Episode【3】
イジメとか虐待を書くのが好きだ。理由はよく分からない。
主人公の心の痛みを、耐えがたいほど錯覚で体感し、それを小説に変換していく。そのとき、俺は俺でなくなっているのかもしれない。いってしまっているのだ。主人公の五感をまとい、頭から心に落ちてくる言葉を拾って濾して、文章にする。
小説家になるしかないと言いつつ、春に〈まろん〉で働きはじめて、季節は秋が暮れてきた。あと半月くらいでカレンダーは十二月、最後の一枚になる。
すっかり空気は乾いて冷たくなった。雨が降ることはあまりなく、今日も十五時半頃に家を出ると、空は青くよく晴れていた。
働きはじめた頃はシフトの時間帯が固定されていなかったけど、今では夕方からラストに入るのがほとんどになった。だから、いつもこのくらいに家を出て、下校の学生がちらほらざわめく電車でふた駅先におもむき、十七時からのシフトにゆとりを見ながら、動きはじめる人波を店まで歩く。
今週の初めに、ひとつ短編を書いた。ここのところ短編が続いているので、長編をがっつり書きたい。でも働いているから、集中力にはどうしてもオフスイッチが介入する。その時間がひどく苦痛だ。せっかく書ける時間に作業が進まないのもつらいが、降りてきているときにPCに向かえないと、生きている意味も分からない。
「それをコントロールできるのもプロ志望でしょ」と栗香さんはあっさり言うけれど、降臨としか言えないあの感覚を制御するなんて、たやすいことではないのだ。
だからやっぱり、小説家になって常に書ける状態になりたい。そうならないと、書いている資格をもらわないと、生きる意味も分からなくなるほど小説に懸ける俺なんて、気が狂っているのと変わらない。
何だかんだで次も短編かなあ、と頭で具体化しつつある構想の中で、どれをかたちにしようか悩んでいると、〈まろん〉に近づいていた。流れていく人通りを見やると、〈まろん〉の入口の前に突っ立っている人がいる。客かなと目を凝らしたら、その華奢な人影はなごみくんだった。
また入っていいかどうか迷ってんのかな、と思ったとき、なごみくんはため息をついて身を返そうとした。俺は思わず彼に駆け寄りながら、その名前を呼んでしまう。なごみくんは足を止めて俺に気づき、どうしたらいいのかちょっと迷ってから、小さく会釈した。
「また食べてないの?」
なごみくんは暗い瞳で俺を見てから、唇を噛み、うつむくようにうなずいた。
ほんと俺の小説に出てくるキャラのイメージだな、と思いながら、それは言わずに俺は軽くなごみくんの肩を押す。
「もうじき秋メニュー終わるし、今のうちに気になるの食べておきなよ」
「……でも」
なごみくんは今十九歳で、声変わりはしているのだけど、口調がかぼそいせいで声も耳にかよわい。
「もう、夏じゃないから、……コンビニの廃棄とかでもよくなる、し」
「また、何かつらかったんじゃないの?」
俺の言葉に、なごみくんは首を垂らした。長い前髪の隙間で、まぶたを狭めて瞳を滲ませる。俺はなごみくんの事情に詳しいわけではないけれど、ときおり顔に痣があるときもあって、少しだけ察している。
「食生活の面倒見るから、廃棄とか全部やめろとはさすがに言えないけど。あったかい飯ぐらい食いたいときはおいで」
「……すみません。僕、まだ希音さんに何もできないのに」
「いつかでいいんだよ」
俺は〈まろん〉の扉を開けて、「おはようございまーす」と声をかけた。「おはよう」と栗香さんやバイトが応えて、なごみくんはそれに臆しながらしずしずと俺についてくる。
「テーブルにする?」
俺がそう訊いてなごみくんがこくんとしそうになったとき、「こっちおいでよ」とカウンターの栗香さんが声をかけてきた。なごみくんは少しびくりとして、俺は噴き出してしまう。
「栗香さん、ビビられてる」
「何よー。仲直りしようって持ちかけてんじゃない」
「なごみくん、どうする? 栗香さんは、ほんとはそんな怖い人ではないんだよ」
なごみくんは狼狽を残しつつ、俺を見て、栗香さんを見て、どちらかといえば拒否できない様子で、「じゃあ」とカウンターをしめした。「俺もまだ時間あるから少し一緒に話すよ」と俺が言うと、なごみくんはほっとした色を見せた。
「あたしも『なごみくん』でいいのかな」
カウンターに並んで座ると、栗香さんは水のグラスをさしだしながら首をかたむけた。伸びていた髪は先月切ったそうで、こぼれる後れ毛もちょうど春と同じくらいだ。
「あ、……はい」
「希音くん、ボランティアでごはんおごってあげてるの?」
「んー、ボランティアではないですね」
「何かしてもらってんの?」
「言い方がやらしいですよ。一応、あとで代金返してもらってるし」
「そうなの?」
「そうですよ。そこ知っててくださいね。そしてそれ以上に、何か、なごみくんはすっげー俺のイメージなんですよ」
「タイプなの?」
「イメージです。小説の」
栗香さんはなごみくんを眺めてから、「あたし、希音くんの小説知らなかったわ」とそこに気づいた様子でつぶやいた。俺はなごみくんにメニューを渡し、「だから」と栗香さんに向き直って肩をすくめる。
「いつか小説のモデルとして話聞かせてほしい、って頼んでるんですよ。その代わりに飯」
「希音くんは小説のためなら土足も気にしないね」
「なごみくんみたいな子が多いんですよ、俺の小説」
「そうなんだ。最近ちゃんと書いてるの?」
「書いてますよ。短編の構想を消化してます。長編を書きたいのに、バイトでまとまった時間が取れなくてもやもやしてますよ」
「それ、抗議?」
「そうですね」と俺は含み笑って、ひと口ミネラルウォーターで喉をおぎなう。
「まとまった時間ってどれくらいなの」
「一週間から十日」
「え、それで長編書けるの。書き終わるの?」
「ざっとしたものは書けますよ」
「ふうん。じゃあ、春から頑張ってもらってるし、休暇あげようかなあ」
満更でもなさそうに腕組みをする栗香さんに、「マジですか」と俺は色めいてしまう。
「ひとつ文学賞向けの構想あるんですよね。でも、枚数が四百字詰め二百以上四百以内」
「待って、二百枚を一週間で書けるの?」
「主人公との相性もありますけどね」
「意外とすごいんだなあ、希音くん」
「もっと書ける人もいますよ。俺だって、十代の頃は一日百枚とか書いてたし」
「は!?」
栗香さんが衝撃を受けたところで、「あの」となごみくんが申し訳なさそうに声をかけてくる。「ん」と俺はなごみくんの手元を見て、「これ?」と指さしている料理を確認する。なごみくんはひかえめにうなずく。
「よし。栗香さん、鮭とナスのみそ炒め」
「はい、了解。野菜と魚を食べるのはいい心がけだわ。ライスおまけしとく」
「えっ、あ……でも、」
「いいの、もらっときなさい」
「栗香さんなりに野良犬あつかいしたことを詫びてるんだよ」
「……ほんとに、僕は、野良犬みたいだから」
「ここでは違うんだよ。なごみくんはちゃんとした人間」
なごみくんは俺を見て、泣きそうになった目をこすった。「ありがとうございます」と言われて、俺はなごみくんの頭をぽんぽんとする。
伝票を書いた栗香さんは、キッチンに注文を伝えにいく。
「なごみくんさ」
「はい」
「別に飯食いに来るだけじゃなくてもいいんだよ」
「えっ」
「俺の友達とか、だらだらここで過ごしにきたりしてるし。逃げたいとき、行くあてがなかったら、ここに来てもいいんだ。それで、気持ちが落ち着くまでお茶ひとつしか注文しなくても構わない」
「迷惑、じゃ」
「俺のほうが迷惑じゃない?」
「え、な、何が」
「なごみくんのつらいこと、いつか聞き出そうとしてさ。小説のネタにしようとか思ってて」
「僕は、希音さんはすごいと思います。小説とか。その役に立てるなら、僕も……ちょっと、自分を受け入れて、見ることができそうです」
「そっか」と俺は咲って、カウンターの木目の模様を見つめる。なごみくんは水を飲んでから、「希音さん」とうなだれるまま言う。
「うん」
「ほんとに、僕の人生なんかくだらないんですよ。そんなので、いいんですか?」
「んー、何つーか、自分をくだらないと言ってしまえるのがすごい」
「……くだらないから」
「俺なんか、思い上がってばっかだな。作家になるなんてさ。学校卒業すれば資格取れてなれるとか、そんなんじゃないのに」
「もし、作家になれて、僕のことを小説にし終わっても、その……と、友達でいてくれますか」
「なごみくんが俺を友達と思ってくれるなら」
「すみません。友達なんて、ずうずうしいですよね」
「俺は嬉しいよ。なごみくんがいつか強くなるのまで見てたいし」
「どうやったら、自立とかできるんでしょうか。もう、帰りたくないのに。やっぱり帰るしかない」
「働かないの? 俺、あんま言えた義理じゃないけど」
「コンビニの面接とか、行ったこともあるんですけど。落ちるから。バイト受かれる人って、すごいです」
「売りはあんまやってほしくないんだよなあ。危ないし」
「しないと、返せないのが溜まっていくから」
「俺には──」
「親の借金とかも、僕も……家族なら負担しろって、手伝わないと」
「それ、家族なのかな」
なごみくんはうつむいて、「分かんないです」とぽつりと言った。
そのとき、栗香さんが戻ってきて、「そろそろ十七時だよ」と声をかけてくる。俺は請け合い、「なごみくんのこと、イジメないでくださいよ」と言い置いてスツールを降りる。
なごみくんは俺を見る。「俺はなごみくんの家族じゃないけど、味方だよ」と言うと、なごみくんはほんのかすかに、力なくだけれど、笑みを作った。
【第二十章へ】
