雪の十字架-6

温かい味

「瑞栞?」
 俺がスマホを握ったまま、硬くなって堕ちかけていると、陽葵の声がした。俺は顔を上げる。陽葵は座卓にほかほかと湯気を立ちのぼらせる料理を並べながら、「どうかした?」と愁眉を見せていた。その陽葵の顔を見つめていると、俺の心は納得しなくても、夕彩が正しいのだろうとやっと思えた。
 そう、俺は陽葵を幸せにすればいい。
 雪舞を救えなかったぶんまで、陽葵を大切にすればいい。
 雪舞のことは、せめて考えないようにする努力はしないと──
「ごめん、夕彩にちょっと怒られてた」
「夕彩くん? 何か言われたの?」
「陽葵を幸せにしてやれって」
 陽葵はまばたきをしたあと、くすりと微笑み、「私はとっくに幸せにしてもらってます」とはにかんだ。
「それより、夕彩くんも長続きする彼女を作りなさいと言ってやったらいいよ」
「はは。そうだな。今の彼女とは続いてるのかな」
「どうなんだろ。まあ、私はじゅうぶん幸せだからね」
 俺はうなずき、陽葵の言葉をそのまま送信して、それから『お前が正しいんだと思う。』と素直に伝えた。
『できるかは分からないけど、あんまり気にしないようにするよ。
 今の俺が一番大事なのは、陽葵だから。』
 そのメッセに既読がつくと、「お前が正義だ」というスタンプが来たので、どこでこんなスタンプ見つけるんだ、とまた思わず笑ってしまう。
『陽葵ちゃんといたら、きっとお前は立ち直れるから。
 そしたら、仕事もできると思うしな。
 ほんと、大切にしろよ。
 そのためなら、俺はいくらでもお前を支えるぜ。』
 意見は鋭いけど、言葉は優しい親友に感謝して、俺は「ありがとう」と「また連絡する」のスタンプを送っておいた。やりとりが止まったスマホをソファに置く。
 陽葵は夕食を座卓に並べ終えて、最後に緑茶を持ってきた。「夕彩くん、撃退できた?」と訊かれて、「撃退した」と俺が応じると、陽葵はにっこりしてから「じゃあ食べますか」と箸を取る。
 俺も具沢山の豚汁のお椀を取って、味噌の味をすする。今日の献立は、きのこの炊きこみごはんと豚汁、それから秋鮭のフライだった。
 食べていると、胃から軆がふわりと温まって、おいしさに心が癒される。食欲がないようなときも、俺は陽葵の料理なら食べられる。陽葵との食事で、食べることは心身の基本だと痛感するようになった。
 零時になる前に、食器洗いや入浴を済ませて、俺と陽葵とダブルベッドに入る。ずいぶん一緒にいてもセックスレスにはなっていないが、そんなにしょっちゅう求めない。ただ、最近は男より女のほうがセックスレスで不安になっているという話を耳にするので、陽葵の何気ない仕草には気をつけるし、俺から抱きしめて「したい」と甘えるときもある。
 コンドームはちゃんとつける。陽葵との子供はいつか欲しいけども、まだ自分が責任を取れないのは分かっている。精神的にも、収入的にも。なのに欲望のまま出して、陽葵の軆に負担をかけるのは絶対に嫌だ。
 そんなふうに、毎日を過ごしていく。俺が仕事で陽葵が休みのときは、陽葵は家事を思いっきりやるときや友達とお茶しにいくときもあるが、たいていが土日なので、ちょっといそがしい俺の職場に顔を出して、裏方の調理を手伝ってくれたりする。
 逆に陽葵が仕事で俺が休みだと、洗濯や掃除くらいは俺がやっておき、ひとりでいるのが落ち着かないなら実家に帰ったりする。地下鉄でけっこうくだらないといけないけども、乗り換えはいらないので、ぼんやり座っている時間以外は楽ではある。
 月曜日にオフが来たその日も、精を出すほど洗濯物もなく、やることがなくて無気力な感じが自己嫌悪をかきたてるので、実家に行くことにした。
 駅ナカを少し歩いて、おみやげのお菓子を買ってから、「今からそっち行く」とかあさんにメッセを飛ばした。すると、すぐに「おかえり」とうさぎが跳ねているスタンプが来た。まだ家に着いてねえよ、と苦笑いしつつ、俺が「ただいま」のスタンプを送ってみると、『お昼ごはんはラーメンです!』とかあさんのメッセが届く。
 時刻は十一時前だから、確かにちょうど昼飯の時刻に家に着くだろう。『了解~』と答えておいて、陽葵にも実家に行っておくことをメッセで伝えておいた。仕事中なのか、既読はつかなかったけども、昼休みに見てくれるだろう。
 バイトさえしていなかった頃は、実家に帰るのが怖くて避けていた。働きはじめて、何とか顔を出せるようになった。それでも、この歳での喫茶店のバイトという立場に、まだ両親は若干とまどっている。
 弟の初栞は今年高校二年生で、どちらかといえば中学時代のほうが俺に軽蔑じみた視線を向けていた。今は当人が進路だの何だのと周りからうるさく言われるようになり、「何か兄貴が自由に見えてきた」と逆に俺にいろいろ相談してくれる。
 俺は自由というか、逆に病気で制約されているのだけど、正直初栞が懐いてくれるのが嬉しいので、自分のことはあれこれ言わずに「初栞がやってて楽しいことをやればいいよ」と励ます。それを親に聞かれると、あまり無責任なことは言うなと、ちくりと刺されてしまうのだけど。
 実家は変わらず、駅から十五分ほど歩くあの一軒家だ。鍵はもう持っていないので、チャイムを鳴らすと、髪をアップにまとめてさらっと化粧もした小柄なかあさんが、玄関を開けてくれる。
 言うまでもなく、とうさんは仕事、初栞は学校だ。かあさんがパートに出ていた時期もあるけども、俺が陽葵と同棲を始めて、ひとりぶんの負担がなくなったのを機に専業主婦になった。
「焼きプリン」とおみやげのふくろを見せると、「あのおいしかった奴ね!」とかあさんは皺を見せて咲って、受け取ってくれた。
 焼きプリンはひとまず冷蔵庫に入り、俺とかあさんはリビングとキッチンのあいだのダイニングのテーブルで向かい合い、ラーメンを食べた。コーンやブロッコリー、緑黄色野菜がたっぷり入った塩ラーメンだ。
「陽葵ちゃんにも来てほしかった」
 かあさんにそう言われ、「あいつは普通に仕事だし」と俺が返すと、「瑞栞は、まだ喫茶店でバイト?」という流れになってしまって、つい口ごもってラーメンを頬張る。かあさんはそんな俺を見て、「おとうさんは、まだ少し納得いってないみたいだけど」と麺を絡めていた箸を休める。
「おかあさんは、もうあんまり責めたくないと思ってるから」
「え……」
「陽葵ちゃんみたいな子を連れてきてくれたんだから、きっとおかあさんは幸せなんだよね。いい子よねえ、私と連絡先まで交換してくれて」
「そ、そうなの? 交換してんの?」
「瑞栞との馴れ初めも聞いちゃった。今はコーヒー飲めるの?」
「……飲めないけど」
「それでちゃんと、喫茶店でお仕事になってる?」
「まあ、うん。カフェオレなら得意」
「最後に牛乳入れるだけでしょ」
「いや、ぜんぜん違うし。牛乳は最初に五分くらい弱火であっためるんだよ」
「あら、面倒臭い」
「俺も前は、最後に牛乳と思ってたけどさ」
「そっか。今のお仕事、頑張ってるんだね」
「たぶん……何もできなかった頃よりは、マシ」
「陽葵ちゃんも、瑞栞は今できることは全部やってるって言ってたよ。それを、おかあさんたちの理想で、もっと立派に、もっとしっかり、いろいろやってほしいとか言うのは違うんだよね」
 俺はかあさんを上目で見たあと、かぼちゃをつつき、口にふくんでバター風味を噛む。
「ごめんね、瑞栞を余計に苦しめて。『瑞栞が生きていて、そばにいてくれたら幸せ』なんて、親が一番感じなきゃいけないのに。陽葵ちゃんにそう言われて、ほんとにはっとしたの」
「……俺も、陽葵にそういうこと言われて、すごく救われた」
「そう。いいお嫁さんだよね。あ、まだ結婚してないか。せめて親が贅沢言っていいなら、陽葵ちゃんと結婚してほしいなあ」
「それは、約束できると思う。そのために、俺もいずれ正社員になりたいし。子供だって欲しい」
「うん。そうだね。瑞栞がそう思ってくれてるなら応援する。おとうさんも、頑固なだけだからね。ほんとは瑞栞とお酒とか飲みたいんだよ」
「酒はあんまり飲めない……けど、とうさんが俺と飲みたいなら」
「ふふ、きっとおとうさんはもっと瑞栞に頼ってほしいんだと思う。つらい気持ちとかをね、自分には何も愚痴ってくれないのが、すごく悔しいんだよ。だから、ちょっと甘えてあげればいいの。そしたら、すぐ分かってくれる」
 かあさんの優しい口調に、俺は顔を伏せたけど、間に合わずに涙が頬を流れてしまった。
 こんな出来損ないの俺を、両親は懸命に理解しようとしてくれている。それが胸をいっぱいにして、締めつけられるほどありがたかった。
 何でとうさんもかあさんも、俺を認めてくれないんだろう。そう思ってきたけど、俺のほうこそふたりを親として認めていなかったのかもしれない。
 何も話さない。ひとつも頼らない。いつも最悪な報告だけ。
「ごめん」と俺が鼻をすすってつぶやくと、「瑞栞は昔からほんとにいい子」とかあさんも涙声になりながら、噛みしめて言ってくれた。
「あ、早く食べないとラーメン伸びちゃうね。先に食べようか」
「かあさん」
「うん?」
「かあさんが生んでくれたから、俺は陽葵と出逢えたんだ」
 かあさんは俺を見つめた。そして、ぽろっと泣き出しながらも、嬉しそうに微笑んだ。「ありがとう」と俺はぼそっとつけくわえ、そのあとはラーメンを食べた。
 塩味が、ラーメンの味だか涙の味だか分からない。でも、すごく温かい味だと思った。

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