ほのかな香り
冷え切った車道沿いの歩道を駅まで走りながら、陽葵に電話もアプリ通話もかけた。しかし、コールが長引いたあとに聞こえるのは、どちらも応答がないという自動音声だった。
陽葵とすれちがったりしないか、あたりを見まわしながら駅を抜け、帰宅ラッシュに混みあった電車に乗りこむ。周りに少し眉を顰められつつも、息切れをはずませ、俺は『応答なし』が並ぶ陽葵のトークルームを呼び出し、『すぐ行くから、今いる場所から動かないでくれ』というメッセを送信した。既読はつかない。
陽葵の職場の最寄り駅に着くと、もう一度電話をかけた。やはりつながらない。電車に乗っていたとしても、俺が向こうからこちらに着いたのだから、陽葵が向こうに着いて電車を降りている時刻には、とっくになっている。
陽葵の会社に、一応行ってみるか? いや、この最後のメッセから察するに、陽葵もまた俺に何かあったのかもしれないと焦っている。たぶん会社でじっとはしていないだろう。それでも陽葵のローズピンクのコートが目に留まらないか、あたりをきょろきょろしながら駅前を歩く。
どんどん夜が始まって、ネオンが灯っていく。俺はあの時間帯に電話で話しこんでいたことを心底後悔しながら、とりあえずいつもの街に帰ろうと思った。
陽葵も焦っているのだ。スマホなんか見る様子がないだけかもしれない。部屋に帰りついているならそろそろだ。
そう思いながら──願いながら、改札を抜ける前にまたトークルームを開き、目を開いた。さっきの俺のメッセに、既読がついていたのだ。何もメッセは返ってきていなくても、それだけでその場に座りこみそうにほっとした。
『陽葵、今どこだ?
ごめん、部屋ならすぐ帰るから。』
既読がふっと浮かぶ。リアルタイムの反応に、今、陽葵とスマホでつながっていることが分かって安堵が広がった。
が、それの束の間、ようやく返ってきた陽葵の反応が、画像だったので眉を寄せた。マップのスクショ、だろうか。真ん中に赤いマーカーが表示されている。
『ここにいるよ』
そして、地下鉄でいつも通り過ぎて、降りたことのない駅名も送られてきた。
マップを拡大してみると、マークの場所は公園らしかった。確か、夏には祭りなんかも催される、けっこう広いと聞いたことのある公園だ。何でそんなところに、と思ったが、陽葵がここにいると言うなら行くしかない。
そう思って改札を抜け、ホームまで歩いているとまた何か着信した。
『ひまりさんが画像を送信しました』
また画像か、とそれを開いた俺は、目を剥いた。
今度は写真だった。暗くてかなり写りは悪いが、ローズピンクのコートを着たボブカットの女の子が、ガムテープで口をふさがれている。その画像の意味に、息が、指先が、足元が震えて、そのままがくんと倒れそうになった。
何。何だ。これは、陽葵が──
どうにか踏みとどまった俺は、階段を駆け降りて、電車に飛び乗ろうとした。しかし、ここから俺が住む町の駅まで行って、そこから地下鉄に乗り換えて──歯がゆさに耐えきれず、財布の中身を確認すると、駅を出てタクシーをつかまえた。公園の名前でドライバーは場所を承知してくれて、タクシーは発進する。
スマホの中の暗い写真を見つめた。
陽葵。嘘だ。こんなの嘘だ。今日に限って。俺が迎えにいかなかった、今日に限って。
いや、もしかして俺が現れなかったから狙われたのか? そうだ。あのフード男は、陽葵の会社のそばの横断歩道で笑った。もしやあの日、陽葵の会社の場所を俺たちを尾けて突き止めたのか。
そうだとしたら、もっと警戒すべきだった。そこに気づいて、陽葵に絶対ひとりで歩くなと言うべきだった。
何で俺は、こんなに間抜けなんだ。俺の気がまわらなかったばかりに、陽葵に何かあったらどうしたらいい? 俺には陽葵しか残っていないのだ。くそ、何で俺は、もう少しだけでもいい、しっかりと事態を認識できなかったのか──
「大丈夫ですか? 顔色がひどいですけど」
過呼吸気味の俺をバックミラーで見たドライバーが心配してくれたが、「大じょ……夫、です」と切れ切れに言うしかできなかった。スマホを握りしめ、それを額に当て、ただでさえ家族も夕彩も守ってくれなかった神様に、祈った。目をつぶって、陽葵がただ無事にこの腕に戻ってくることを願った。
でも、それが聞き届けられるかどうか、あまりにも消え入りそうで、怖くて、タクシーの中は暖房が暑いくらいなのに、軆ががたがたと震えた。
一時間足らずでようやく公園の前に到着すると、俺は料金をはらい、公園に駆けこんだ。意外と街燈があって明るく、二十時にもなっていないので、犬の散歩やウォーキングの人が多く行き交っていた。人の往来がある通路を外れ、奥の自然広場みたいになっているところに出ても、暗いけれどそれを利用してカップルとかがいちゃついている。
俺は息を切らしながら周囲を見まわしていたが、ふと気づいてスマホを見た。何も着信はない。でも、俺がこれを鳴らせば、その着信音が聞こえてくる。そう思い、俺は陽葵の番号に電話をかけた。
そこでは何も聞こえなくても、広い公園をうろついて、電話をかけつづけた。噴水、遊具、池、いろんな場所に展開していく公園を彷徨って、だいぶ奥まで来たときだった。よく分からないモニュメントがあるだけで、誰も興味がないのかひと気がない場所──そこで、不意に聞き憶えのある着信音が聞こえた。
俺はスマホをおろして叫んだ。
「陽葵!」
目を凝らしてあたりを見まわしたら、モニュメントのそばの地面が白く光を発しているのに気づいた。俺はそこに駆け寄り、「陽葵っ」とモニュメントの向こう側を覗いた。そして、思わずびくんと身をすくめた。
陽葵が、コートのはだけた腹をセーターが破れるほど刺され、どろどろの赤に染まって倒れていた。
「陽葵、陽葵っ?」
陽葵のかたわらにひざまずくと、彼女を抱き起こした。腹部のなまぐさい鮮血が、ぐちゃっと音を立てる。陽葵の足元にスマホが投げ捨てられ、それが光を発していた。
俺が軆を動かしたことで、滅多刺しにされた陽葵が小さくうめき、俺は慌てて彼女を寝かせてから血に濡れた手でその手を握る。口にはガムテープを貼られたままだったので、ゆっくり剥がした。
「みず、り……?」
ガムテープを剥がされて、陽葵が弱々しく俺の名前を呼ぶ。
「陽葵、ごめん、俺が……いや、違う、すぐ救急車呼ぶから」
「……も、だめ……だよ」
「ダメじゃないっ。待ってろ、すぐだから。お前は絶対死なせない」
俺は取り落としていたスマホで救急車を呼ぼうとしたが、とっさに番号が出てこなくて、わけも分からず110番してしまった。でも、状況が明らかに殺人事件だったのでそれで何とかなって、『すぐに向かいます』と電話は切れた。
陽葵に向き直り、何度もその名前を呼ぶ。だが、陽葵の呼吸はほとんど残っていなくて、俺に目を向けるのが精一杯のようだった。
「陽葵……頼む、もう少し頑張ってくれ。そしたら、……そしたら」
陽葵は薄目で俺を見つめ、ゆっくり、震える手を俺の手に重ねた。血でぬるりとしても、そこに体温がないことに俺はどんどん泣きそうになって、こうなってしまった謝罪や後悔やいろんな言葉が口からあふれかけた。けれど、そんなの今の陽葵には雑音だろうと飲みこむ。ただ陽葵の名前を呼び、彼女の意識が途切れないように必死になった。
そんな俺に、ふと陽葵が口を動かした。
「み……ず、り」
「今はしゃべるな。あとで何でも聞く」
「僕……に、とって、みゆちゃん、は」
「え?」
「お前とあいつだったんだ……って」
「……何、言って」
「言って……た」
「みゆちゃん、って……」
……雪舞。雪舞美優香。
俺が瞳をこわばらせると、浅い息の中で陽葵は俺を見つめる。
「みずり……」
「……陽葵。分かった。あとで全部説明する。だから、」
「結……婚、したかった……な……」
「何、結婚……できるよっ。助かれば、そんなのすぐにできる──」
「それ……くらい、瑞栞が、好きだった……なあ……」
「陽葵、俺は」
「赤ちゃん……欲しかった」
「陽葵っ。なあ、そんなこと言うなよ。これから、ちゃんとできる。全部、結婚も、赤ちゃんも、できるから。だから、今は何も……」
「瑞栞の……赤ちゃん、わたし……が」
「陽葵っ」
「……わたし……、生みたかっ……──」
俺の手をかすかにつかんでいた陽葵の手から、すっと力がすべり落ちた。いつのまにか泣いていた俺は、「え」と声をもらし、「陽葵?」と彼女の肩を揺すぶる。しかし、陽葵は目をしっかり閉じることさえせず、その口元から息を引き取っていた。
信じられなくて、俺は陽葵の名前を叫んで、その軆を抱き起こして繰り返し声をかけた。けれど、陽葵の首はぐったりと曲がり、何の反応もしなかった。
……嘘、だ。
こんなの、嘘だ。
陽葵まで、そんな──
近づいてくるサイレンがようやく聞こえてきた。俺はそれをかき消すように、陽葵の胸に顔を突っ伏して大声で泣き出した。
冷たく吹き荒れる風の中で、血のにおいがひどい。でもやっぱり、その服は俺と一緒に選んだ柔軟剤の匂いが、ほのかに優しかった。
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