彼らの昔
〔こもりうた〕の最新号も配布が終わって、八月があと一日で終わる日、空がやや曇っていたので僕はおとなしく部屋で過ごしていた。たぶん夏休みは今日までだよなあと思い、萌梨くんにケータイでメールを打っていた。
勉強でいそがしくなる前に、恵麻さんのことを確かめておこうと思ったのだ。弓弦が恵麻さんを知っているかもしれないことを書き、参考までに恵麻さんの年齢を尋ねてみる。すぐに返信は来なかったけど、それでも、三十分くらいで萌梨くんからのメール着信がついた。
『紗月くん、メールありがとうございます。
読んでびっくりしましたけど、弓弦さんが今年二十四なら、恵麻さんは二十三です。
そっちを離れたのは十四歳のときらしいから、確かに十年前でもあります。
これを送信したら、恵麻さんにメールで弓弦さんのこと訊いてみますね。
少し待っててください。』
まばたきをしてしまう。本当に弓弦が世話をした「恵麻」さんかもしれないのか。
ひとつ年下。十年前。これは本当にそうなのではないか。こんな偶然もあるのか、あるいはこの街でそういう目に遭っている人がそれだけ多いのか。
そわそわとケータイが鳴るのを待っていたら、玄関で物音がした。
「弓弦?」
ぱっと立ち上がって玄関を覗きにいくと、そこで失笑しているのは来夢さんだった。「あ、」と僕が頬を染めると、「残念ながら」と言いつつ来夢さんはスニーカーを脱ぐ。
「ごめんね、何か」
「いえっ、ぜんぜん。ちょうど弓弦に話したいことがあって、つい」
「そっか。夕べ特にどこかでトラブルがあったとは聞かないし、そのうち帰ってくるよ」
「そうですか」とうなずきつつ、こちら来た来夢さんをよく見ると、柔らかい髪やもろそうな肩がうっすら濡れていた。「雨、降ってきたんですか」と訊くと、「小雨だけどね」と来夢さんは髪の湿り気をはらう。
「タオルいりますか」
「いや、シャワー浴びるよ。その前に何か飲むけど」
来夢さんは冷蔵庫を開け、弓弦と同じようにお酒を水のようにごくごくと飲む。このふたりはそうやってアルコールを飲んでも滅多に酔わない。
僕は来夢さんを見上げて、来夢さんは恵麻さんのこと知ってるのかなあ、とふと考える。
「来夢さん」
来夢さんは瓶から口を離し、「ん?」と首をかたむけてくる。ちなみに来夢さんは弓弦と同じ煙草を吸って、匂いも似ているのだけど、僕はどきどきしない。
「弓弦って、十五歳ぐらいのときにはもうすごかったんですか?」
「え、さあ……どうだろ」
来夢さんは肩をすくめて、「まあ」と空中を見やる。
「すごかったんじゃない? 俺を精神病棟から脱走させたくらいだし」
「……あ、そう、ですよね。すみません」
「ううん。何、その頃のあいつのこと?」
僕はこくんとして、萌梨くんのことから恵麻さんのことをかいつまんで話した。「ふうん」と来夢さんは蓋をしてから、冷蔵庫に瓶をしまう。
「俺にあんなことがあって、病院送りになったときには、弓弦にはもう権力あったな。十五歳っつうと、そろそろ信頼されはじめて仕事をもらえるようになってきた頃だと思う。そういう見まわりみたいなこともやってるときはあったよ、確かに」
「じゃあ、やっぱり同じ恵麻さんなんでしょうか」
「可能性はあるんじゃない? 弓弦が面倒見て、助けられた人は実際多いからね」
僕は少しうつむいてから、「弓弦、注意するように頼んできた人に言ったそうなんです」とつぶやく。
「親から離さないと盗んで自分で食べるしかない、って」
「あいつがそうだったからね」
「僕も、そう思っちゃって。ちょっと、つらかったです」
「弓弦の妹の墓参り、今年も行った?」
「はい。命日に行ってきました」
「俺も墓参りくらい行ったほうがいいのかな。命日に行ったら、水香の親に鉢合わせてぶっ殺されるけど。紗夜の──命日より誕生日に行ってあげたり、したいんだけどな」
「行かないんですか?」
「水香の骨が墓石に入ってるとか、まだきついな」
「そう、ですか」
「紗夜がどうなったのかは分からないんだよな。ゴミと一緒に廃棄されて、墓もないのかな」
十年近く前、水香さんとのあいだに来夢さんは紗夜ちゃんを授かった。来夢さんも水香さんも、親元なんて捨てていた。でも、ある冬の日、それは襲いかかってきた。来夢さんの父親が居場所を突き止め、水香さんに暴力を振るってから、赤ん坊の紗夜ちゃんを犯して殺した。
この街ではめずらしく警察沙汰になり、水香さんは親に連れていかれた。そして、幼なじみの男ふたりに引き合わせた。水香さんが家に帰らなくなったのは、そのふたりに教室で輪姦されたからだったのに。来夢さんと引き裂かれ、紗夜ちゃんを守れず、忌まわしいふたりの顔を見て、それ以上は怖かったのだと思う。水香さんは自殺した。
一方、水香さんと紗夜ちゃんを奪われた来夢さんは、親戚も誰もその身を引き取らなかったため、非合法な行ないもまかりとおる精神病院に閉じこめられた。そこから計略を立てて脱走させ、来夢さんに自由を取り返させたのが弓弦だった。弓弦が十六歳になったのはそのあとだから、十五歳の弓弦は、確かにこの街ではもう周囲の信頼を確立しつつあったのだろう。
弓弦は十三歳で働きはじめた。それまでは、ミキさんからのお小遣いなんかで生活していて、家に帰らなくなったこと自体は十三歳よりさらに前だ。遠い親戚のよそよそしい家だった。弓弦を腫れもののようにあつかう。父親にも母親にも、蹴られてぶたれて、“可哀想”に育った子供だったから。
暴力にまみれた親元で、弓弦がまっすぐな目を折らなかったのは、妹を守る使命があったからだ。自分より妹の空腹と成長を思いやり、万引きを重ねた。でもある日、弓弦がひどい暴力を振るわれて昏倒しているあいだに、妹は父親に殺されてしまった。五歳。首の骨を踏みにじられて折られた。
弓弦と僕しか訪ねないお墓の前で、弓弦の瞳は今でも重たく暗くなる。僕が手を握ると、こちらを見て力なく微笑む。家庭のことを僕に打ち明けてくれたとき、弓弦は壊れるように泣いて叫んだ──俺にはあんたたちの愛情が必要だったのに。愛情も、食事も、笑顔も、弓弦は何も親からもらえなくて……今、僕と一緒に暮らして、咲ったり、食べたり、愛しあったりできて、やっと救われたと言ってくれる。
僕と弓弦の関係が、来夢さんにとって水香さんとのものであったのなら、やっぱり何も言えない。いくら杏里が大切な友達でも、あまりにもかけがえがないのを知っているから、ほかの人で埋まらないと分かっているから、杏里にしてしまえばいいなんて来夢さんに言えない。
「来夢さん」
「ん」
「杏里、最近男の人とデートとかしてるって言ってました」
「そっか」
「応援してあげてくださいね」
「『嫌味いらない』とか、あいつ言いそうだな」
「言うかもしれないけど、杏里なりに来夢さんの幸せはもう分かってると思うんです」
「……うん。そうだね」
「来夢さんは、水香さんと紗夜ちゃんの家族なのが一番ですよね」
「ありがと。あーあっ、弓弦にこんなにいい恋人ができるとか、水香に会わせたかったなあ」
来夢さんは僕に微笑み、僕はちょっと切なくても咲い返した。来夢さんは伸びをしてから、「じゃ、シャワー借りる」と浴室に行ってしまった。僕はそれを見送り、ベッドを直しておいてから、カウチにぼすっと座った。
もし、水香さんや紗夜ちゃんが生きていたら、きっと僕とも親しくしてくれていたと思う。僕も会ってみたかったな、と背もたれに寄りかかったとき、ふとケータイが鳴った。
手に取ってみて、「あ」と声がもれる。萌梨くんだ。そうだ、そういえば恵麻さんにメールしてくれると書いてあったっけ。急いでケータイを開いてメールを開封する。
『遅くなってごめんなさい。
恵麻さんと電話になっちゃってました。
弓弦さんのこと、恵麻さん、よく覚えてるって言ってました!
恵麻さん、当時は自分のつらさだけで、弓弦さんにお礼を言えなかったのが心残りだったらしくて。
すごく感謝してるから、それを伝えに会いにいきたいって言ってました。
弓弦さんに、恵麻さんのこと伝えてもらえたら嬉しいです。』
わ、と感動してしまう。本当に弓弦がお世話した「恵麻さん」なのか。そういうことってあるんだなあ、と呆けそうになったものの、深呼吸してケータイを持ち直すと、返信のメールを打ちはじめる。
そのうち来夢さんが浴室から出てきて、僕は思わず恵麻さんが的中していたことを話した。「世間は狭いねー」と来夢さんはおもしろそうに笑い、ドライヤーで髪の水分を飛ばすと、「弓弦が聞いたらきっと喜ぶよ」と言ってくれてからベッドにもぐりこんだ。
僕は改めて打った文面を読み返すと、よし、と送信してから、萌梨くんがこっちに来れる日が早く来るといいなあ、とカウチにもたれかかった。
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