったから、先生、俺を診るの嫌かもしれないけど」
「そんなことない。きっと聞いてくれるよ。あ、でも、ひとつ私のわがまま聞いて」
「ん、何」
 陽葵は軆を離すと、向き合って俺の両手をつかんだ。
「私、その……まだ安心できたわけじゃなくて。犯人捕まってないのが、すごく怖いの。私だって、おかあさんたちが怨まれてたなんて思えないけど、もし逆怨みとかなら分からないし。それで、まだ瑞栞がいるのを知って、犯人がここに来たらどうしようって」
「………、」
「念のために、まだひとりでは出歩かないで。病院にも私に付き添わせて」
「で、でも、ほんとに何かあったとき、俺だけじゃなくて陽葵にも──」
「いいの、最悪それなら、瑞栞と殺されたほうが楽。私のことは心配しないで」
「陽葵……」
「私を置いていくことだけはしないで。瑞栞以上の人なんていないの」
 俺は陽葵をじっと見て、小さく咲うと、「俺もひとりで出かけるの、ほんとは怖いって思った」とつぶやいた。陽葵は痛々しく微笑み、「私がついてる」とぎゅっと手を握る。俺もその手を握り返した。
 そうだ。陽葵をひとりにはしない。それだけは俺は誓ったではないか。自分に犯行が及ぶ可能性なんて初めて気づいたが、確かに俺まで殺されてしまったら、陽葵の絶望は計り知れないことになる。
 絶対に死ぬわけにはいかない。この手を離さない。せめて、死ぬことになるのなら、そのときは一緒だ。
「夕飯、もうちょっと食べてみていい?」
 俺がそう問うと、陽葵はこくんとして、向かいに戻った。陽葵はもう食べ終わっていたけど、俺が何とか食べきるまで、一緒に食卓にいてくれた。
 陽葵にとって、俺だけでも殺されなかったのはさいわいで。俺にとっても、陽葵という恋人がそばにいるのはかろうじてのさいわいだった。
 翌日、診察カードを薬をしまっていたチェストから探し出し、午後診が始まった頃に心療内科に電話をかけた。受付の女の人の声は物柔らかで、俺がたどたどしく以前かかっていたことと名前を告げると、先生に確認を取った。
 すると、もう診察が始まっているからめったにないことだと思うのだが、先生が電話口に出てくれた。
『金居さん、お久しぶりです。まさかとは思いましたが、あのニュースは』
 俺はスマホを握り、手に汗を感じながら「俺の家族です」と低い声で認めた。『……そうでしたか』と先生の声も沈む。
『恋人の方は、今そばに?』
「あ……仕事です。つきあいは続いてます」
『それなら、少しほっとしました。再び受診されるということですが』
「はい。ええと、その、突然行かなくなった俺とか、先生は嫌かもしれないですけど」
『僕はいつでも待ってますよ。もし力不足だと感じたら、もっといい先生を紹介するかもしれません。でも、金居さんの心を診てきたのは僕だと思ってますから』
「……ありがとう、ございます」
『ひとりで思いつめず、ここがあることを思い出してくれて嬉しいです。じゃあ、患者さんをお待たせしているので、予約は受付の者と相談してください』
「分かりました」と俺が答えると、電話口の対応する声がさっきの女の人に戻った。陽葵が帰宅して一緒に向かえる時間ということで、予約締め切りの十九時、さっそく明日に予約を入れた。
『一番最後になって、かなり待つかもしれませんが』と言われたものの、また何日も部屋で鬱々と待つよりいいので「大丈夫です」と応じた。『では、明日の十九時、お待ちしております』と言われて電話を切ると、先生は俺を憶えてたんだな、とため息をついた。
 帰宅した陽葵に予約が取れたことを伝えると、「私のわがままのせいで、夜道になるね」と彼女はしゅんとしてしまった。「土曜日の午前中があるから、次はそこで取れないか訊いてみる」と俺も自分が考えなしだったことにへこみながらも言う。陽葵はうなずき、「明日、一番最後なら逆にゆっくり話せるかもね」と微笑んだ。
「先生、最後とか疲れてないかな」と俺が首をかしげると、「こっちは診察料はらうんだからいいの」と陽葵は励ましてくれたが、その診察料は陽葵にはらわせることになってしまうのだ。また自立支援を申請しないといけないな、と俺は申請方法は忘れた手続きの名前だけ思い出した。
 そうして、翌日のすっかり暗くなった十八時過ぎ、俺は一応軽く顔を隠し、陽葵と久しぶりにマンションを出た。「デートみたいに見せよう」と陽葵が部屋を出る前に作戦として言っていたので、普段はないくらいにいちゃつきながら歩いた。
 そうしたら、多少うろつくマスコミ臭い奴らには、やはりスルーされた。仕事中のあいつらからしたら、リア充たっぷりのカップルなんて虫唾だろう。それが家族を殺された遺族とも思わないだろうし。
 地下鉄に乗って、「何か照れた」と俺が言うと、「私も」と陽葵ははにかんだ。
 俺が通っていた心療内科があるのは、ちょうど自宅と実家の中間あたりの駅前だ。景色がベッドタウンへとローカルになってくるあたりで、そんなに騒がしい駅でもない。駅前には小規模なモールがあって、そこにスーパーもファミレスもドラッグストアもおさまっている。
 心療内科は、モールから五分ほど歩いた交差点にあるビルの三階に入っている。時刻はちょうど十九時になりそうで、改札を抜けた俺と陽葵は、急いで寒月の下を歩き、一年半ぶりくらいにエレベーターに乗って心療内科のガラス戸を開けた。
 扉はすぐ待合室につながっているが、暖房がきく中で確かにかなり待っている人がいて、座れずに立っている人もいるほどだった。こんなに多かったっけ、と思ったものの、一年半も経ったのだ、院長である先生の評判を聞きつけた人も多いのだろう。
 俺も受付をすると、陽葵と共に壁際にたたずむことにした。男の人も、女の人も、学生っぽい人も、年配の人もいる。俺ならこんなにたくさんの人の相談を立て続けに、しかも毎日聞いていたら自分が狂ってしまいそうだ。先生は眼鏡をかけた細身の繊細そうな男の人だが、芯はかなり強いのだろう。
 だいぶ待って、やっと座れて、陽葵とたまにひそひそと話していると、ようやく待合室がふたりだけになった。「次だね」と陽葵は言い、俺は緊張しながらこくりとする。
 診察はひとりで受けることにしていた。もしかしたら、『俺のせいで死んだ好きだった女の子』の話が出るかもしれない。俺の前の患者さんが診察室から出てきて、まもなく「金居さん、どうぞ」と先生の声に呼ばれた。
 俺は「じゃあ」と陽葵を見て、陽葵も俺を見てうなずいて、声が聞こえてきたドアの隙間から診察室に入った。

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