雪の十字架-24

白日へ

『ああ、やっと出た。金居か? 瀬川だが、俺のこと憶えてるか』
 瀬川……。しばらく考えたが、そうだ、高三の俺の担任だ。
「……お久しぶりです」
『今、話せるか? 大変なのは分かってるんだが』
「別に……何もしてないんで」
『……そうか。何というか──テレビで見てるが、つらいな。教頭も心配してたぞ』
「……はあ」
 気の抜けた返事ばかりの俺に、瀬川先生は咳払いをしてから、『一学期から復帰できそうだから、学校に顔を出したらお前のことを聞いたんだ』と言った。
『先生、脚に癌ができてな。手術したあとも歩けるようになるリハビリでなかなか戻ってこれなかったんだが』
「……そうですか」
『雪舞のことが気になってるそうだな』
「………、もう、警察に任せてます」
『そうか。いや、白波先生と話がしたいと言ってたと聞いてな。白波先生と話すのは、結論から言うとむずかしいんだが。白波先生の面会を許されてる奴を、先生、知ってるんだよ』
「えっ」
『何でも、雪舞の幼なじみだそうだ。小学校までは近所に住んでいて親しかったそうなんだが、幼なじみのほうが親の転勤でな。成人してこっちに戻ってきて、白波先生が入院する前から、よく話をしていたそうで。白波先生が、落ち着いて話ができるのがそいつぐらいらしく、特別に今も面会を許されているそうだ』
「幼なじみ……」
『白波先生に訊きたいことがあるなら、その彼を仲介して尋ねることは可能だと思うぞ。それが何か手がかりになるっていうなら、先生も協力しよう』
 幼なじみ。彼、ということは男か。心臓がばくばくと跳ねあがってくる。犯人は雪舞を、みゆちゃん、と呼んだ。まさか、そいつ──
 俺はスマホを握りしめ、「その人と会うことはできますか」と急にはっきりした口調で問うてみた。『たまに白波先生の様子を伝えにきてくれるから、面識はあるな』と瀬川先生は返してきて、「じゃあ、その人の都合で決めていいので、会ってもらえるようにお願いできますか」と俺は胸をざわざわさせながら頼んでみる。
『職場復帰することを今度伝えるから、そのとき話してみるよ』
 瀬川先生はそう請け合ってくれて、それから『彼も大事な人を亡くしたから、お前の気持ちを分かってくれると思うぞ』と言った。
 俺は喉をこわばらせる。大切な人を亡くした。そう、俺のせいでそいつは雪舞を亡くした。そいつには、俺を怨む理由がある。
 電話を切ると、息を浅くしながらスマホを見つめた。みぞおちが緊張してくる。
 この陰惨な連続殺人が、俺の中でつながりはじめていた。雪舞の怨み。その遺志を継ぐ人間。当時は遠方にいた幼なじみ。
 もし逮捕されたら、俺はそいつとふたりで話す機会はないだろう。だから、今、そいつと向かい合えるなら──
 その日、穂乃芽ちゃんが作ったシチューをやっと半分くらい食べた。「何か、ずっとごめんね」と穂乃芽ちゃんに言うこともできた。穂乃芽ちゃんはびっくりしたようにまじろいだものの、急いで首を横に振り、「あたしも伯父さんもいますからね」と泣きそうに微笑んだ。
 その後、瀬川先生からまた連絡があり、三月八日の日曜日の昼間、その幼なじみと会うことになった。場所は、雪舞の地元でもある町の喫茶店だった。場所にはっきり自信のなかった俺は、早めに部屋を出て、そこにおもむいた。
 駅のロータリーの並びに喫茶店の名前を見つけて、おそるおそる扉を開けて踏みこんでみる。コーヒーと煙草が混ざった匂いがした。俺の職場より広く、店員も客もちらほらいる。ラジオがかかる店内を見まわしていると、「待ち合わせですか?」とウェイトレスが近づいてきた。
日田ひだ龍弥たつやさんって人と待ち合わせてるんですけど」
 名前を言えばいいとされていたので言ってみると、「ああ、いらしてますよ」とウェイトレスは微笑し、「こちらに」と俺を案内した。
 奥まった四人掛けの席に、フードのついたパーカーの背中があって、一瞬立ちすくみそうになる。鼓動がいよいよ不穏に高鳴ってくる。「日田さん」と声をかけられたその背中が動き、ゆっくり振り返ってきた。
 瞳が大きく親しみやすそうな、ちょっと意外な顔立ちがそこにあった。でも、その瞳が俺を映したときの暗い色合いで、俺は瞬時に分かってしまった。
 こいつが、陽葵を──
「……初めまして」
 その男──日田がそう言って、俺ははっとして「初めまして」と答えつつ、向かいの椅子に腰を下ろした。ウェイトレスが去ると、日田はカップの紅茶をすすって、「話すのは、初めてですね」と低い声で言った。
「……話すのは」
「そうでしょう?」
「………っ、」
「この喫茶店は、みゆちゃんがよく来ていたところなんですよ」
 みゆ、ちゃん。その呼び方に、陽葵の最期がよぎって息が絞めつけられる。
「だから、僕もよく通うようになって。白波さんともたまにここで話しました」
 うつむき、何を言えばいいのか悩んでいると、さっきのウェイトレスがお冷やを持ってきた。「お決まりになったら、お声かけてください」と言われてうなずいていると、日田はカップを受け皿に置いた。
「僕だって、分かってるんですよね」
 ウェイトレスを見送ってから切り出した日田に、俺の心臓がどくんと胸腔に突き刺さる。
「それとも、本気で白波さんに訊きたいことが?」
「………、雪舞は、あんたに何を話したんだ」
「話は何もしてません」
「は?」
「手紙をもらっただけです」
「手紙……?」
 日田は隣の椅子に置いていたバッグから、浅葱色の封筒を取り出した。黙ってさしだされたので、黙って受け取る。住所と『日田龍弥くんへ』という宛名があり、裏には『雪舞美優香』とあった。
「読んでいいのか」と訊いても、日田は何も言わず下を向いていて、俺はその古びた封筒から同じ浅葱色の便箋を取り出した。
『たつくんへ
 お久しぶりです。
 元気にしていますか。
 私はもう駄目みたいです。
 たつくんがこの手紙を読む頃、私に何か起きていたら、金居瑞栞くんという人に話を聞いてください。
 その人が、一番私のことを知ってくれています。
 たつくんがこの町に戻ってくるのを待てなくてごめんなさい。
 今日まで生きてこれたのは、たつくんとの「結婚しようね」なんていう、子供の約束があったからでした。
 ありがとう。
 みゆより』
 俺はその手紙を読んで、何とも言えない混乱を感じて、眉根を寄せた。
 何だ? 雪舞は最期に、こいつに俺への怨みつらみを述べ立てていったんじゃないのか? こんなの、むしろ、俺が雪舞の理解者だったみたいではないか。一番知っているって──確かに、最後の日にいろいろ打ち明けてはいたけど。
「どうして」
 不意に日田が声を発したので、俺は便箋から顔を上げる。
「みゆちゃんを、助けてくれなかったんだ」
「……えっ」
「お前はみゆちゃんのことを一番知ってる、そんな奴だったんだろ。なのに、どうしてああなることを止めなかった」
「いや、俺は、」
「僕にとって、みゆちゃんは本当に大切な人だったのに」
「何──じゃあ、お前が助ければよかっただろっ」
「助けたかった、でもっ……僕は何も知らなかったし、この手紙だけじゃ何も分からなかった。あのときみゆちゃんのそばにいたのは僕じゃない、お前だった」
「俺は、そんな……雪舞と親しかったわけじゃない。話は、確かに聞いたけど……それだけで」
「嘘だ。白波さんが言ってた。みゆちゃんは、お前が言った言葉で救われたんだって。お前、みゆちゃんに言ったんだろ。『二度と兄貴とそんなことするな』って」
「は? そんなの──」
 言ってない、と言おうとして、突然、記憶が白黒にきしんだ。
 二度と兄貴と──。
 いや、そうだ。最後の日。俺は自分を利用していた雪舞を責めようとした。でも責められなかった。彼女が性的虐待でどれだけ傷ついてきたかと思うと、何も言えなかった。
 だから、ただ、二度と俺の部屋に来るなと言った。二度と部屋に来ることなく、兄貴とそういうことはするなと──
 ……救われた? あんなぞんざいな言葉で? じゃあ、雪舞は俺を怨んでいなかったのか?
「何で、みゆちゃんを止めてくれなかった? 僕からみゆちゃんを奪ったくせに。せめて、みゆちゃんが生きてくれていたら、みゆちゃんがお前を選んだことも受け入れられたのに。お前はみゆちゃんじゃなくて、ほかの女まで選んだ。許せなかった。僕の大切な人を助けなかったくせに、お前自身は幸せになるのは許せなかった」
「は……? 何だよ、じゃあ、全部それで陽葵も夕彩も、家族のことも殺したのか。雪舞が俺を怨んでたとか、そういうのじゃなくて?」
「怨む? 僕はみゆちゃんがお前を愛してたのが、一番許せなかったんだっ」
「愛……してる、わけ、ないだろっ。ここに書いてるじゃないか、お前とのガキの頃の約束で生きてこられたって。雪舞が愛してたのは──」
「お前が僕のすべてを奪ったんだ、だから僕もお前のすべてを奪った、ざまあみろっ」
 あまりにも支離滅裂で、俺が思わず立ち上がって、日田の胸倉をつかんだときだった。
 店のドアが乱暴に開かれ、「日田龍弥!」と鋭い声がした。はっとそちらを見ると、ウェイトレスに警察手帳を見せてこちらに大股で歩み寄ってきているのは、何人かを引き連れた天森さんだった。
 天森さんは俺を見て驚きを走らせたものの、すぐ表情を引き締め、「雪舞美優香の件から、日田龍弥が挙がりました」と重い声で言った。
「家宅捜索で凶器や日記なども押収されました」
 俺は天森さんを見つめ、日田の胸倉から腕をおろすと、「……あのとき、」とつぶやく。
「急用ですって言って、雪舞のことを話してたら」
「平原さんは助かっていたかもしれません。その件については、誠に深く──」
「何なんだよっ。雪舞は俺のこと怨んでなかったし、なのにみんなこいつに殺されるし、何でっ……」
「ははっ、ひとりだな。これからお前はずっとひとりなんだ」
「日田龍弥っ、殺人の容疑で逮捕す──」
「お前を殺さなかった意味が分かるか? 孤独だ! 僕が味わった孤独をお前に味わわせるためだ、生きるほうが地獄ってことなんだよっ」
「日田黙れっ」と天森さんが叱責して手錠をかけても、日田は俺のほうを見て目を剥いて大声で続ける。
「ひとりだけ残されて、自分のせいでみんな僕に殺されて、それで自分を責めて、死ぬほど苦しめばいい! みゆちゃんを殺したのはお前なんだ、助けなかったのはお前だっ。だから、僕とみゆちゃんの絶望を味わって生きろ!! 死ぬまで死んだみたいに生きればいい!」
 ……何にも。何にも知らない。こいつは何にも知らない。
 なのに、その言葉が俺の胸を激しくえぐる。十年以上抱えてきた罪悪感を滅多刺しにする。雪舞は俺を怨んでなどいなかった。だとしたら、この罪悪感は病んだ妄想だったのだけど、あまりにも俺の心に染みつきすぎているから猛烈に刺さる。
 俺のせいでみんな殺された。
 雪舞を殺したのは俺だ。
 俺は椅子に座りこんで、茫然としたまま、無意識のうちに泣いていた。日田は連行されながらまだわめいていて、それを店員がショックを受けた顔で見ていて、「金居さん、大丈夫ですか」と残った警察が俺の肩を揺すぶる。
 俺はしばらく何も反応せず、動くこともできなかった。
 日田の胸にも、きっとこの黒く虚しい穴があったのだ。
 だとしたら、あいつが絶対に悪いと、誰が言える?
 俺はあいつのせいで陽葵を喪ったけど、喪ったから、あいつの穴が分かる。痛いほどに分かる。分かりたくもないのに、やるせなさに胸がずきずきとして──どうしようもなく、涙が止まらない。

第二十五章へ

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