嘘をつくよりは【3】
それから私は、一度だけ最低限の着替えや生活品をまとめるために帰宅して、誰にも挨拶せず、ぱったり家に帰らなくなった。
深夜、荷物のつまったリュックを背負い直し、きーちゃんには挨拶しようかなとも思ったけれど、やめておいた。止めてくると思うし、止められても私は筧さんのところに行くし。後味が悪いだけだ。
AVとかデリバリーとか、やっぱり怖かったらどうしようと思ったけれど、生々しいことからは筧さんがかばってくれて、私はお手伝いする程度だった。
亮吾さんを初め、ほかの社員さん──というか仲間の人も、社会からこぼれ落ちた人ではあるのだけど、優しかったりおもしろかったりして私をかわいがってくれる。女の人からも、私は幼すぎて妹みたいに感じるようで、変にトゲを持たれることもなく接してもらえた。
ずっと、毎日を息が詰まるものに感じていた。暴力を振るうおとうさん。神経質なおかあさん。騙されてしまう幼なじみ。ひたすら百点を褒めたたえる先生。嫉妬をちらつかせて「すごいね」と言う友達。
愛されなかった。愛せなかった。
肺が黒煙を浴び、喉が涸れて、呼吸が潤ってくれない。からからに、灰色に、失明していく。
壊れていくだけだった意識や感覚に、急速に新鮮な清涼感が行き渡って、満ちていく。みんなが咲いかけてくれる。筧さんがそばにいてくれる。もうひとりぼっちじゃない。自然と私も、また咲えるようになっていた。
筧さんは、私に対してすごく優しかった。みんなでいるときも。ふたりきりになったときも。でも、優しいけど、それ以上はなかった。無駄に知識は増えていくもので、触ってくれないのかな、とか、筧さんだったらいいのに、と思った。
でも、私がそれを言いそうになると、筧さんはごまかしてその話にならないようにする。それは、やっぱり私には興味がないからなのだろうか。
亮吾さんは「筧には澄音ちゃんは大切すぎるんだよ」と言う。そうなのだろうか。大切にされて、私は筧さんに抱いてもらうことができないのだろうか。私は、筧さんにならめちゃくちゃにされていいのに。
穏やかなようで、ばたばたと数年が流れた。仕事にもどんどん慣れて、ひとりで動くこともできるようになった。
仲間にもなじんで、仕事がないときは遊んだり飲んだりする。筧さんがセーブをかけてくれるから、男の人が多い中でも、恋愛がもつれこんでややこしくなることもなかった。
私は十六歳になる夏を迎え、もし普通に生活していたら中学を卒業している歳になっていた。
「澄音ちゃん、あとちょっとで誕生日だよね」
七月になった火曜日、いつも商品を置いてくれる店舗に新作の裏DVDを届けにまわった帰り、改札を出てビル街を歩きながら、筧さんはそう私を見下ろした。私は短めのセミロングになった髪を緩い夏風になびかせながら、「うん」と答える。
「何か欲しいものある?」
「うーん、いつもみたいに、みんなと一緒に過ごせればいいよ」
「十六歳だよね。早いな」
「ちょうど今くらいの季節だよね、筧さんに逢ったのって」
「もう七年前か。自分が普通に中学生だったとか、ちょっと笑えるんだけど」
「あはは。私は中学も行ってないや」
「後悔してない?」
「もちろん」
「俺、けっこうエゴで澄音ちゃん連れてきたからなあ」
「エゴ」
「澄音ちゃんから、いろんなものを奪ったとは思ってる」
「そんなことないよっ。私、あの頃、何にもなかったもん。今は筧さんも亮吾さんも、みんないる。あのままだったら、私はすごく冷たい人間になってたよ」
「そうかな」
「筧さんに感謝してるよ。そばに連れてきてくれてありがとう」
筧さんは微笑んで、私の頭を撫でてくれる。私はその微笑を見つめて、「もし」とダメ元で言ってみる。
「誕生日に欲しいものくれるならね」
「ん、何かある?」
「筧さんと、ずっと一緒にいたい」
「澄音ちゃん──」
「迷惑だったらいいけど、……その、」
「迷惑じゃないよ」と筧さんが私の肩を抱いたので、どきっとする。耳元でテノールでささやかれる。
「俺でよければ、ずっとそばにいる」
「……ほんと?」
「そうしたくて、こんな世界にも来てもらったんだ」
筧さんを見上げた。間近にその瞳があって、私が映っている。
……あ、キスするかも。
そう思ったけど、筧さんは私の額に額だけ当てると、軆を離した。
「筧さん、私、」
「十六歳になったらね」
「えっ」
「そしたら、もう我慢しない」
私はまばたきをして、わずかに頬を染める筧さんを見る。十六歳になったら。そしたら、我慢しない。急に心臓があふれてきて、私まで頬に熱がこもってしまう。
あとちょっと。十六歳まで、二週間もない。そうしたら、私、本当に筧さんのものになれるのかな。触れてもらえるのかな。あとちょっと待てば、初めてこの人に素直にこの気持ちを伝えて、受け入れてもらうことが──
でも、結局それは叶わなかったのだ。
私の誕生日の前日だった。事務所に入ったばかりの女の子の、初めての撮影に入っていた。それを観て、この子を気に入って買う人の数も左右されるので、現場はわりと真剣だった。それでも、これが終われば、みんなで私の誕生日祝いに飲みに行こうと言うくらいの余裕はあった。
ラブホテルの一室、そこにいたのは私と、筧さんと、女優と男優、あとは撮影スタッフがひとりいた。女優の子がちょっとメンタル不安定な子だったので、休憩は私がそばにいて気をやわらげる役をしていた。
私と同い年の女の子の軆にはいくつか痣があって、手首に傷もあった。「ごめんね」と言いながら、私はそれにファンデーションを乗せて隠す。「こんな痕があって仕事できるかな」と女の子はあやふやに咲って、「この世界では少なくないから、気にしなくても大丈夫だよ」と私も笑みを作る。
その後ろを男優の子が通って、「彼女から電話来てるんで、ちょっと出ますね」と横切ってドアに向かった。筧さんと撮影の子はデジカメで撮れたものを覗いている。
ドアのほうで何か物音がしたのは、すぐだった。どさっと倒れこむ音がして、いくつかの足音が続いて、みんなはっとそちらを見た。
とっさに警察かと思った。違った。女の子が私にしがみつき、先頭になって入ってきた茶髪の男が「咲子!」と女の子の名前を怒鳴った。女の子はびくっと震えて、私はどうしたらいいのか、とりあえず腕の中に女の子をかばう。
「てめえ、淫売なんて何考えてんだよっ」
ついで、後ろから思いがけない数の男が雪崩れこんできて、私と女の子をあっさり引きはがした。女の子は一気に涙をあふれさせ、謝罪を口走っておののく。
「ごめんなさい、だって、達也くんが借金もう返せないって言うから、」
「だからってこんな仕事かよ、ふざけんなっ」
「私はずっと部屋にいるから、取り立てで頭がおかしくなりそうになるのっ。……ごめんなさい、私、取り立ての人にソープに連れていくとか言われて、だったらマシなところで自分で働くほうが、」
「うっせえっ。どうせ借金なんて建前だろ、俺から逃げるつもりなんだろうがっ。させるかよ、逃がさねえっ」
振り下ろされたこぶしが、がつっと女の子の頬に食いこむ。子分のような男たちは女の子を抑え、男が女の子の顔をめちゃくちゃにできるように協力する。
私はベッドに投げやられてそれを茫然と見つめ、しかし筧さんともうひとりの男の子がすぐその殴打に割りこんだ。倒れたような音は、男優の子だろうか。戻ってこない。
どうしよう。フロントに連絡をしたら、勝手に撮影していたこともばれてしまう。
室内をきょろきょろして、目についた筧さんのケータイを手にした。そうだ。亮吾さんに連絡したら、何か助けをくれるかも。どうやって番号出すんだろ、と慣れない手つきでケータイの操作に夢中になっていた。
だから、男の数人が私にも集まって、囲んできていたのに気づかなかった。
「咲子と変わんねえな」
はたと顔を上げて、初めて左右でにたにたと笑う男たちに気づいた。
「君も淫売? そんなにセックスが好き?」
「便所にしては処女っぽい顔してんじゃん」
恐怖に固まった隙に、右の男がすばやく背中にまわって私を羽交い絞めにした。取り落としたケータイが膝で跳ねて、我に返ってすぐもがいたものの、力が敵わない。
声を出そうとする。けれど、息ががくがくと痙攣し、声帯がイカれてしまっている。
左側が私のスカートをたくしあげ、下着を下ろそうとした。必死に抵抗して脚をばたつかせる。でもそうすると足首をぎゅっとつかまれ、脚を大きく開かされた。ずれた下着を乱暴に引きちぎられ、頭の中が停電して思考が急降下する。
何。嘘。やめて。私、そんなのしたことない。筧さんって決めてたから。筧さんしか嫌だ。こんなの、やだ、たすけて──
「澄音っ」
ごつっと骨がきしむ音がして、のしかかろうとしていた男がベッドから転がり落ちた。それを追いかけて床の上で男を殴りつけはじめたのは、筧さんだった。「てめえっ」と羽交い絞めにしていた男が私を離して助けようとしたけど、それをいつのまにか戻ってきた男優の子が止めて、血が飛ぶほど殴る。
女の子の悲鳴がまだ上がっていてそちらを見ると、もう彼女は殴られていなくて、ただパニックになって床にせくぐまって震えていた。私はそのそばに行こうとしたけど、脚も腰もわなないて動けない。
こちら側の予想以上の反撃に、踏みこんできた集団は狼狽えていた。私はまだ続いている骨が砕ける音を振り返って、目を開いた。筧さんが男の胸倉をつかみ、執拗に顔も腹も殴りつけていた。
殴られる男の顔は腫れた痣でゆがみ、涙も涎も流れ、「やめてくれ」と降参したかぼそい声で訴えている。それでも筧さんはやめなくて、それに狂気すら感じたらしい集団は、殴られている人だけ置いて後退り、逃げはじめた。
「おいっ」と達也と呼ばれていた人が怒声を上げても、「やべえよ」「関わりたくねえ」とつぶやいて逃げていき、おかげで収拾がついた男優と撮影の子がやっと筧さんを止めに入った。
「筧、落ち着けっ」
「離せ、こいつ澄音をっ──」
気づくと、踏みこんできて残っているのは、達也という人と、喀血して朦朧としているのに、なお筧さんに胸倉をつかまれている人だけになった。
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