雪の十字架-18

呪いを継ぐ者

 はっと目を開き、白い天井を見つめた。ここがどこなのか、一瞬混乱したが、明かりのおかげで陽葵との寝室だとすぐ認識できた。それでも息が引き攣っていて、俺は固まった軆を何とか起こして、ベッドスタンドに置いているミネラルウォーターのペットボトルを手にした。震える手で精神安定剤を何錠か流しこむ。
「瑞栞……?」
 隣で眠っていた陽葵が、荒い息遣いかおののく軆か、俺が起きていることに気づいて、目を覚ます。俺は弱々しく陽葵を見て、「ごめん」とぽつりと言った。陽葵はゆっくり起き上がると首を横に振り、「怖い夢?」と俺の頭を撫でて顔を覗きこんでくる。
 怖い……夢。夢、だろうか?
 雪舞は俺を覗きこんで、言った。
 あとひとりだね──
 陽葵を見た。あとひとり、って。やっぱり、陽葵のことか? 次は陽葵に呪いが降りかかるのか? 陽葵が殺されるのか……?
「……陽葵」
「うん?」
「明日も……仕事、だよな」
「え、うん」
「俺も、ついていっていいかな」
「えっ」
「朝は陽葵を会社まで送るし、帰るときは迎えにいく」
「で、でも」
「そうしないと不安なんだ。陽葵に何かあったら、俺は生きていけない」
「瑞栞……」
「頼むから、俺に陽葵を守らせてくれ。陽葵だけは、絶対……雪舞の思い通りにさせない」
 陽葵は俺を見つめて、「瑞栞がそうしてくれるなら」と俺の手をつかんだ。その言い方で、陽葵も少なからず怯えていることが察せた。「ごめん、俺なんかとつきあってるせいで」と言うと、それには陽葵はかぶりを振った。
「危ないから別れようとか言われるより、ずっといいよ」
「……別れたら、陽葵は助かるのかな」
「別れない」
「でも」
「別れるわけないじゃない。私は、瑞栞だけってもう決めてるんだから」
 俺は陽葵の左手の薬指に触れ、「俺も陽葵と結婚したい」とつぶやいた。陽葵は俺の瞳を見つめて優しく微笑み、「犯人が捕まって、落ち着いたら、すぐ結婚しようね」と言った。
「それで、おかあさんたちにも、夕彩くんにも、報告に行こう」
「……俺のせいで殺されたのに、喜んでくれるかな」
「瑞栞のせいかなんて、まだ分からないじゃない」
「警察はそう見てるよ。雪舞も……」
「雪舞さんは亡くなってるんだから、心配しなくていいの」
「でも、夢で言ってた。『あとひとりだ』って」
 陽葵の温かな軆を抱き寄せ、「たぶん陽葵のことだよ」と泣きそうな声を絞り出す。
「俺に残った人なんて、陽葵しかいない」
 陽葵は黙って、俺の服をつかむ。
「だから、マンションの前のマスコミとかはどうでもいい。とにかく陽葵のそばにいて、陽葵を守る。警察からいきなり電話が来たりするのは、もう嫌だ」
「……無理はしないでね?」
「陽葵も、会社でひとりにはなるなよ。ランチとかも誰かと一緒に取ってくれ」
「分かった。気をつける」
「頼むから、ひとりで行動するなよ」
「うん。だけど、瑞栞の心も私は心配なの。瑞栞が苦しいときは、無理せずに部屋で休んでね」
 俺は陽葵を抱きしめ、「ありがとう」とささやいた。陽葵は俺の背中を腕をまわし、ゆったりさすってくれる。
 そうして陽葵と抱き合っているうちに、静かに薬が俺の神経にめぐってきて、ふたりでふとんにもぐりこみなおした。陽葵の温柔と匂いに包まれ、俺はようやくなだらかになってきて、いつのまにか眠ることもできた。
 翌朝から、俺は会社に勤める陽葵を送り迎えするようになった。マスコミは相変わらず騒がしかったが、くずおれていた俺の中で、「陽葵を守る」ということがやっと芯として通りはじめた。
 無表情にマスコミをかわし、満員電車で陽葵をかばい、会社の前まで見送る。久々のラッシュの電車は、今の俺の精神には重圧だったが、そのぶん、痴漢が心配なのはもちろん、どこから刃物を突き出されるか分からないという不安も感じた。
 そして、陽葵の定時に合わせて、夕方には会社に迎えにいく。陽葵に残業があったときは、そばのカフェでカフェオレを飲んで退社を待った。俺がそんなふうに、陽葵を守るために部屋で燻るのをやめたのは、少々危険かもしれないが、前向きでいいことだと先生にも言われた。
 そのうち、前ほどの長時間ではなくても、たとえばランチタイムだけとか、喫茶店もそろそろ手伝えるのではないかと思えてきた。昼間、部屋にひとりでいるほうが、心がぐらぐらした。
 ぼんやり、夕彩のトークルームをさかのぼって、たわいない話題から励ましてくれる言葉まで、いろんな会話を振り返って泣きそうになる。家族とのトークルームにはそんなに多く履歴がなかったから、こういうつらさはあまりなかったけど、夕彩はこまめに俺に連絡をよこして心配してくれていた。
 機種変したら履歴消えるんだよな、と気づいたので、俺は夕彩のメッセをひとつひとつスクショに残しておいた。そうしながら、いまだに夕彩からの飄々としたメッセがぽんと着信しそうな気がする。
 でも、それは二度とない。家族も、生徒も、美容師の女の子も、夕彩を取り巻いていた人たちは、今、どんなにつらい想いをしているのだろう。そういうことを考えはじめると、気分が暗くなってくるので、振り切るように家事をしたり買い物に出たりするようになった。
 いつのまにか二月に入り、骨の髄まで凍りそうな寒風の中、俺はその日も陽葵を会社まで送った。「いってきます」と陽葵は手を振り、「いってらっしゃい」と俺も手を振る。陽葵はショウウィンドウに新作のインテリア用品が飾られたビルに入っていき、俺はその背中が同じく出社する人たちに紛れていくのを見守る。
 それから、白い息をついてひとりで来た道を戻りはじめた。コートを深く着こみ、朝陽の中を出勤していく人たちとすれちがっていく。横断歩道ではいろんな靴音が硬く響き、スニーカーの自分がちょっと恥ずかしくなった。革靴なんてずいぶん履いてないなあ、なんて思ったときだった。
 信号が点滅を始めて、後ろから駆け足が近づいてきた。俺も早足になろうとしたら、その駆け足が背後に迫って俺の肩にぶつかり、追い越していった。何だよ、と眉を寄せてその駆け足の背中を見て、はっと息を止めた。
 俺を追い抜いていったのは、スーツの中でやけに目立つフードパーカーの背中だった。思わず立ち止まった俺を、そいつは振り返ってくる。かぶったフードがやっぱり目深で、顔は分からないものの、口許がはっきりとこちらに笑ってみせた。
 え……?
 あいつ──正月の?
 引き裂くようにクラクションが鋭く鳴った。我に返った。赤信号の横断歩道の真ん中で、ひとり突っ立っていたのだから当たり前だ。
 慌てて横断歩道を渡り、あたりを見まわした。茫然としているあいだに、フード男のすがたもなくなってしまっていた。幻覚だったのかとも思ったが、いや、確かに肩がぶつかったし──男が当たった肩に触れ、背中を刺されてもおかしくなかった、と何となく思って、ぞっとした。
 何だよ。誰だよ、あの男。俺につきまとってるのか? 何で。まさか、何か事件と関係があるのか? もしかして、雪舞と何か関わりがある奴とか……
 俺はそばにあったビルの壁にもたれ、やたらまばたきをしながら、高校時代の雪舞を思い返した。
 あの頃、雪舞にその遺志を継ぐような存在があっただろうか。分からない。雪舞はいつもひとりだったように思う。彼氏どころか、連れ合う友達も見たことはなかった。
 しかし、それでも、俺は雪舞の私生活はそんなに知らないのだ。もし、雪舞の事情を知っている、いまだに雪舞を想う人間がいるとしたら──
 亡霊なんてない。夕彩にも、陽葵にも言われた。それでも俺は、雪舞の亡霊をどこかで信じかけていた。きっとあいつの怨念がよみがえって、俺に復讐を始めたのだと。
 だが、もし……雪舞の怨みを引き継ぐ人間がいるとしたら。
 俺と雪舞のすべてを知っている人間が、存在するとしたら。
 黒い不安がじわじわと心臓を侵していく。あの男が、俺の家族を、そして夕彩を殺した? あいつは俺と雪舞のことを知っているのか? そして、次に狙っているのか?
 俺。
 あるいは、陽葵。
 目をつぶって乱れる呼吸を飲みこんだ。あの男さえ捕まったら、もしかして、陽葵は雪舞の怨念から守れるかもしれない。
 だとしたら、俺は雪舞のことを警察に話し、あの事件までさかのぼって調べてもらうべきなのだろうか?

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