好きなのに【5】
「まあ、キスしようとしたのは気持ち悪かったんだろうけど。俺もごめん、嫌な想いさせて」
「つきあってたら自然のことだったわ。キネくんにはちゃんといい女の子が現れるわよ」
「女の子かー。今そんな興味ないけどな。小説が一番だ」
「サイトの、読んでいってるわ。確かに表現がさっぱりしてきてる気がする」
「昔はごてごてと説明してたもんな。鬱陶しかった」
「書きたい勢いだったんでしょ」
「うん。昔は書きたいものを書きたいまま書いてた。そうやって書くほうが楽しいんだけどな。できあがったら、読むに耐えない。結局、推敲でやたら時間かかる」
ぶつぶつ言いいつもキネくんはそれが楽しそうで、私はちょっと咲ってしまう。「何だよ」と眉を寄せられて首を振ると、ふと思い出して口を開いた。
「キネくん」
「ん?」
「この間ふらふらの男の子にごはんおごってたけど、あの子は何だったの?」
「ああ、あの子は──」
キネくんはいったんコーラを飲んで喉を潤す。
「ちょくちょく家出をくりかえしてる子で、腹減ったら、あちこちで残飯漁ってるんだ。で、〈まろん〉のも漁ってたんだけど。やっぱ衛生的にどうかと思うんで、俺の独断で食えそうな残飯はよけて残しておくようになって。そしたら、けっこうあてにしてくるようになっちまって」
「ああ、だから栗香さんに『餌』って言われてたのね」
「そう。怒られたな、うん。かなり怒られた。ちょっとクビも検討された。まあ結局、なごみくん──あの子の名前だけど、なごみくんの代金は俺がはらうんで、店に入ってこいってことになって。で、ふらふらになった状態で来たのがあの日」
「お金はらってあげてるの?」
「あとになって、返してくれるけどな。でも、それも売りとかやっての金だから、『いいよ』って言ってんだけど」
「キネくんって、ストレートよね」
「澄音みたいなこと言うなよ」
「そこまでしてあげてるなら、何かそう思うわよ」
「まあ、俺も自分の対象が男なのか女なのかよく分からなくなってるけど、それより小説なんだよ」
「その子をネタにしたいの?」
「けっこう、俺の小説の趣味を地で行ってるからな」
「ふふ、私のことは小説にする?」
「していいならするかもなあ」
「キネくんならいいわよ」
「じゃあ参考にしとく」とキネくんはコーラを飲み干した。私も冷めて底に名残ったシロップが甘い紅茶を飲む。
「帰る?」
「そうね。話したいことは話せたわ」
「じゃあ、まあ俺は働いてる限りここにいるし。ここ辞めるのは、一応、作家としてデビューできたらだから」
「作家になるの?」
「それ以外、なれそうなもんがあまりにもない」
「見通しは?」
「ぜんぜん。どの新人賞に、どんな作品を出そうかも考えてない。ただ、なるべく毎日書いてるよ」
キネくんは立ち上がり、私もバッグを手にして椅子を立つ。
「弟の反応によっては、このままもうここに来ないかもしれないんだよな」
「……そうね」
「でも連絡先変わるようなときは教えるし、ここ辞めたときも勝手に連絡するから」
「私も、できるだけ秋生と話すわ」
キネくんは笑顔を見せて、私の肩を励ますようにたたいた。
秋生が好き。弟でも好き。どんな人と関わっていても、それは変わらない。それをちゃんと秋生に伝える。
そういえば、私はちゃんと秋生と「好き」という言葉を交わしたことがないかもしれない。伝えよう。そして、私は秋生の呪縛に堕ちるのだ。
電車に乗って地元に着いて、〈まろん〉では話だけして食べなかったことに気づいた。二十一時をまわっている。もう夕食は片づけられているだろう。何となくキッチンを漁る気もしなくて、暗い駅前でゆいいつ明るいコンビニで、おにぎりふたつと玄米茶を買った。
月と星が出ている。もうすぐ九月も下旬になる。日中はまだ暑くても、夜は風がひんやり頬をかすめるようになった。ベッドタウンのこの町は静かで、すれちがう人も住宅街を進むほどいなくなっていくから急いで帰る。
家にたどりつき、玄関の鍵を取り出そうとしているといるとドアが勝手に開いた。どきっとして後退り、顔を出した人にまばたきをしてしまう。
「あ、冬乃おねえちゃん」
私を認めてそう言ったのは、ショートボブの小柄な女の子だった。久々に見る、昔よく秋生といた女の子──
「……理恵香、ちゃん。久しぶり」
「ほんと久しぶりっ。今、お仕事帰り?」
「ええ。ええと、秋生と?」
「うん。でも今日は帰る」
「そう。またいつでも来てね」
「ありがとっ」と理恵香ちゃんはにっこりして、頭を下げると庭を横切っていった。すれ違いざま、理恵香ちゃんの揺れた髪から、知っている香りがして、私は自分の髪に触れた。
何で。何で、理恵香ちゃんの髪から、私の家が使っているシャンプーの香りが──
小さく、引き攣った、乾いた笑みがもれた。嘘。いや、嘘じゃなくても。そうだ。秋生は女なら誰だっていい。理恵香ちゃんだって、そうなったとしても私と同じ大勢の中のひとりだ。なのに、どうしてこんな心がおののいて、突っ立って動けなくなってしまうのだろう。
無理やり息を喉に通して、ぎこちなくなりそうな指先や足取りで家に入った。鍵を締めて、いつもどおり一階の気配は無視して二階に上がる。部屋に行こうとして、でも、秋生の部屋のドアがもらす光を振り返る。
頭の中に、よく分からない、いらいらする雑音が侵入してきている。自分の部屋のドアノブに手をかけたけど、何かこみあげて、私は暗い廊下を進んで秋生の部屋に近づいた。ノックなんかせずにドアを開けた。
秋生がベッドにいた。壁に背中を預けて、シーツに投げ出す下半身にジーンズだけ穿いている。そのシーツはひどく乱れていた。
私を見た秋生は、「おかえり」なんて普通に言った。でも、目を合わせようとしない。
私は部屋に踏みこんで、「理恵香ちゃんと寝たの?」と露骨に、そして率直に訊いた。秋生は膝を引き寄せて抱え、「うん」と言った。
「何で……。秋生、理恵香ちゃんが好きなの?」
「昔から何度か告られてたから、意識はしてたよ」
「告白……」
「俺も、もうガキじゃないんだもんね。そんなかわいい弟じゃないよね」
「何──」
「ねえちゃんが今頃男と会ってんのかなあとかさあ、けっこうきついんだよね。だから、もうやめなきゃ」
「私は、誰ともつきあったりしてないわ」
「それでもやだ」
「じゃあ、ほかの男となんか会わないわよ」
「でも俺は、ねえちゃんと結婚できないよ」
手に持っていた荷物が床にどさっと落ちる。秋生は息をついて、「もう俺は理恵香とつきあうから」と膝に顔を埋めた。
「女たらすのもやめる」
「私のことは?」
「ねえちゃんともおしまいだよ」
「何で、」
「ねえちゃんだって、俺なんかもういらないんだろ」
私はベッドに歩み寄って、床に膝をついて秋生の腕に触れた。秋生はいつのまにか涙をこぼしていた。
「俺は、ずっとねえちゃんが好きだったよ」
「秋生……」
「ほかの男なんか、いらないようにって……ずっと、頑張ってきたのに。何だよ。ちゃんといるのかよ」
「秋生だって、私以外の女の子とたくさん──」
「だって、飽きるまでやらせたら言い寄るのやめてくれるって言うから。俺が何度も……自分から何回もしたのは、ねえちゃんだけだよ」
秋生は私の手を振りはらって、ベッドに倒れると毛布をかぶった。
「でも、もうねえちゃんとはしない」
「私……も、秋生が好きだって言っても?」
「うん」
「好きなのに?」
「しない」
「秋生も私が好きなのに?」
「もう好きじゃない」
「どうして。私は秋生しか好きになれないわ」
「………、」
「秋生しかいないのに。秋生に捨てられたら、私──」
「……そう言ってくれるのが遅いよ」
「遅かったらダメなの? 間に合わないの?」
秋生はゆっくり毛布から頭を出して、私を振り返った。私の部屋から盗むヘアピンで前髪が抑えられている。私は秋生の瞳を見つめて、秋生もそうした。
「俺はもう、ねえちゃんにしてあげられない」
「………、」
「抱いてあげられない」
「……秋生、」
「ごめんね。ただの弟になるって決めたんだ」
秋生は、また壁のほうを向いた。茶色の髪が小刻みに震えていた。
何で。今、そうやって泣いているのに。それでも遅いの? 私はそんなに秋生を傷つけたの? 傷つくほど、秋生は私が好きだったの?
好きなのに。私は秋生が。秋生は私が。それでもいけないの? 結ばれないの? 私はいまさら、ただの姉にならなくてはならないの?
私の頬にも涙が伝う。あの日みたいに。父に辱められていると、泣きながら秋生にすべて話した日みたいに。あの日から秋生は私に触れて、抱いて、守ってきてくれた。私たちは愛しあってきた。
そのまま、私に秋生以外いないのは変わらないのに。どんな男も私に届かないのに。ちゃんと謝ったから、わだかまりだったキネくんも捨てる覚悟をしてきた。なのに、何でよりよって今日、もう遅いなんて言われて終わってしまうの?
私が泣いていても、秋生は振り返ることなく背中を向けている。その背中が一気に遠くて、投げかける声も出てこない。心がどくどくと血を流す。その血はこの愛おしい男の子と同じ赤で、だから私たちはこんなにもあっさり切断される。
私を守ると言ってくれた男の子。その体温が、他人よりもっと遠くかけはなれて、私の心から失われていく。
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