好きなのに【3】
キネくんがお冷やを持ってきて、「適当に話聞いてやって」と言ったので、私はうなずいて澄音ちゃんを見た。澄音ちゃんはキネくんを見送って、「私はきーちゃんとか無理ですけど」と私に向き直った。
「冬乃さんは、つきあおうかなと思ったんですよね」
「一応ね」
「今はそういう気持ちはないんですか?」
「どうして?」
「同窓会のときって、きーちゃんに会いたかったみたいだから」
「それは、何というか、キネくんにきちんと話しておきたいことがあって──」
そこまで言って考えて、「よかったら」と澄音ちゃんを見直した。
「キネくんに伝えておいてくれてもいいんだけど」
「はい」
「振った理由、キネくんには話しておいたほうがいいのかしらって思うの」
「疑問はあるようですね。キスしようとしたのが悪かったのかとか何とか、いまだに言ってるときがあります」
「それも、あるけど……キネくんが悪かったんじゃないわ。ただ、私には別の人が心の中にいるのよ」
「本命さんですか」
「そうね。その人と結ばれることはないし、結ばれたいのかも分からないけど」
「訳ありな相手なんですね」
「だいぶ訳あり」
「きーちゃんがそれ聞きたいかは分からないですけど。古傷だろうし」
「私はひどいことをしたと思うの。……言い訳したいだけかしら」
「話さなきゃって思いつめる必要はないですよ。もちろん、話したいならきーちゃんはたぶん聞いてくれますけど」
「つきあえるかも、とは思った人だから。信頼はしてるの、キネくんのこと」
「知ってほしいですか」
「そうかもしれない。誰かに話すって考えたら、キネくん以外いないわ」
「じゃあ、頼っていいんじゃないですか。きーちゃんに助けてほしいなら」
助けて、ほしい? ……私は助かりたいの? 何から? 秋生との関係? それとも秋生本人? あるいは、あの幼い秋生に助けを求めた光景……
脳裏がきしんで、少し吐き気がこみあげる。
「冬乃さんは、何か食べません?」
ふと聞こえた声にはっとして、澄音ちゃんを見た。澄音ちゃんはテーブルの中央にメニューを置いて覗きこんでいる。
「ここって、四季でメニュー変わるから飽きないんですよね」
「こないだ食べたトマトのお素麺もおいしかったわ」
「あれはもう終わっちゃいましたね。今は秋メニュー。何にしようかな」
「………、ねえ、澄音ちゃん」
「はい?」
「キネくんのお隣に住んでるのよね」
「そうですね」
「話を聞いてって、キネくんに伝えておいてくれるかしら」
澄音ちゃんは私を見つめて、「はい」と微笑むと、またメニューに目を落とした。
キネくんに、どこまで話せるかは分からない。でも、私はキネくんと話したくて、ずっと彼をつなぎとめてきた。きっと私は、キネくんに何か聞いてほしいのだと思う。
それから、澄音ちゃんと私は夕食を決めた。澄音ちゃんはきのこソースのチキンソテー、私のかぼちゃのリゾット。
キネくんに注文して、「今日きーちゃんと帰っていい?」と澄音ちゃんは訊く。「店内にいたら、掃除また手伝わされるぞ」とキネくんが笑うと、「やるから」と澄音ちゃんは肩をすくめた。「じゃあご自由に」とキネくんが行ってしまうと、澄音ちゃんは目配せをしてくれて、私はだいぶ彼女に心を綻ばせて咲った。
料理が来ると、澄音ちゃんはぱりぱりしたチキンにソースをかけながら、自分の恋の話をしてくれた。小学生のときからのその恋は、先月、絶望的にすれちがってしまったらしい。「どうしてももう会えないの?」と私がコンソメの匂いが香ばしいリゾットと彩る野菜をすくいながら訊くと、「彼がそれを望んでないから」と澄音ちゃんは少し表情を陰らせた。そして、「いつか冬乃さんのお話も聞けるといいな」と澄音ちゃんは微笑んで、私はそれに「いつかね」と笑みを返した。
夜が更けて混んできても、キネくんからのツテなのか、私と澄音ちゃんは〈まろん〉から追い出されなかった。それでも、そろそろ帰らないと明日も仕事だと思っていたとき、入口のドアが開いた。いらっしゃいませ、を言いかけたキネくんが動きを止めて、焦った様子で、入ってきた人に駆け寄った。
そちらを見ると、ひどく痩せ細った男の子がよろめきながら店内に倒れこんできた。「何、あのヤク中」と澄音ちゃんはアイスティーのストローに口をつけ、「澄音ちゃんも知らない人?」と私も首をかしげる。「知らないですねー」と澄音ちゃんが言っていると、栗香さんもカウンターから出てきて、「また餌やったの?」とやや厳しくキネくんを見た。
餌。どういう意味だろう。
キネくんが口ごもると、栗香さんは息をついて「一番隅の席に通していいから。ちゃんと希音くんの給料から引くよ」とキネくんの肩をたたいた。キネくんは膝をつくその男の子の肩を担いで、「飯あるから」と言って私と澄音ちゃんのテーブルの脇を通って、その男の子を壁際のソファの席に下ろした。
男の子はまだ十代に見える。蒼ざめた顔をうつむけて、折れそうな骨組みが服を着ていてもくっきり分かる。男の子にメニューを持たせたキネくんは仕事に戻り、私たちのそばを通りがかったとき、「きーちゃんってバイだっけ?」と言った澄音ちゃんのことを小突いていた。
澄音ちゃんと連絡先を交換して、私はその日は〈まろん〉を出た。この時間になって外に出ると、さすがに風が涼しい。けれどネオンがにぎやかなこの街の夜は、人を縫って歩いていると熱気がある。煙草、香水、いろんな匂いとすれちがって駅前に出る。
終電が近くて混み合う電車に乗って、揺れに身を預けながらあの男の子は何だったのだろうと思った。キネくんは知っているようだった。栗香さんも。〈まろん〉に何か関係ある人なのかしら、と思っていると地元の最寄り駅に着いて、家へと靴音を響かせながら歩いた。
『きーちゃん、空いてる日ならいつでも会えるって言ってましたよ。
また日にち調整で連絡くれていいからって。
で、あのヤク中みたいな男の子は、まろんの残飯あさったりしてたらしいです。
よく分かんないけど、栗香さんは非常にきーちゃんを怒ってました。
クビにはなってなかったです。』
翌日、昼休みに気づいた澄音ちゃんのメールを読んで、最後の一行には笑ってしまった。それならよかった。
にしても、残飯を漁る、って。家に帰れない問題のある子なのだろうか。でも、そうだとして、なぜキネくんが面倒を見るみたいにごはんを食べさせていたのだろう。釈然としなくても、まあ本人に訊けばいい。
まだ昼休みの時間があまっているのを確認すると、キネくんに平日十七時以降と土日なら時間が取れるとメールしておいた。チャイムが鳴って仕事に戻ると、相変わらず昼食のあとは重たいほどに眠くなりながら、定時までPCの画面と向かい合う。
今日もちゃんと十七時に上がって、マナーにしていたケータイを開くと、キネくんからのメールが来ていた。
『来週の火曜、俺はオフだから何時でも会える。
場所は冬乃に任せるよ。』
場所。そんなに落ち着いて話せる場所なんて、私は思いつかない。〈まろん〉でもいいけど、キネくんとふたりで話せるだろうか。でもそこしか落ち着ける店が浮かばなかったので、そのまま〈まろん〉を候補にメールしておいて、退社した。
家に着いて、親の気配はしていても、挨拶せずに二階の部屋に上がった。ドアを開けると明かりがついていて、ベッドに秋生が寝転がっていて面食らった。「おかえり」と頭を上げてきた秋生に、私は息をついて「ただいま」と床にバッグを置く。
「家にいるの、久しぶりに見たわ」
「そう? ねえちゃんも最近帰り遅いね」
「秋生も外泊してるでしょう」
「俺がいないと寂しい?」
答えずに、スーツのボタンを外しながらクローゼットの私服を選ぶ。秋生はベッドに仰向けになって、何もない天井を眺めている。
そのとき、私のバッグから着信音がこぼれてきた。下着と黒のスリップドレスだけでバッグの中のケータイを取り出すと、キネくんからのメールだった。
『まろんでいいと思う。
ふたりで話がしたいって言えば、澄音と鎬樹くんは別のテーブルに移るだろ。
時間は十八時くらいで──
そこまで読んで、背中を抱きこまれたのと同時に、ケータイを取り上げられた。私の腰に腕をまわしたのは秋生で、そのメールをどこか冷めた目で読んだあと、「ふうん」と持ち上げたままの私の手にケータイを返す。
「彼氏?」
「違うわ」
「これから告白?」
「違う」
「ふたりで話って?」
「何でもないわ」
「もしかして同窓会の奴?」
秋生の腕を振りはらって、ケータイは鏡台に置いた。そしてクローゼットに向かい合いなおすと、パイル生地の紫のワンピースを選ぶ。黒の前ボタンをはずしていって、それを着ようとすると秋生が私の手首をつかんで引っ張ってきた。
痛い、と言う前にベッドに押し倒されて、ベッドがきしんで、乱暴に口づけられる。
「秋生、」
「何にもないって言ったじゃん」
「え」
「そいつは何にもないんだろ。何で、ふたりで話すとか、……なるんだよ」
「いけないの?」
「だって、ねえちゃんは──」
秋生を見上げた。ヘアピンで留められていない秋生の髪が落ちてくる。秋生は舌打ちすると、大きく息を吐いて、私の胸に顔を埋めてきた。私は秋生の茶色の髪を見て、そっとその頭を撫でる。秋生の手が私の手を握る。
「ねえちゃんは、俺のこといらなくなるのかな」
「その人が秋生の代わりになるわけじゃないわ」
「寝たの、そいつと」
「昔、キスも無理だったわ」
「今だったら?」
「きっと無理」
「なのに、ずるずる会ったりしてどうするんだよ」
「友達もいけないの?」
秋生は私の胸に顔をこすりつけて唸ったけど、言葉は返さない。つないだ手に力がこもった。
私は同じ匂いの秋生の背中をさすっていた。体温がひとつになって、わずかに熱を帯びる。秋生の重みが軆を抑えつけて息苦しくて、その低い息遣いに秋の虫の声が透き通る。
「ねえちゃん」
「うん」
「ねえちゃんが誰かとつきあったら哀しいから」
「……秋生」
「哀しいからね、俺」
秋生は身を起こして、目を合わせずに部屋を出ていってしまった。私はぱたんと閉まったドアを首を捻じって見つめた。
哀しい、なんて。そんなことはあるはずはない、ととっさに言えなかった。でも、秋生が哀しむなら、私はキネくんと話してすっきりしたら、それ以上は友人としてつきあうことは考えないほうがいいのだろうか。秋生が遠ざかってしまうほうが、私は怖い。
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