雪の十字架-23

もう生きられない

 そこから、記憶はまともに残っていない。警察では陽葵の言葉と雪舞のこと、そしてフード男についても話した気がする。
 頭がまわらなくて、陽葵の両親には土下座するしかできなかった。それでも、俺の因縁に巻きこまれて娘を殺されたのだから、ふたりは俺を家から追い出して、二度と顔を出すなと言った。葬儀にも参列させてもらえなかった。参列していたとしても、泣きわめくばかりで迷惑だったとは思うけれど。
 薬がなくなっても、病院に行けなかった。ソファでぼんやりして、みんな殺された、と放心状態で思った。家族。親友。恋人。みんないなくなった。
 これは、雪舞を救えなかった罰なのか。みゆちゃん。犯人が、雪舞のことで俺を怨んでいるのは確実になった。警察が雪舞の周辺を改めて洗ってくれるだろう。
 でも、だから何だ? いまさら犯人が捕まって何だ? とうさん。かあさん。初栞。夕彩。陽葵。みんないなくなって、いまさら何が進展だ。すべて遅い。
 もういいや。ここまでされて、俺は生きていけない。生きていたくない。俺も死のう。何日も眠らず、何も食わず、ふらふらになりながら、ベランダに立っていた。
 春が近づく空が青くて、どこまでも透き通っていて、泣きそうなほど綺麗で。きっと今なら、吸いこんでもらえる気がした。手すりに手をかけ、体重をぐらりと外側へと移す。そしてそのまま、すうっと頭から空中へ落下しようとした。
 そのときだった。
「瑞栞さんっ」
 悲鳴のような声がして、ぐっと背中に誰かが抱きついたかと思うと、そのまま引っ張られてベランダの内側に倒れた。
 よく分からなくて、何秒か無表情に横たわっていた。頭が吐きたいほどにくらくらする。
 首を動かして、青空を見た。死ぬ。そう、もう俺は死ぬんだ。それを思い出すと、俺は立ち上がって、また手すりを乗り越えようとした。
 すると、「やめてくださいっ」と泣きそうな女の子の声が俺の背中にしがみついてきて、俺は虚ろな面持ちで振り返った。
 抱きついてきているのは、穂乃芽ちゃん、だった。その後方にマスターもいる。何で、と思ったけど、頭が回転しない。ただふたりを見較べ、わななく息を吐いて、「死ぬしかないんだ」と俺は線が途切れた目のままつぶやいた。
「みんな死んだのに……俺だけ生きてるなんて」
「瑞栞さんだけでも、生きなきゃダメです」
「何で? 何でそんなむごいこと言えるんだよっ。俺のせいなのに。俺が死ねばよかったんだ。そしたらみんな助かってたかもしれないのに」
「瑞栞さん、」
「俺なんか死ねばいいんだ。もう生きてたくないし。みんないない。陽葵もいない。どうやって生きていけって言うんだよ。死にたいよ。死なせてくれよ。もう、どうやって生きていったらいいのか分からないよ……」
 情けない言葉と共に、鼻がつんとして涙もこぼれてきた。がくんと冷たい地面に座りこむ。寒風が、シャワーも浴びていない髪をばさばさに荒らす。
 穂乃芽ちゃんも俺の目の高さにしゃがんだものの、どう言ったらいいのか分からないのか、唇を噛んだ。
 そうだ。これ以上生きるなんて、俺にはどうやったらいいのか分からない。陽葵もいない。夕彩もいない。家族もいない。誰もいない。
 こんな真っ暗闇で、ひとり生きていくなんて、俺はそんなに強くない。まして、みんな殺されたのが、自分のせいだという事実を背負っていくなんて。こんなのつらすぎる。俺の惰弱な心では耐えられない。
 死にたい。もうすべて投げ出して死にたい。死ぬ以外にどうしたらいいのか分からない。
「瑞栞くん」
 室内にいたマスターが歩み寄ってきて、俺のかたわらに膝をつくと大きく背中をさすってきた。その手は思いのほか力強く、温かく、俺は息を飲みこんでからマスターを見る。マスターはいつも通り穏やかな瞳で、俺の血迷った瞳を受け止めた。
「陽葵ちゃんたちは、瑞栞くんが自分で命を絶つことだけは、望まないよ」
「っ……、でも、きっと俺を怨んでる。俺のせいで、あんな……」
「怨んでなんかいない。怨まれているのは犯人で、瑞栞くんじゃない」
「俺のせいで、犯人はみんなを殺したのに」
「瑞栞くんのせいだなんて、陽葵ちゃんもご家族も友人の彼も思っていない。瑞栞くんがみんなのためにそこまで思いつめるように、みんなも瑞栞くんのことが大切だったと思うからね」
「………っ」
「死んじゃいけないよ。陽葵ちゃんたちの魂を哀しませたくはないだろう?」
 俺は涙に顔をゆがませ、首を垂らして嗚咽を引き攣らせて、それでも死にたいと思った。
 何も感じたくない。何も考えたくない。黒い虚しい穴が心を侵蝕しているのだ。意識がどろどろして、廃人みたいに何もできない。そして、俺がいくら人として朽ちても、心配してくれる人はいない。
 ひとりぼっちが怖い。陽葵たちのところに行きたい。まともに生きていける自信もない。大切な人たちを根こそぎ喪って、生きていくなんて拷問だ。陽葵のいない人生なんて考えられない。
 俺の目の前で息を引き取った陽葵。あの瞬間、全部壊れた。俺の人生は終わったのだ。死にたい。死ぬ以外に救いようがない。頼むから死なせてほしい──
 そんなことをつらつら口にして、俺はベランダの地面に突っ伏し、子供のように泣いた。
「伯父さん……」
 穂乃芽ちゃんが哀しそうな声でつぶやき、「もっと早く来るべきだったね」とマスターはなお俺の背中をさすりながら答える。
「今、瑞栞くんをひとりにしちゃいない」
「じゃあ、あたしがしばらく瑞栞さんのそばにいるよ。そばにいるしか、できないけど」
「そうしてあげなさい。私も覗きにくるようにするよ」
「鍵は管理人さんに返さないといけないよね。瑞栞さんが落ち着いたら、合鍵訊いてみる」
「うん。──瑞栞くん、家の中に入ろう。ここはまだ寒いよ」
 マスターが俺の両脇に腕を通して立ち上がらせ、部屋の中に引きこんだ。俺は「死にたい」ばかりつぶやき、抵抗せずにぐったりマスターの腕に体重をかけた。
 ソファに座らされ、まだぽろぽろと涙を落としながら、陽葵の名前をうわ言のようにもらす。そんな俺を見つめ、穂乃芽ちゃんが目をこすったのがぼやけた視界に映った。
 その日以降、抜け殻のような俺を穂乃芽ちゃんが世話するようになった。食事を用意したり、入浴をうながしたり、洗濯をしたり。でも俺はすっかり食欲がなかったし、湯船に浸かったままなかなか出てこなかったり、洗濯の柔軟剤の分量が違うのを嗅ぎ分けて泣いてしまったりだった。
 それでも穂乃芽ちゃんは俺の部屋を訪ねることをやめなくて、できる限り陽葵との空間であったことは壊さないように、俺の面倒を見た。俺はソファでぼうっとしながら、次は穂乃芽ちゃんが殺されるのかなと思った。そうなっても、心が麻痺してしまっている今、もはやショックを受ける余裕もないかもしれない。
 たぶん、警察の犯人逮捕が早いか、穂乃芽ちゃんの殺害が早いかだ。
「瑞栞さん。おかゆだけでも食べてください」
 ゼンマイが切れた人形のような俺に、穂乃芽ちゃんがそう言って湯気を立てるうつわをさしだす。俺はそれにゆっくり目を向け、「殺されるの、怖くないの」とぽつりと訊いた。
「えっ」
「俺に構ってると、殺されると思うよ」
「………、たぶん、大丈夫ですよ」
「でも」
「瑞栞さんにとって、あたしは大した存在じゃないでしょう?」
 俺は穂乃芽ちゃんの愁える瞳を見た。その瞳のまま、穂乃芽ちゃんは小さく咲って、俺の手におかゆのうつわを持たせた。
 俺はたまごと野菜のみじん切りが入ったおかゆに目を落とす。いい匂いなのに、食べようという意欲が湧かない。
 陽葵の料理が食べたかった。陽葵と一緒に食事がしたかった。眠るときは隣にいてほしい。手を伸ばしたら髪に触れられる距離にいてほしい。
 俺が求めるのは、どうしても陽葵なのだ。しかし、すべて永久に叶わない。彼女は俺の腕で命を落とした。俺と結婚したい、俺の赤ちゃんを生みたいと言って。俺は左薬指の指輪を見て、陽葵の指にあった片割れはどうされてしまったのだろうと思う。
 俺も結婚したかった。陽葵との子供が欲しかった。それを約束した指輪だったのに、こんなに残酷に引きちぎられるなんて。陽葵の体温が、柔らかさが、匂いが、声も笑顔も何もかも、消える煙のように遠ざかっていく。
 結局、穂乃芽ちゃんのおかゆには手をつけず、ソファで膝を抱えた。
 陽葵のことを考え続けた。もはや涙腺は故障してしまった。やけに涙が止まらないときもあれば、乾いて一粒も出てこなかったりする。
 相変わらず死にたいと思っている。穂乃芽ちゃんは夜には帰ってしまうけど、夜は俺は金縛りのような恐怖感に駆られて動けない。昼間は穂乃芽ちゃんがいる。どの隙をつけば早く死ねるのだろうと、がらんどうの頭で考えた。
 そんな状態で三月になって、数日経った日のことだった。座卓に投げている俺のスマホが鳴った。穂乃芽ちゃんは買い物に行って、部屋にいないときだった。スマホなんか鳴っても無視ばかりだったが、何だか着信が何度も続いてわずらわしかったので、べっとりついていた陽葵の血はぬぐったスマホを手にした。
 俺の母校の名前が表示されていた。……あの日、電話が長引いてしまったばかりに。薄暗い眼つきでそう思って、眉を寄せたものの、着信音がやんでもまた鳴り出すので、仕方なく応答をタップして耳にあてた。

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