天使の羽
翌日のEPILEPSYは、大盛況だった。MCは入れずに疾走するライヴ。聖樹さんと悠紗は、ホールと少し離れたカウンターで話をしていた。あたしは悠紗の隣のスツールに座っていたけれど、ふたりには水を差さず、甘いカクテルを飲みつつ遠目にステージを観ていた。
セトリの中に、“DAYFLY”という初期の曲があった。その曲の出だしが響いたとき、悠紗ははっとしたようにステージを振り返った。
「この曲……。とうさん、いいの?」
「うん。僕も落ち着いて聴けるようになったから」
「そっ、か」
「僕も仲間だっていう曲だから、歌ってもらえるようになって嬉しいよ」
悠紗はライムが入った透明なカクテルを飲み、「ガキの頃、萌梨くんにこの曲の意味を訊いたことがある」とつぶやいた。
「萌梨くんはもちろんあれこれ言わなかったけど」
「……うん」
「俺、今はこの曲の意味、分かるよ。ほんとに──つらかったね。どんなにつらかったかは、今でも俺には想像がつかないよ」
「………、」
「俺……ほんとに、最低の母親から生まれたと思う。そんな女から、凛々子を助けられなかったのも悔しい。きっと一生悔しい」
「悠……」
「でも、とうさんは最高だから。いい男だと思う。誰のどんな父親よりも、かっこいいよ」
聖樹さんは少しはにかむように微笑んでから、悠紗の頭をくしゃっとした。「へへ」と悠紗は子供みたいに嬉しそうに咲った。
そのあと、聖樹さんは楽屋にいる聖乃さんと飛羽くんのところに行った。梨羽さんの凄絶な歌声がライヴハウスの中に響いている。それをかき消すようで、寄り添う紫苑さんのギター。重いうねりを、脳でじかに感じさせる要さんのベース。それらを引っ張るように、激しく鳴り響く葉月さんのドラムス。やっぱり、XENONの生音は迫力がすさまじい。
「明日帰るの、寂しいね」
あたしが思わずつぶやくと、「また来れるよ」と悠紗はそう返してきた。
「これからは、家に帰るときは、毬音も一緒」
悠紗はあたしの髪を耳にかけ、耳たぶにそうささやいた。吐息がくすぐったいけれど、とてもあったかい。
ライヴ終演後、身内のみで乾杯した。彩羽ちゃんは萌梨さんに、飛羽くんは聖樹さんに、抱っこされたまま眠っている。明日は早く鈴城家を出るから、ふたりの顔を見るのもしばらくないなあと思って、その顔を覗きにいった。
萌梨さんは彩羽ちゃんの頭を撫でながら、「毬音さん」とあたしを見つめた。
「悠紗のこと、これからもよろしくお願いしますね」
あたしは萌梨さんを見上げ、そのなだらかな瞳を見つめたあと、「はい」としっかりとうなずいた。萌梨さんは「悠紗も幸せになってくれて嬉しいです」とほんのわずかに涙目になって、それを振りはらうようににっこりとした。
千羽さんと聖乃さんはソフトドリンク片手に談笑して、要さんと葉月さんはビールをあおりながら、第二夜について話し合っている。梨羽さんはしばらく消えていたけど、さっき戻ってきた。ぽつんと突っ立っているので、紫苑さんがミネラルウォーターをさしだしている。悠紗は、カウンター内のスタッフさんと何やら盛り上がっていた。
あたしは、残り少なくなったカクテルを飲む。
ここにいられたら幸せだったのかな、とすっとかすめるように思った。凛々子さんも、もし生きていれば、悠紗の妹としてここにいたかもしれなくて。そうだったら──きっと、彼女も幸せだったと思う。
終電で帰宅してひと晩眠り、土曜日の早朝、あたしと悠紗と鈴城家をあとにすることになった。昼には早くも悠紗に仕事が入っているから、けっこうばたばたと出てきてしまった。見送ってくれた聖樹さんと萌梨さんに、「また来るよ!」と悠紗は手を振り、あたしは深く頭を下げた。
新幹線での帰路、この一週間でスマホで撮影した写真を、悠紗と見せ合った。お互い、圧倒的に彩羽ちゃんと飛羽くんの写真が多くて、ふたりで咲ってしまった。
シロテナガザルの親子を連れている彩羽ちゃんの写真に、「けっこう気に入ってたねえ」と悠紗は微笑ましそうにする。「今度はあたしたちも、彩羽ちゃんと飛羽くんもおみやげ持っていきたい」とあたしが言うと、「確かに、俺たち手みやげとか持っていかなかったなあ」と悠紗は反省したけど、「今回は、毬音がハイライトだったからね」と得意げににっとした。
ふと悠紗のスマホに着信がついて、「んー」と確認した悠紗は、「うげ、マジか」とひとりごちた。「どうしたの?」と問うと、「駅前に迎えの車つけてるって」と悠紗は息をつく。
「昼には早くない? 収録巻いてんのかな。俺はライヴやりたいテンションなんだけどなー」
「次のライヴはいつだっけ」
「アルバム作ってるから、そっちがいそがしい。それリリースしたら、全国ツアーだけど」
「悠紗のライヴ、あたしも観たいな。ツアーでは留守番だから、悠紗のライヴ観れてないし」
「ツアーついてくる?」
「ツアーに女連れていくバンドマンはちょっと……」
「確かに、それはよろしくない気がした」
「こっちでやるときに、観にいこうかな」
「たぶんホールだから、街の中ではないよ?」
「頑張って行ってみる」
あたしの言葉に、「そっか」と悠紗は何やら満足そうにうなずく。メッセに返信しつつ、「駅前で俺さらわれるなら、毬音、ひとりで部屋に帰れる?」とそこは心配してくれる。
「道は何となく憶えてる。人にはぶつかるかもしれない」
「はは。怪我しない程度にね」
そんなことを話していると、見憶えのある新幹線も停まる大きな駅に到着した。あたしと悠紗は、荷物を連れてそこで降車する。ホームにも人が多く、駅構内はさらに目がぐるぐるしてくるような人混みだった。
改札を抜けると、空気は冷たくてもまばゆく晴れていた。「あの車だ」と悠紗はすぐ自分を迎えにきたバンを見つけ、あたしに手を振ってから、車に駆け寄る。
その車内にはenfant terribleのメンバーもいたようで、にぎやかそうな声が聞こえてきた。バンに乗りこむ前に、悠紗は振り返って、あたしにもう一度手を振った。あたしは迷ったけど、頑張って大きな声を悠紗に届けた。
「いってらっしゃい!」
あたしはめったに声を張り上げないから、悠紗は少しびっくりしたようにまばたいた。けれど、すぐ笑顔になって、ガッツポーズを見せてからバンに乗る。すぐにバンは動き出し、車の波にのまれていく。
冷えた空気にマフラーをきゅっと締める。気持ちのいい晴天のおかげか、吹きつけてくる風はなかった。ひんやりとした凪だ。
昨夜、EPILEPSYで聴いた、“DAYFLY”の歌詞を不意に思い出した。
俺は羽を失くした
みんな羽ばたいていくのに
何度も堕ちてしまう
飛べない俺は風に救われず
このままひとり
泥まみれで置き去りにされる
どんなに追いこまれたって
命にきらめきが見えない
あんたたちにもがれた羽で
命乞いさえできやない
俺は死ぬしかない
命なんか苦しいだけだ
彼女は、もう風の中を飛べることはない。羽はよみがえらないほどもがれてしまった。そして、風に乗れないのではなく、風さえ流れない凪いだ場所にさらわれた。
でも、悠紗は──あたしも、あなたを忘れない。永遠に凪いだあなたを、必ずずっと想う。
毎年、スターチスを持って会いにいくね。あたしたちの記憶の中で、心の奥で、あなたは途絶えることなく生きているよ。
だから、どうか、天国ではあなたには天使の羽が与えられていますように。
あたしは荷物を背負い直し、昔から暮らす街へと歩き出した。
すれちがいざま、相変わらず直進を譲らない人もいて、歩きづらいといったらない。
でも、怖くない。気持ち悪くない。
あたしは殻を破れたんだ。
ビルの合間に見る、青すぎる空は、視覚を吸いこまれそうに綺麗だ。そこから射しこんでくる陽光に、あたしは目を細める。
そのとき、少しだけ風が長い髪を揺らした。その風に背中を押されるように、あたしはしっかりと歩き、まっすぐ前を向いた。
FIN
