傷から病へ
雪舞とその男は、しばしば俺の家を訪ね、部屋で愛し合うようになった。ふたりの行為が俺の親にばれたらとんでもないので、そのあいだ、俺は部屋の前に座って漫画を読んだりゲームをしたりしていた。
いつも、一時間だ。男は先に帰っていき、雪舞は今度は俺に奉仕した。男は一応、代償として雪舞が俺に口でしていることは、知っているらしい。ちなみに口でされるまでで、軆は交わさなかった。さすがに、ほかの男の直後のそこに挿れたいとも、あんまり思わなかった。
男との事後、雪舞は虚ろな目をしていることがあった。人の部屋を利用してまで結ばれているのに、幸せではないのだろうか。確かに、あの男は優しくなさそうな印象があるが。まあふたりきりになったらいちゃついてんだろ、と投げやりに思っていた。
俺自身、雪舞が好きなのか何なのか、分からなくなっていた。怒りが強くて、嫉妬さえ感じるヒマがなかった。もはや、ただの性欲処理にしている気もする。
もちろん、夕彩にも誰にも、このことは何も教えていなかった。雪舞だってそうしてほしいだろうし、俺も自分がかなりゲスい自覚があった。
二学期が始まっても、雪舞と男は週末に訪ねてきて、一時間だけ俺の部屋を使った。家族はとっくにふたりの来訪を知っていたものの、まさか何をしているかまでは知らず、「もっとゆっくりしていってもいいのにねえ」なんて言っていた。
初栞は俺が部屋の前でぼさっとしていることを知って、「にいちゃん、また仲間外れなの?」とたまに心配しにきたりした。「そんなことないよ」と俺は初栞の頭をぽんとして、「あのふたりはちょっと内緒の話してるんだ」と言った。首をかしげる初栞に、「内緒だから、とうさんとかあさんには言っちゃダメだぞ」と俺は微笑む。初栞はやや納得いかないようでも、こくんとして階段を降りていった。
そして、狂ったような猛暑がやわらぎ、紅葉も落ち葉になっていく秋が深まってきた頃のことだった。
その日も、ふたりは俺の部屋にいた。相変わらず、男は終わると無愛想に俺の家をあとにする。足元が冷えていた俺は、それをぼんやりと見送り、例によって部屋に入ってドアを閉めた。
雪舞に目を向けると、下着だけの彼女はぽろぽろと涙をこぼしていた。「雪舞」と俺が驚いて名前を呼ぶと、雪舞は俺を見て、「金居くん」と壊れそうな声でつぶやいた。
俺は雪舞に駆け寄り、「何かあったのか」と言いながら、もしかして別れたのかな、とかちらりと脳裏で思った。雪舞は俺の言葉に首を横に振り、ただ声を殺して泣いた。俺はどうしたらいいのか分からず、隣に座るしかできなかった。
「金居くん」
ぎこちなく、雪舞のほうに首を捻じった。雪舞は長い睫毛を湿らせ、目を赤くしながら俺を見ていた。
「あの人とここに来るのは、今日が最後かもしれない」
「えっ」
「だから、金居くんにお礼できるのも、たぶん今日が最後」
してほしいときはいつでも、と初めてのときに雪舞は言った。しかし、俺は結局、学校でもどこでもしてもらったりしなかった。必ずこの部屋で、あの男とのあとだけだった。
雪舞は俺の手を取り、ぎゅっと握ってくる。
「最後だから……する?」
思いがけない提案に、目を開いた。雪舞のひんやりした指が、俺の指に絡む。
「最後、っていうのは……」
鼓動を駆け足にしながら、俺は静かに問うてみる。
「別れた、とか」
雪舞は顔を伏せ、しばし黙りこんだものの、「……つきあってない」と言った。
「えっ」
「あの人とは、つきあってるわけじゃない」
「で、でも」
「子供の頃からしてるだけ」
「は……?」
「あの人、私のおにいちゃんなの」
俺は息を飲んだ。
おにいちゃん。兄貴。それは──
「え……その、ど、同意なのか?」
俺の動揺した質問に、雪舞は何も答えなかったが、あの虚ろな目を見せた。それで、何となく分かった。
「ここに来ないってことは、そういうことも終わるってことか?」
「……そうじゃ、ないけど」
「ここに来れないことにして拒む? それなら、いいことかもしれな──」
「家では、両親が何となく感づいてて」
「えっ……」
「それで、場所を見つけてこいって言われて、私は金居くんの気持ちを利用して」
雪舞の瞳からまた涙があふれてくる。俺はおろおろして、ただつながった手を握る。
「罰が当たったの」
「ばち……って、」
「だから、最後にする」
「雪舞──」
「私、お礼って、そういうことしかできないから。もし金居くんがしたかったら……」
俺は息を吐いて、視線を下げた。
雪舞としたいか。そんなの──兄貴とのことを聞いて、俺まで彼女の軆をむさぼりたいとは、思えなかった。
「ほんとに、俺の部屋には来ないんだな」
「……うん」
「じゃあ、それが一番のお礼だよ」
俺は雪舞と手を離すと、精一杯苦い表情を作り、「どんな気分だったと思ってんだよ」とつぶやいた。
「お前のこと、好きだったのに。それをこんな……」
「ごめんなさい……」
「誰か来たらやばいとか思って、俺はずっと部屋の前で見張りだぞ。何なんだよ。ちょっと声とか聞こえたし」
「ごめん、なさ……」
「だから、もう来ないならそれでいい。二度と来るな。二度と……あいつとやったりすんな」
雪舞は俺を見て、嗚咽をもらして泣き出した。
俺は唇を噛んで、ほんとはもっと責めたいのに、と思った。何か、責められないじゃないか。
雪舞は子供の頃からどれだけ傷ついてきたんだ。何もできないどころか、俺はふたりの行為に加担していた。見返りと引き換えに、俺もあの兄貴と一緒に、雪舞を犯していたようなものだ。
そんな俺に、雪舞の何を責められるのか──
やがて泣きやんで、ひくつく喉も落ち着くと、雪舞はやっと服を着た。俺はうつむいて、衣擦れだけ聞いていた。「じゃあ」と雪舞が言ったので、やっと顔を上げる。
夕暮れが始まりかけて、窓から茜色の光が射しこんでいた。その色に染まって、雪舞はいっそう綺麗に見えた。
俺が、雪舞のこと好きじゃなかったらよかったのかな。
ゆらりとそんなことを思った。
だって、そしたら利用できる都合のいい分かりやすい野郎も、いなかったわけで。そうしたら、雪舞の家族が感づいた時点で終わっていたんじゃないか? それとも、ほかの場所を雪舞は何とか見つけ出して、やっぱり兄貴に犯されていたのだろうか。
部屋を出ると、かあさんが夕飯を作りはじめている匂いがした。初栞がいつもこの時間に観ているアニメで、はしゃいでとうさんに話しかけている声がする。
階段を降りながら、雪舞がちょっとよろけたので、俺は慌ててその細い軆を支えた。俺の腕の中で雪舞は深呼吸して、「大丈夫」と一階に降りた。
俺は玄関先で雪舞が靴を履くのを見届け、「じゃあな」と声をかけた。雪舞は振り返ってうなずき、何も言わずに俺の家を出ていった。俺は閉まったドアの鍵をかけ、終わったのか、とため息をついた。
それから二週間くらい、俺は何事もなく日常を過ごした。雪舞も淡々としていた。学校で、俺と雪舞に接点はない。どんな顔をすればいいと悩む必要も別になかった。
「お前、雪舞のことで騒がなくなったよなー」と夕彩に言われると、「高嶺の花過ぎて悟った」とか返しておいた。
事件が起きたのは、十一月が終わって十二月になった、乾燥した晴天の日のことだった。
雪舞が学校に来なくて、昼休みには大量のマスコミが学校に押しかけてきた。何事かとケータイで校名を検索をかけた奴らから、校内には、一気にその事件が知れ渡った。
昨夜、三年四組の雪舞美優香が兄を殺し、みずからも自殺したという事件だった。
「女子生徒はどんな生徒でしたか!?」
「学校側は女子生徒に相談を受けていたそうですが!」
「女子生徒の妊娠には気づいていなかったのでしょうか!?」
騒ぎ立てるマスコミの叫び声から、俺は初めて知った。雪舞が妊娠していたということだ。父親が誰なのか、俺にはすぐに分かった。
そして、二週間前の「最後」の俺の部屋で泣いていた雪舞がよみがえった。もしかしたら、あのとき、もう雪舞は腹の中の異変に気づいていたのか。
年が明けてもマスコミはうるさく、受験生の俺たちにはひどい雑音だった。教師が声を嗄らして引き下がるように訴えても、今度は登下校の通学路で声をかけてきて、話を聞こうとする。俺もつかまったことがあったが、何も言わなかった。何も言えなかった。
雪舞が身ごもっていた子供の父親については、はっきり報道されていなかったものの、殺されたのが兄貴だったから、それで察している人がほとんどだった。それでも、俺の口からそれを確定するのははばかられた。
マスコミの騒音の中、どうにか大学生になった。その頃から、雪舞が夢に出てくるようになった。
幼い彼女が、あの男にのしかかられる。告白したのになぜ助けてくれなかったのかと泣く。白い肌に返り血を浴びながらあいつを刺し続ける。
生前の雪舞は、俺を責めることなんてしなかったのに、死んでから彼女は、直接見たわけでもない映像と共に俺にまとわりついて、ひどく責め立てた。
次第に、その悪夢が精神を蝕み、俺は心を病んできた。眠るのが恐ろしく、心療内科で睡眠薬を処方されるようになった。薬を飲んでひと晩じゅう真っ暗に眠って、就職後も何とか生活していた。
しかし、雪舞の幻影は消えなかった。いまだに雪舞に部屋を貸していたことは誰にも言っていない。
事件のとき、雪舞はまだ十七歳だったから、報道で顔が出ることもなく、家族も俺の部屋に来ていた女の子だとはさいわい気づかなかった。
誰も知らない。俺しか知らない。たぶん、雪舞は俺の部屋で妊娠したのだと思う。だから、こんなに俺にまといついてくるのだ。
俺が部屋さえ貸さなければよかった。性欲処理なんて思って、見返りを受けなければよかった。「最後」の日、雪舞にもっと踏みこんで、助けてあげていれば──
でも、もう、俺が好きだったあの女の子はこの世にはいない。
この世にはいない──はず、だった。
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