悠久に凪いだ君を想う-3

幸せになれるから

 ドアを閉めて寒風を断ち、あたしと悠紗は靴を脱いだ。玄関からリビングに移動して、荷物をおろして軆を楽にする。
「お昼温めるあいだ、ふたりで彩羽と飛羽を見ててくれる?」
 リビングの真ん中にはこたつがあって、暖房がかかる中にお味噌のいい匂いがしていた。「煮込みうどん」と悠紗が言うと、「よく分かったねー」と千羽さんは咲ったあと、あたしたちにそう言って、彩羽ちゃんと飛羽くんを預けた。
 悠紗が抱いた飛羽くんは、静かだと思ったら眠っていた。肌は透き通るようでも、まだ本当に小さな赤ちゃんだ。彩羽ちゃんは「さむいー」とこたつに入って、「ふー」とぬくぬくした表情になる。
「毬音は、こたつ初めてじゃない?」
「初めてだと思う」
「幸せだから満喫しなさい。あと、彩羽の相手もよければ」
 あたしはこくりとして、「いいかな」と彩羽ちゃんに先に断った。「いいよっ」と彩羽ちゃんは座卓をたたき、「彩羽、音出すと飛羽起きるから」と悠紗が注意する。「むー。みんな飛羽ばっかりー」とむくれる彩羽ちゃんの垂直の位置に、あたしは腰をおろす。
 ごそごそとこたつの中に入ってみると、染みこむような温かさが軆に流れこんできた。寒さで硬くなっていた肌がやわらいでいく。
「あったかい……」
「だろー。うちもこたつ欲しいけど、置く場所ないよな」
「ねえねえ、お名前まりち?」
「あっ、うん。そうだよ」
「まりちはゆうちとらぶらぶ?」
「えっ」
「お、果たして毬音は、俺とらぶらぶと答えるのか」
 実況を入れられて恥ずかしくなり、「……まあ、そういうことになってます……」とあたしはぼそぼそと答える。すると、「そーゆー……?」と彩羽ちゃんは不思議そうに首をかたむける。
「毬音、子供にそんな『察してください』みたいな答えは通じないから」
「うっ……」
「彩羽、まりちとゆうちはらぶらぶです」
「そーなの? うー、彩羽もらぶらぶしたい」
「え、俺と?」
「ゆうちはおじさん……」
「はっ? ちょ、俺、今生まれて初めて『おじさん』呼ばわりされたんだけど! 何だ、このショックは」
 悠紗が勝手に愕然としていると、千羽さんがどんぶりに盛った煮込みうどんを運んできた。お味噌と半熟たまごが香ばしく、お餅も入っている。手伝ったほうがいいのかな、と思ったけれど、まだ心持ちがぎこちないので、もし手をすべらせたりして食器を落としたりしても申し訳ない。千羽さんに「すみません、座ってるだけで」と言うと、「気にしないで」とにっこりしてもらえた。
 それから、五人でこたつを囲んでお昼ごはんになる。
「千羽ちゃんひとりで、ふたり見るの大変だよね。きよ姉はお店?」
「あ、それは、年末までは聖乃さんと一緒にふたりを見てたの。今年から、私か聖乃さんがお店に入るようにしようかって、お正月に話し合って」
「そうなんだ。お店大変なの?」
「おばさんが体調崩しちゃって」
「マジ? 大丈夫?」
「手術になるかもって言ってた。子宮に筋腫があったって」
 膝に飛羽くんを乗せる千羽さんは、愁眉して言う。彩羽ちゃんは、小さいお椀に取り分けられたうどんを、フォークを使って一生懸命食べている。
「何かそれ、よく聞くよね。毬音は大丈夫?」
「え、知らない」
「知らないの!?」
「毬音さんはいくつだっけ?」
「二十三です」
「そっか。三十歳になるくらいから、検診受けたほうがいいかもね」
 あたしはこくりとしつつ、保険証とかないあたりは弓弦に闇医者を仲介してもらえばいいか、と考える。
「悠紗くんは、EPILEPSYに合わせて帰ってきたんだっけ」
「それもあるよ。千羽ちゃんはEPILEPSY行くの?」
「十三日はみんなで行くつもり」
「彩羽と飛羽も?」
「うん。ただ、飛羽は聖樹さんが控え室で見てるかな。彩羽のことも、萌梨くんが抱っこしてるし」
「それがいいね」と悠紗はうなずき、たまごの黄身をつぶしてうどんに絡める。お餅を食べていたあたしは、それをよく噛んで飲みこむ。
「毬音さんも、ライヴとか好きなの?」
「悠に会ったのは、ライヴハウスです」
「あ、ふたりの馴れ初め、気になるなあ」
 あたしと悠紗は顔を合わせ、「毬音は」と悠紗が語り出す。
「ファントムリムっていうバンドで、ヴォーカルやってる人の友達の娘なんだよね」
「もしかして、毬音さんも楽器できるの?」
「いえ、それはぜんぜん。聴くだけです」
「会ったのは俺が十二歳で、毬音が十一のときかな。XENONとファンリムが対バンしたのが切っかけ」
「子供がステージ立ってるからびっくりしました」
「いや、毬音もあのとき子供だったから、観客の中で目立ってたからね。それで、俺の誕生日に毬音がお菓子くれて」
「手作り?」
「あれは──買った奴だよね?」
「買った奴」
「買った奴だった。でも、女の子から差し入れされたの初めてで、テンション上がった」
 悠紗は嬉しそうにあたしとの出逢いを語り、千羽さんは楽しそうにそれを聞いている。
 その光景を見ながら、緊張はあるけど嫌じゃないな、と思った。この家の空間も、不思議とあたしをよそ者のように感じさせない。天鈴町にはぜんぜん通じない空気なのに、なぜだろう。でも、思っていたより落ち着いて、この家で数日間を過ごせそうだと感じた。
 昼食のあと、目を覚ました飛羽くんが哺乳瓶でミルクを飲むのを見たり、彩羽ちゃんがenfant terribleの曲をスキャットして悠紗が喜んだり、千羽さんとまったり話したりしていたら、あっという間に日が暮れてきた。千羽さんはキッチンに立ち、あたしは今度こそ手伝ったほうがいいかを尋ねてみた。
「一緒に料理してみたいけど、悠紗くんひとりで、彩羽と飛羽を見るのも大変だろうから」
 千羽さんの言葉に、あたしは素直に悠紗と子供たちを見ることになった。悠紗は飛羽くんを高い高いしたりしている。彩羽ちゃんは自立して歩くのはまだ少し危なっかしく、転びかけたときにはあたしが慌てて支えた。すると、「えへへー」と彩羽ちゃんはあたしにくっついて甘えてくれる。
 そんなふうに過ごしていると、「ただいまー」という声が玄関から聞こえてきた。彩羽ちゃんはがばっと顔を上げ、「おとーさん!」と声を上げる。応じるようにリビングに顔を出したのは、モスグリーンのダウンを羽織った穏やかそうな男の人だった。
 この人は、天鈴町を訪ねてくれたときに会ったことがある。悠紗のおにいさんで、萌梨さんだ。
「彩羽、飛羽、ただいま──あ、悠紗も。そっか、今日来るって聖樹さんが朝に言ってたね」
「突然来ると、とうさん文句言うからねー」
 笑った萌梨さんは、あたしにも目を向け、「毬音さんも、お久しぶりです」と微笑んでくれた。以前、街の中で会ったときより、しっかりした印象がある。
「お久しぶりです。あの、急についてくることにしてしまって」
「いえ、来てくれて嬉しいです。聖樹さん──悠紗と僕の父も、毬音さんに会いたがってましたから」
「がっかりされないといいんですけど」
「毬音さんは、悠紗が選んだ人なんですから。聖樹さん、悠紗の見る目はすごく信じてるんですよ」
 萌梨さんの笑顔に、確かに悠紗はろくでもない女とつきあう男ではないか、とある意味うなずけてしまう。そうしていると、「萌梨くん」とエプロンをまとった千羽さんが顔を出した。
「千羽ちゃん。ただいま」
「おかえりなさい。夕ごはん、すぐできるから少し待ってね」
「せっかくだから、聖樹さんと聖乃さんも帰ってからにしようか。悠紗と毬音さんもそれでいい?」
「もちろん!」
「あたしも構わないです」
「よし。千羽ちゃん、僕、何か手伝おうか?」
「平気だよ。あとはシチュー煮込むだけだし」
「じゃあ──何かあったかいの飲もうかな。紅茶淹れてもいい?」
「私、淹れるよ。今日も寒いもんね」
 そんなふたりに、「彩羽、ここあー」と彩羽ちゃんがじゃれつく。萌梨さんは彩羽ちゃんを抱き上げ、「彩羽のココアは僕が作ってあげるよ」と優しく微笑んだ。
 あたしはそれを見ていて、あんな嘘みたいな家族があるのか、と茫然としてしまった。あたしも、悠紗とあんな家庭を作れるのだろうか? 飛羽くんを抱き上げる悠紗を見るけど、何だかきっぱりとした自信がない。
 パパ。ママ。ひとり娘。そう、あたしもかたちなら同じだった。でも、ぜんぜん萌梨さんたちみたいじゃなかった。そして、あたしはその家庭しか知らない──
 まもなく、悠紗のおとうさんと奥さんも、一緒に帰宅してきた。奥さんが二十時にお店をあがるのを、悠紗のおとうさんは直帰せずに待っていたらしい。
「悠、久しぶり。元気だった?」
 かばんをおろして、おとうさんは悠紗に笑顔を作る。
「俺に何かあったら、勝手に報道される」
「何かそれ、逆に怖いな……」
「悠くんも立派に芸能人だねー。どんどんかっこよくなってくし」
「きよ姉、髪切ったんだね」
「お産の前に切った。この子生まれたら、長い髪洗ってる余裕ないかなって」
 そう言った奥さんは、悠紗が抱いている飛羽くんを覗きこむ。
「そっちのが似合ってるよ」
「よく言われる。美容室で切ってもらう効果すごい」
 楽しげに笑った悠紗は、それから「毬音」とこちらを向いた。「あ、」とあたしは慌てて立ち上がり、悠紗の隣に並ぶ。
「今回は連れてきたよ。俺の彼女の毬音」
 ベージュのコートを着た悠紗のおとうさんと、レッドのコートを着た奥さんは、あたしを見てやや表情を引き締めた。あたしもどきどきしながら肩に力を入れてしまう。
 悠紗のおとうさんは、すらっとスマートな男の人で、息子の悠紗とは印象がちょっと違った。確かに下町の商店街にいるような感じじゃないかも、と昼間の話を思い出してしまう。
 奥さんは、髪を肩の長さでさっぱりと切った快活そうな人だ。再婚相手で、悠紗と血縁はないと聞いているけど、悠紗がよく懐いているのは普段から聞いている。
 ちょっと沈黙が来て、緊張感が背筋を駆けのぼってくる。認めてもらえなかったら悠紗が困るよね、と深呼吸して、あたしは丁重にふたりに頭を下げた。
「初めまして。悠紗……くん、とおつきあいさせてもらってます。何日か、お世話になります」
 聖樹さんはあたしを見つめたあと、ふと笑みに表情をやわらげて「こちらこそ、初めまして」とお辞儀を返してくれた。
「悠紗がお世話になってます。父の聖樹です。こちらは、僕の妻で聖乃さん。一応、悠の母親だけど──」
「悠くんは弟分って感じですね。よろしくお願いします、ええと、毬音ちゃん?」
「はい。よろしくお願いします」
「ふむ」と聖乃さんは腕をこまねき、「話には聞いてたけど」と聖樹さんを見上げる。
「予想より、悠くんが面食いなのは分かったね」
「そうだね。悠のタイプってこういう……」
「クールビューティー」
「あ、そんな感じ」
「ふたりとも! 何か、それさー。俺は毬音を顔で選んだわけじゃないよ」
 悠紗の言葉に「ごめん、すごく綺麗な子だから」と聖樹さんは謝り、「そうだけどさー」と悠紗はむくれる。
「悠が連れてくる女の子って、会うまで想像つかなかったから、新鮮だよ」
「反対とかは、なしだからね」
「そこは、悠紗の見る目を信じてるよ」
 聖樹さんの言葉に、萌梨さんもそれ言ってた、とあたしはまばたく。「夢もかなったよ」と言う聖樹さんに、「夢?」と悠紗が首をかしげ、聖樹さんはしみじみとうなずく。
「悠に大事な女の子ができて、その子に挨拶するのは、ずっと僕の夢だったから」
「大袈裟だなあ。いつか連れてくるもんじゃん」
「そうだけど。毬音さんのことも、話は聞いてもなかなか連れてこなかったし」
「それは毬音の事情もあるの。ね」
 悠紗はあたしを見て、あたしは曖昧に咲うと「すみません」と一応ふたりに謝る。
「なかなか、あたしが挨拶する勇気が出なくて」
「あ、ぜんぜん。今日来てくれたから、それで」
「あたしも──その、子供の頃から、自分の家族ができるのが夢でした。両親とは、今は縁も何もなくて」
「……そうなんですか」
「だから、悠とつきあいはじめてからは、ご家族に認めてもらうことも夢でした」
 聖樹さんをまっすぐ見ると、聖樹さんもあたしを見て、「嬉しいです」と物柔らかに微笑してくれた。
「悠と家族になりたいと思ってくれてるなら、本当にありがたいと思います。これからは、僕たちとも仲良くしてください」
 あたしはうなずき、思わず、また涙がこみあげそうになる。
 優しい。温かい。こんな家庭に、あたしは仲間入りできるんだ。
 パパはこんな空気を嘲笑するだろう。そんなパパは、可哀想なのだ。こんな沁みいる温もりを知らない。知ろうともしない。否定までしている。
 あたしは違う。この家が、ただよう空気が、住まう人たちが、素敵だとちゃんと思える。
 幼い頃のあたしに伝えたい。
 あんたはちゃんと、幸せになれるからね──と。

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