水平線まで揺られて-4

重ならない想い

「あたしも、やっとほかの男も考えられるようになってきたわ。これでも、男に告られたりされてるのよ。あいつを忘れられたわけでもないんだけど」
「……うん」
「引きずって一生を終えるのは嫌だわ。ほっといたら本気でそうなりそうだから、男とデートに行ったりはしてるのよね」
「どんな男の人?」
「一番こまめに連絡くれてるのは、ママのブランドの専属モデル。最近メンズ展開始めたでしょ」
 杏里のおかあさんで、ミキさんの姉であるコズエさんは、ファッションデザイナーだ。店舗は全国のファッションビルやモールに広がり、コズエさんはよく出張で留守にする。そういうとき、杏里を預かるのが、コズエさんの親友で芽留の母親である麻里香さんだった。だから、芽留と杏里は本当に姉弟のように育ったのだ。
 ちなみに、芽留のおとうさんの智生さんは、世界を放浪して気に入った景色がある土地で映画を撮っている。だから、本人にそういうつもりがなくても、監督としての名前は世界的だ。杏里のおとうさんは、杏里を身ごもったコズエさんと籍さえ入れずに、行方知れずになったらしい。
「つきあえそうな人はいる?」
「つきあうのは簡単よ、あたしにはわりと。ただ、好きになるゆとりがまだないのよね。来夢がいて、ほかの男が入りこんでくる余地がないの。ダメだなあと思うけど。つきあってたら好きになるなんて、楽なもんでもないのよね」
「僕はまだ、来夢さんは杏里じゃ無理なのかなあって思う」
「無理でしょ。ここまで都合いい女なのに、それでも手出ししないのよ。期待させない、あいつなりの優しさなんだろうけど」
「……うん」
「あたしは都合のいい女でもいいのにね。それはあいつの道徳が許さないらしいわ」
「道徳」
「都合のいいはけ口になって食ってる淫売が、何言ってんだかって感じよね。でも、そういうのも好きになったところなのよね。無駄に男らしい」
「来夢さんに、ほかの人とデートに行ったりしてることは言ってるの?」
「………、言っても何にも変わらないのが、もう怖い。だから、あたしは来夢をあきらめて正解なんだとは思うわ」
 僕は杏里の整った化粧を見つめたのち、メニューの彩りの綺麗なデザートのページに目を落とす。
 来夢さんは、杏里と幸せになっていいくらい、苦しんだのに。来夢さんだって、杏里を選べば幸せになれることは分かっていると思う。
 そんなことを思う半面、自分に置き換えると、来夢さんの気持ちが痛いほど分かる。たとえば弓弦がいなくなったら、僕はもう恋に期待なんてできないだろう。次の男なんていらない。ひとり弓弦を想うまま死ぬのを選ぶ。僕は僕で幸せになっていいなんて言われても、耳障りなお門違いだ。僕の幸せは弓弦を想うことだから、それ以外の幸せは僕には幸せじゃないから──
 来夢さんも、亡くなった恋人とそのあいだにできた娘、ふたりの家族であるまま生きて死にたいのだろうと思う。
 それから僕はベリーのパルフェを注文して、杏里も「じゃああたしも」と同じものを頼んだ。そして杏里は途中までだったのか〔こもりうた〕を改めて読み、「これが現実にあったのかあ」と息をついていた。僕はやってきたパルフェのブルーベリーやラズベリーをバニラアイスと共に口に含み、「〔こもりうた〕って、もう五年やってるけど」と甘い欠片を飲みこんで喉や胃を冷やす。
「変わんないんだなあってこともあるし、こんなことを起きるようになったのかってこともある」
「最後のきついわね。レイプしてきたストーカーが、生き別れの実の父親。しかもテレビとかで聞いたことないから、捕まってないのよね」
「うん。いまだにその女の子は逃げてる、というか『見つかったから、殺されると思う』って理由で手紙くれて。『私のこと遺してください』って」
「……何も、しないの? 弓弦とかなら、何かできるんじゃないの」
「そうやって踏みこんで助けるようになったら、〔こもりうた〕自体が変わってきちゃうから。何もできない。……ほんとに、何の力もないよ」
 言いながら、萌梨くんのことを思い出した。萌梨くんは家庭のことはあまり話さなかったけど、ただ、親にひどいことをされて帰ることもできなかったと言っていた。聖樹さんがそれを汲み取って、最終的には萌梨くんを家から引き離して引き取った。
 僕は何もできない。でも、そんな経験を経て心の助けになることをしようとしている萌梨くんなら、その女の子も助けることもできるのかもしれない。やっぱりすごいよなあ、と感じて、もしかして僕にはできないことを相談できる相手になってくれるかもしれないとも思った。
 夕方まで杏里と緩くしゃべりながら過ごして、僕は明るさの残るうちに席を立って部屋に帰ることにした。持ってきた手紙がきちんと揃っているのを確かめると、ミキさんとも話していくという杏里と別れて、〈POOL〉を出る。
 背後で自動ドアが閉まると、クーラーが断ち切られて、アスファルトから立ちのぼる熱気の匂いが絡みつく。十八時が近く、そろそろこの時刻には日が落ちるようになってきた。ちらほら灯りはじめるネオンとすれちがう人々のさざめきに、部屋への道を急ぐ。
 ビルに到着すると、エレベーターでリュックから鍵を取り出した。昨夜寝るときにも、朝起きたときにも、弓弦は部屋にいなかった。ちょっと寂しいな、と思いながら部屋の鍵とドアを開けると、そこには見知ったスニーカーがふたつあった。
「ただいま」
 スニーカーを脱ぎながら言ってみると、「紗月?」と声がして、ついで弓弦がすがたを見せた。僕たちは一緒に笑顔になって、「おかえり」と弓弦は玄関にやってくる。
「ミキさんとこ?」
「うん。弓弦はいつ帰ってきたの」
「十六時くらい。連絡しようかなと思ったけど、来夢がもう来てて寝てたから」
「そっか。来夢さんは?」
「シャワー浴びてる。このあと仕事だと」
「弓弦も仕事あるの?」
「徹夜のままだから寝る」
「そっか。そばにいてもいい?」
 僕がそう言って弓弦の手をつかむと、弓弦は僕を見つめてから、きゅっと手を握り返す。
「添い寝してほしい」
 僕は弓弦をまばたいて見つめて、はにかんで咲ってからこくんとした。弓弦も嬉しそうに咲って、「暑かっただろ」と僕を部屋の中に招く。クーラーのきく部屋の真ん中で、レースカーテン越しに夕焼けが落ちるベッドは、確かに誰か寝たあとで乱れていた。
 弓弦は僕をテレビと向かい合うカウチに座らせると、烏龍茶のペットボトルを持ってきてくれる。「ありがとう」と受け取ったそれはひんやりしていて、体温の上がっていた頬に当てて息をついてしまう。
 僕の隣に座った弓弦は、無造作に僕の髪に指を通した。僕は弓弦を見て、「昨日から会えなかったね」とペットボトルは膝におろしてその肩に寄り添う。
「寂しかった?」
「ん。弓弦は?」
「会いたかった」
 弓弦が僕を覗きこんできて、綺麗な黒い瞳に僕が映る。そっと唇を重なって、ひかえめに水音がこぼれる。蕩ける舌にいつもの煙草の味がする。ふと唇をちぎった弓弦は、「水分採らないと」とペットボトルを持ちあげた。僕はうなずいて、何口か烏龍茶の澄んだ苦味を飲みこむ。
「十八時過ぎか。ちょっと帰り遅かったな」
 時計を見た弓弦に、「杏里と話してたから」と僕はペットボトルのキャップを閉める。
「杏里。芽留は?」
「芽留は今、仕事がはかどってるみたい。杏里ひとりだった」
「そっか。だいぶ普通に、また来てくれるようになったな」
 杏里は来夢さんに失恋したと確信したとき、しばらくこの街に来れなくなった。杏里と芽留はこの街でなく、電車で二時間ぐらいの町に住んでいる。このまま来なくなったら寂しいと思って、僕から杏里を訪ねたりもした。そのあと、杏里は来夢さんの壊れた恋への覚悟がどれだけかを聞いて、それでも簡単にあきらめられないながらも、またこの街に足を運んでくれるようになった。
「杏里、最近は男の人とデートとかもしてるんだって」
「そうなのか」
「来夢さん、やっぱり何とも思わないのかなあ」
「むしろ、杏里が自分の幸せを考えはじめたことにほっとしそうだな」
「幸せ……」
 僕は弓弦を見上げ、僕の幸せは弓弦が幸せなことだと思う。同じように、杏里の幸せもきっと来夢さんが楽になってくれることだ。たとえ相手が自分ではなくても、来夢さんが過去に囚われなくなることが、杏里の幸せなのに。友達としてならいい関係になれる、と言った来夢さんに、恋心を殺すほど来夢さんが好きなのに。
 たどたどしくそれを言うと、「俺もそう思うけど」と弓弦は僕の頭を抱き寄せて、カウチの背もたれに沈んだ。
「それでも、俺からあいつに水香みかを忘れろとは言えないよ」
 僕は弓弦の腕の中に顔を伏せた。そうだな、と思った。弓弦は知っている。来夢さんの自殺した恋人──水香さんを直接知っている。来夢さんと水香さんのふたりが、いや娘の紗夜さやちゃんも含めて三人が、どんなに幸せそうだったか、その目で見たのだ。そんな弓弦が、来夢さんに過去を忘れろと言うのは、来夢さんにとって残酷だろう。
「まあ、杏里がいい奴に出逢えると一番なのかもな。そのときは、来夢のことは掘り返さずに祝福してやろうぜ」
 僕はこっくりとして烏龍茶を飲んだ。そのとき物音がして、髪を湿らせた来夢さんが現れる。色素の薄い髪、しっとり白い肌、もろそうな骨組み、男娼をしているだけあってその容姿はとても繊細だ。「相変わらずいちゃついてますねー」と来夢さんは笑いながらタオルで髪を拭き、「おかげさまで」と弓弦は僕の髪に口づける。
「予約、十九時だろ。もう十八時半になるぜ」
「髪乾かしてすぐ出る」
「何かあればまた言えよ」
「分かってる。ドライヤー借りるぜ」
「おう」
 来夢さんは、ベッドのかたわらに落ちていたドライヤーを手にすると、洗面所に戻っていく。「『何か』?」と僕が首をかしげると、「夕べの客が面倒だったらしい」と弓弦は肩をすくめる。詳しく聞いても僕には分からないと思うので、「そっか」とただうなずいておいた。
 来夢さんは、弓弦だけでなく僕にも挨拶してくれてから、仕事へと出かけていった。弓弦はあくびをしながら伸びをして、「ミキさんとこで何か食った?」と訊いてくる。僕が首を横に振ると、「何か作るか?」と弓弦はカウチを立ち上がる。昔を思い出すからと、弓弦は本来料理をしないけど、僕だけにはおいしい手料理を作ってくれる。
「平気。弓弦、休んでいいよ」
「そうか? 起きたら一緒に何か食おうな」
「うん。そのときは弓弦のごはんがいい」
 弓弦は僕に微笑むと、「添い寝」と手をさしだしてくる。僕も咲ってうなずき、その手を握り返すと、弓弦と一緒にベッドに移動する。
 シーツはそそぐクーラーの涼風で冷たくなっていた。リモコンで明かりを落とし、弓弦はまくらに、僕は弓弦の胸に頭を預ける。弓弦の温かい心臓の音が、心地よく鼓膜に流れこむ。煙草の匂いが好きなわけじゃないけど、ただ、弓弦の匂いだと思うとどきどきするほど愛おしいから不思議だ。弓弦は僕をぎゅっと抱きしめて、優しく頭を撫でてくれる。
 弓弦の体温と筋肉が、薄い夏のシャツ越しに僕の肌に伝ってくる。僕も弓弦の背中に腕をまわしてしがみついた。ここが一番ほっとする。ここが僕の居場所で幸せだ。骨が溶けるような甘い痺れがじわりとこみあげる。
「弓弦」
「ん」
「杏里に、ほかの男の人がいるなら、早く出逢えるといいね」
「そうだな」
「来夢さんも、水香さんとこんなふうにぎゅっとしたら、きっと幸せだったんだよね。だったら、ほかの人なんて考えられないよね。僕も弓弦しかありえないもん」
「紗月……」
「弓弦じゃなきゃやだ」
 弓弦は僕を覗きこんできて、柔らかくキスしてくれた。深くて長いキスで、頭の中がしたたるように意識を失くして白い幸せに満たされていく。キスをしながら何度もお互いの名前をささやく。
 やっと心があふれそうなまでにいっぱいになると、唇をちぎって弓弦は僕を抱きすくめた。弓弦の呼吸を聴きながら、それに合わせて弓弦の背中をさすった。弓弦がゆっくり眠りに落ちると、僕はその寝顔を見つめた。
 弱い僕が、初めて「守りたい」と思った愛しい寝顔。僕は弓弦を起こさないように、その口元に軽く唇を当ててから、一緒に目を閉じた。
 この幸せを失った来夢さんの痛みは、心をえぐるようなものだろうと思った。そして、この幸せをほかの人に見つけなくてはならない杏里の切なさは、心をつぶしそうだろうと思った。

第五章へ

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