言えないまま
前の職場は、けして環境が悪かったとか、嫌がらせがあったとかではない。かなり多忙ではあったけど、人間関係も基本的に円滑で良い職場だったと思う。
実際、俺が辞めることにしたときも、上司は「いつ帰ってきてもいいんだぞ」と言ってくれた。どれだけありがたい言葉だろう。しかし俺は、それを「とっとと早く仕事に戻れ」という意味に曲解したほど、夜ごとうなされるストレスで、完全に精神を病んでしまっていた。
仕事を辞めたのは、陽葵と同棲を始めてまだたった三ヵ月という最悪のタイミングだった。心療内科の先生から、就労不可という診断が出たのだ。「でも、仕事はしないと」と俺は泣きながら診断を下げてもらうように頼んだが、「療養しないと、金居さんの心が壊れてしまいます」と先生は言った。
心なんて、もう壊れている。あのとき、雪舞が死んだとき、俺の心は砕け散って、それ以降は破片のままばらばらだ。そして、その雪舞が夢に繰り返し現れては、執拗に俺の魂を傷つける。
でも、雪舞とのあの時間のことは、先生には明確には話していない。高校時代の好きな女の子が、自分のせいで死んだとしか言っていない。それでも先生は、少ない手がかりで俺の心を診て、「今は仕事は休みましょう」と判断した。
通院に付き添っていた陽葵も、俺の診察のあとに診察室に呼ばれて先生に話を聞き、「大丈夫だよ、私が働けばいい」と言った。彼女にそんなことを言わせるのが、かえって情けなくてたまらなかった。
本当に死にたいと思ったけど、そうすると夢の中でまた雪舞が、「その程度で死ぬつもり?」と起き上がれない俺を見下ろして言う。
仕事を辞めたあと、心配してくる元同僚のメッセにいらいらして、ひどいことをすると分かっていてもアカウントを一度削除して、作り直した。「通院は続けてくださいね」と言われていたのに、心療内科も薬が欲しいときしか行かなくなった。
その頃、ちょうどあの雪舞と過ごした時間から十年後のときだった。十年経っても、俺は彼女の衝撃的な死が忘れられない。幻惑に囚われている。
どうして助けてくれなかったの。
何で見返りを跳ねのけてくれなかったの。
ねえ、あなたは私のこと「汚れてる」って言ったね。
雪舞はそんな言葉を俺に投げつけ、俺は目が覚めて、自分が発狂しているのか正気なのかも分からなくなった。おののく俺を抱きしめて、真夜中でも頭を撫でて、根気良く「大丈夫」とささやきつづけてくれたのが陽葵だった。
陽葵と暮らしはじめた矢先に、仕事を失ったのは最悪だと思ったが、同時に、仕事を失くしてどん底に堕ちたとき、誰よりそばにいてくれたのが陽葵でよかったとも思う。陽葵と暮らせている幸せが、暗くしけった俺の心にやっと光を当てはじめた。
家族では、俺を支えるのは無理だったと思う。家族は俺が仕事を辞めたことも、さらにその後、就職でなく喫茶店でバイトを始めたことも、一応理解はしていてもこころよく思っていない。
「あんなに普通の子だったのに」とかあさんが泣いて、「教育を間違えたんだろう」ととうさんが苦く答えているのを聞いてしまったことがある。弟の初栞も、「ダメ兄貴で恥ずかしい」と言ってきた時期がある。
だが、そんな初栞の頭を小突いたり、「心が弱るのは瑞栞が優しいからですよ」と両親を励ましてくれたのも、陽葵だった。陽葵のおかげで、俺は最近ようやく家族とも向き合えるようになっている。
陽葵にも、雪舞のことを話しているわけではない。打ち明けたいと思うときもあれど、やはり軽蔑されたくない保身が来る。雪舞と同じ女性として、聞いてしまったら、陽葵も俺を許せないと思うかもしれない。
「つきあってみたら、こんなメンヘラだったとかごめんな」
何も説明できないのを、精一杯「メンヘラ」という言葉でごまかして俺がそう言うと、陽葵はかぶりを振って「瑞栞と一緒にいたいと思ったのは私だから」と手をつないだ。恋人つなぎだった。
「これからも一緒にいられたら、それでいいんだよ。生きるのがつらくていいの。何もできなくて苦しくてもいいの。ただ、私を置いて逃げていかないで。瑞栞のそばにいさせて」
俺は陽葵を見つめて、涙をこぼしながら彼女を抱きしめた。この女を遺して、死んだりできないと思った。
陽葵と一緒にいる。そばにいる。いくら老いても、こいつとなら大丈夫だ。死ぬまでおそらくまだだいぶんかかることが、やっと怖くなくなった。
喫茶店は、午前九時に開店する。午前中から繁盛して大いそがしという日はそんなにない。土日は常連さんでわりとにぎわうものの、平日はゆったりしたものだ。それでも、二、三人のお客さんが常にいて、閑古鳥というわけでもない。
コーヒーは基本的にマスターが淹れるけど、カフェオレなら俺に淹れさせてくれる常連さんもいる。「自分も飲めるものが、やっぱり上達するからね」とマスターも俺にカフェオレを淹れるコツを教えてくれた。
それまでコーヒーの豆の種類なんて分からなかったし、挽き方で味が変わるのも知らなかった。だからまず、カフェオレが深煎りと細挽きで一番おいしくなるのを最初に憶えた。ミルクや生クリームは、脂肪分が高いものだと濃厚になる。ミルクの温め方、コーヒーの淹れ方、そしてミルクとコーヒーの対比や混ぜ合わせ方。ちょっとずつ憶えていって、常連さんのカフェオレならマイルドが好みか、ビターが好みかも把握してきた。「おいしい」と言ってもらえると、ほっとするのと同時に嬉しかった。
昼は周りに会社も多いので、昼食を取りに来るお客さんが増える。そのあいだは、俺は軽食をひたすら作る。トーストやサンドイッチ、オムレツ、甘党の人にはホットケーキとかも。回転が速くなるので、テーブルをすぐ片づけるのも心がける。
昼のあわただしさが過ぎても、今度は昼過ぎまで働き、やっと休み時間になった近くの病院の先生とかが、束の間くつろぎに来る。十六時をまわって、やや店内が落ち着いた隙に俺は休憩し、マスターは材料の買い出しに出たりする。夕方から閉店の二十一時までは、昼とは逆に長居するお客さんが増え、本を読んだり書き物をしたり、ほかの常連さんと話をしたりしている。
閉店後も精算や片づけで一時間くらいかかって、俺はいつも二十二時過ぎに部屋に帰宅する。陽葵もこの時間まで遅くなることはあるが、帰っていると、たいてい夕食を作ってくれている。
今日も「おかえり」とハグして俺を出迎えたあと、「ごはん、あっためるから待っててね」と陽葵はキッチンに立った。禁煙席のない喫茶店なので、俺は煙草が染みついてしまった服を着替える。
けっこう長時間労働をやっているのだけど、そうしないと家賃に追いつかないのもあるし、あの店で働いている時間に苦もない。ちなみに週五勤務をしているが、シフトは週申請で、土日も関係なく休みたい日は自由にオフにしてもらえる。
キッチンからのおいしそうな匂いを嗅ぎながら、ほぼ一日チェックすることのないスマホを見ると、着信がついていた。この部屋で俺を待っている陽葵が、何心ないメッセやスタンプを飛ばしていることもあるのだが、今日は夕彩からのメッセだった。
夕彩は現在、小学校の先生をやっている。そして夕彩はゆいいつ、俺が精神的に弱る原因が、雪舞なのも知っていた。部屋での「事」は伝えていなくても、雪舞の死が俺に影響していることは察している。
『おーい、生きてるかー?
俺は受け持ちの生徒がもう分からんわ。
ほんとに分からん。
高学年つらい。』
同僚や保護者には言えないであろうぶっちゃけた内容に、つい笑ってしまう。夕彩がここにいたら、「笑うな」と小突いてくるところだろうが。
夕彩はいい先生をやっていると思うのだけど、それでも最近の小学生の問題は手に余るらしい。イジメも不登校も非行も、小学校から深刻に始まっている時代だ。ひとりひとりの生徒の家庭の問題もあったりする。
『生きてるよ。
今、仕事終わって帰ってきた。
そして陽葵さんの手料理を食べます。』
既読がついてすぐ、犬が地団太を踏むスタンプが来た。
『お前らほんと、倦怠期来ないな。
何なんだよ。
もう結婚しろよ。』
『したいけどさ。
就職してないと、陽葵のご両親が不安だろ。
まず俺が挨拶に行けねえわ。』
『帰宅、今なんだろ?
ちゃんと働いてる気がするけどな。』
『いくらやってもバイトだしな。
社員にならないと。』
『お前がまた元気にリーマンできるならいいけど。
しんどくなるなら、俺はあんまり正社員にこだわるのは賛成できないな。』
俺はフリックする指を止め、どう答えるのか迷ってしまう。
夕彩に仕事を辞めたと伝えたときもかなり驚かれたけども、否定はされなかった。むしろ、俺のメンタルが目に見えてぐらついているので、「無理だけはすんな」と療養を弱さとも逃げとも言わずに肯定してくれた。
『もうじき、十二月になるからやっぱ心配でさ。』
俺の返事の前に、夕彩のメッセが表示される。
『この時期、お前いつもつらそうだから。
ほんとに気分とか睡眠とか大丈夫か?』
その文字を見つめ、静かに深呼吸してから『大丈夫だよ。』とひとまず送信した。
『夢とかは相変わらず見るけどな。
それは、もう分かってる。
俺はあいつに何もできなかったことを、一生忘れられないんだと思う。』
既読はついても、夕彩の返信が来ない。キッチンから、炊き込みごはんらしき豊かな香りがただよってくる。
『お前が、あのことで何でそんなに責任感じるのか分からないけど』
夕彩のメッセが、ぽんと現れる。
『それだけ、あいつが好きだったってことなら、残酷だけど忘れていいんだぞ。』
唇を噛んで、何も返さずにいると夕彩は続ける。
『何でかって言ったら、今、お前には陽葵ちゃんがいるからだ。』
心臓がどくんと動く。
『お前は陽葵ちゃんを幸せにすればいいんだ。
あいつのぶんまでな。
言い方悪いけど、そろそろ吹っ切れよ。
それでいいんだ。
誰もお前を責めないよ。』
俺はスマホを握りしめ、『誰も俺を責めたことはないけど、雪舞だけは今でも俺を責めるんだ。』と入力した。しばし迷ったものの、それを送信した。既読がつき、間があってから返事が来る。
『お前さ、ほんとにあいつとつきあってたとかじゃないよな?』
『それはない。』
『じゃあ、たぶん、あいつにとってお前は何でもなかったのと一緒だぞ。
なのに、何であいつがお前をそんなに責めるんだよ。』
俺は眉を寄せ、ここから先は言えないと思った。
雪舞とその兄貴に部屋を貸していた。その見返りをもらっていた。「最後」に事情を話した雪舞を引き止められなかった。
言えない。いくら夕彩でも、やっぱり言えない。
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