水平線まで揺られて-5

心当たり

 弓弦は目が覚めると、腕の中にあるものをきつく抱きしめる癖がある。眠っているあいだに、大切なものが腕の中からなくなっていないか、真っ先に確かめるのだと思う。
 うつらうつら目覚めかけていた僕は、弓弦にぎゅっとされてまぶたを緩く押し上げた。部屋は真っ暗になっていたけど、この匂いと軆の感触は弓弦だとすぐ分かるので怖くない。
「弓弦」と小さくささやくと、弓弦も僕の名前をこぼしながら、暗がりの中で僕の瞳を覗きこんでくる。
「ん……起きてた?」
「ううん。僕も寝てた」
「そっか……あー、けっこう寝たな」
「弓弦は、たまにはたくさん寝なきゃ」
「紗月がこうしてくれるなら」
「するよ。だから、いそがしくて倒れたりしないでね」
「へへ。今の約束な。電気つけるぜ」
「うん」
 弓弦はベッドスタンドのリモコンで明かりをつけた。部屋がふっと明るくなって、僕はつい弓弦の胸に顔を当てて、光から目をかばう。弓弦はそんな僕の頭を抱いて仰向けになり、あくびをして目をこする。
「もうすぐ二十三時だな」と弓弦の指が僕の髪の隙間で遊ぶ。まばたきをしながら僕も顔を顔を上げ、同様にあくびをもらした。弓弦の笑みが目に入って、ちょっとおもはゆくても咲い返す。「かわいい」と弓弦は僕の頬をあったかい手のひらで包む。
「さすがに腹は減った?」
「うん。何か作って」
「何食べたい?」
「ん、じゃあ、たまご焼き。白いごはんも」
「分かった。俺、出るの朝だから、あとで食料は買い出し行かないとな」
「僕も荷物持つよ。一緒に行く」
 弓弦はくすりとしてから、「とりあえず飯作る」と僕はシーツに寝かせて起き上がった。朝には出ちゃうのか、と僕はしばらく天井を見ていたけど、ゆっくり身を起こし、弓弦が料理するすがたを見つめた。
 煙草をくわえるまま、たまごを割ったり、グリルを覗いたりしている。綺麗な横顔。無駄のない腹筋。長い脚。いまだに、あんなに美しい人が僕を想ってくれていることに驚く。僕なんかじゃなくても振り向かせられたのに、僕がいいと言ってくれる。
 そんな容姿はもちろん、弓弦は心もすごく澄んでいて、その純度はかえって敵を作るときもあれど、僕は滲むように染みこむその純粋さが好きだ。弓弦はその清冽な瞳に僕を浸す。そして、誰よりかわいがってくれる。僕だけを見つめてくれる。きっと誘惑はすごく多いのに、それらはあしらって僕の元に帰ってきて、一秒でも長く触れていてくれる。
 僕の視線に気づいた弓弦は優しく微笑んだ。それだけで軆が溶けてしまいそうに幸せで、泣きそうで、我慢できないほど弓弦が愛おしくなる。
 弓弦が用意したのは、香ばしいたまご焼きとほくほくの白いごはんだけでなく、鮭の切り身の塩焼きとわかめと豆腐のお味噌汁もついていた。相変わらずベッドの上での食事を見て、「朝食みたいだな」と弓弦は笑い、「おいしいよ」と僕は温かい手料理で、胃から軆をほぐしていく。
 弓弦のたまご焼きは、ダシとか本格的なものが入っているわけでないけれど、砂糖が適量でちょうどよく甘い。おやつにベリーパルフェを食べたきりの僕は黙々と食べてしまい、弓弦はそんな僕を見守りながら、味噌汁をすすった。
「そういえば」
 やっと空腹が落ち着いて、箸の速度を落とした僕は、鮭を解体しながらふと思い出して口を開いた。
「お昼、萌梨くんとちょっと電話したよ。メールくれて、長文だったからチャットより電話した」
「……ふうん」
 僕は弓弦を見てちょっと咲い、「ミキさんと杏里にね」と言う。
「弓弦が焼きもち妬くから、萌梨くんとは早く直接会ってもらわないとねって」
 弓弦は僕を見て、ばつが悪そうに頬を染めるとそっぽを向く。
「萌梨くん、何かほんとにこっちに来てくれそうだし、弓弦も意外と早く会えるかも」
 たまご焼きのひと切れを飲みこんでから、弓弦は首をかしげる。
「こっちに何かあるのか?」
「芽留に会わせたい人がいるんだって。ゲイの友達でね、芽留のファンなんだって。芽留の活動で、ゲイとして勇気もらってる人だって」
「すげえじゃん。やっぱちゃんと全国区なんだな」
「あと、萌梨くんがボランティアの活動始めることにしたって言ってた。自助グループというか。その活動を一緒にやる人が、ここに住んでた人なんだって」
「ここ」
「天鈴町」
「マジで。知ってる奴だったらビビるな」
「恵麻さんって人らしいよ」
「女?」
「男の人だって」
「ふうん。エマ……え、いくつ?」
「いくつ、かは知らないけど。ここでつらい想いはしたとは言ってた。それで、施設に引き取られた人なのかな」
 弓弦は空を眺め、「心当たりがあるのが怖い」とつぶやく。「心当たり」と僕がしばたくと、「言い切れないけど」と弓弦はベッドスタンドから味噌汁のお椀を取る。
「恵麻って名前で、ここから施設に引き取られた奴はひとり知ってる」
「ほんと?」
「かなり昔だなあ。十年くらい前。ネグレクトの子供が腹減ったら盗みをやるから、注意してくれってえらい人に頼まれたんだ。あの頃はそういうパシリもやってた」
「じゃあ、その子が──」
「恵麻って名前の野郎だった。俺のひとつ下だったかな。俺が補導の真似事やっても、あんまり聞かなかったなあ。たぶん盗んで自分で食うしかないんだと思うって、俺はえらい人に言ったけど」
 弓弦をちらりとする。前髪で表情がうまく窺えなかった。
「そしたら、まあ、いい人だったから。引き取る施設を探してみるって言ってくれて。そいつかな。だったらすごいな」
「その人だったらいいね。ちゃんとしたところに引き取ってもらえたってことだから」
「そうだな。どうしてんのかな、あいつ。ほんとにそいつだったら、俺も会って話したいな」
「うん。その人とも一緒にこっち来たいって萌梨くん言ってた。だから、そのときは一緒に会えるよ」
 弓弦はうなずき、味噌汁を飲み干す。僕も鮭をごはんと一緒に口に入れて、もぐもぐと味わう。食べ終わって「ごちそうさま」と弓弦に咲うと、弓弦は僕の頭を軽くぽんぽんとしてくれた。
 そのあと、弓弦と僕は一緒に食器を洗って、手をつないで二十四時間営業のスーパーに買い物に行った。「昔は、スーパーまで二十四時間とかこの街でも少なかったよなー」と弓弦は言いながら、野菜を手に取って綺麗なものをかごに入れる。僕はカートを押しながら、深夜営業のスーパーのおかげで、冷凍食品やインスタントはぐっと減って、弓弦の手料理がだいぶ増えたなと思う。会えなくても、弓弦は時間があれば部屋に帰ってきて、料理を作り置きしておいてくれる。
 買い物を終えると、「今度デートもしたいなー」と言う弓弦に咲って、僕はその腕にくっついた。深夜でもまだ空気は蒸していても、弓弦の熱に浮かされるのなら悪くない。部屋に帰りつくと、買ってきたものを整理して、カウチに座って弓弦が録画して気に入って保存している映画を観た。観るのが何度目か分からないくらいの外国の映画で、それでも弓弦は真剣に見入っている。僕はそんな弓弦に寄り添い、つないでいる手から流れ込んでくる微熱に、安らかに力を抜いた。
 弓弦が朝に仕事に出てしまうと、僕は昼過ぎまで眠りなおした。そして、めずらしく弓弦がさくっと仕事を終えて夕方には帰ってきたので、夜には街を歩いてデートした。「デートしたいって言ってたもんね」と僕が咲うと、「紗月と歩くの好きだし」と弓弦は僕のこめかみにキスをする。
 この天鈴町では同性愛なんて取り沙汰するまでもない平凡なことだ。すれちがう人混みの中にも、同性のカップルはたくさんいる。でも同性愛者の街ではないから、異性のカップルもたくさんいる。
 イジメも、レイプも、虐待も、殺人さえもこの街には当たり前に転がっている。だから僕もあの頃、ここに来たら殺してもらえると思ったのだ。まさか、生かしてくれる人に出逢えるなんて思ってもみなかった。生活がばらばらで、なかなかこんな時間は取れなくても、それでも僕は人を信じることを弓弦で知ったから、この街に住んでいて心は穏やかだ。

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