首輪で縛って【1】
愛されたことがない。実の母は僕を捨てた。不倫相手の僕の父親の家の前に。父親はそんな僕の背中を、酒瓶で殴った。血のつながらない母親は、爪を噛みながらそれを見ている。
まともな食事は用意してもらえない。床にキャベツの芯や果物の皮が投げられたとき、かろうじてそれを食べる。
物心ついたときから、空腹とくらくらして、打撲でふらふらして、目の焦点が合っていなかった。
学校は行かせてもらえなかった。行ったところでイジメられるだけだっただろう。家の中にもいさせてもらえず、うだる夏も凍える冬もベランダで膝を抱えていた。
やつれて皮と骨の膝や腕を見て、浅い息と心臓の音を意識した。「死」なんていつ憶えたのだろうか。でも、僕はそんなすりきれた自分の軆に、いつ、持たなくなって死んでしまうんだろうと思った。
冬の夜、爪先や指先の感覚がなくて、白い息を朦朧と眺めていた。風に打たれる頬がこわばって、唇も渇いてかさつく。星が静かにさらさら光っている。どこかの部屋の家族の談笑が聞こえる。お風呂に入っていないから頭がかゆくて、伸びた爪で頭皮を引っかいたときだった。
酒を飲み干した父が、不意にベランダのガラス戸を開けて、僕の枝のような腕をつかんできた。殴られた痣、膿んだ切り傷、煙草の火傷、全身のいろんな怪我が全神経で叫んで、わななきそうになる。父は僕の後頭部を踏みつけて顔面をフローリングにつぶすと、がっと背骨に堅いガラスの酒瓶を振り落とした。
衝撃と激痛、舌がはみ出て息が痙攣する。ガツッ。ゴッ。バリッ。脊髄がおかしな音を立てて、僕はそのたび胸を上下させて息を小刻みに絶やしていく。
ひと思いに酒瓶が僕の腰にめりこみ、がしゃっと割れると、その破片が散らかった上に仰向けにされて皮膚が切れる。父は臭い足で僕の顔を蹴りつけ、転がったせいで破片が肌を撫でて血が飛ぶ。
「早く死ねよ」
僕がのろのろと起き上がると、父はそう吐き捨てた。
「お前さ、迷惑なんだよ。人に迷惑かけてんだよ。生きてるのが迷惑なんだよ」
弱々しく父を見上げると、その視線を切断するように父は僕の耳をかかとで強く蹴った。ばんっ、と破裂するような音がして、聴覚が痺れる。
「何でお前、のうのうと生きてんだよ」
僕は耳を抑えようとした手を下ろしてうつむいた。父の視線が来ている恐怖で、脳がぱんぱん腫れたように感じられる。視界がぐらついている。
「もっと必要とされてないことを自覚しろっ、カスが」
言い捨てると、父は寝室に行ってしまった。母はダイニングのテーブルからそれを見ていた。ぐるる、とお腹が鳴ったけど、母は床に何も与えずに浴室に行ってしまった。
僕は膝を抑えながら立ち上がり、よろよろとキッチンに行った。冷蔵庫は宝石箱だ。触れたい。開けたい。素敵なものがいっぱい詰まっている。でも、開けたら大人にしかられる。だから、冷蔵庫の前に行っても、結局貼られた献立のメモを見つめただけで、リビングに戻って割れた酒瓶を片づけた。
そして床に寝転がり、暖房はついていなくてもベランダに較べればマシな室内ですぐうとうとした。怖くて熟睡なんてできなくても、夢と現を行き来する。
同じ。昨日は暴力。今日は飢餓。明日は絶望。
この家で、母は働いていない。母はいつも無気力に薬ばかり飲んで、僕のことも憎いというよりどうだっていいみたいだ。父が外で女と作ってきた僕だけど、そもそも父にも執着がないみたいで、興味がないらしい。「三十になる前に結婚しろって親に言われただけだし」と母が電話で誰かと話しているのを聞いたことがある。
「そのとき、ちょうどつきあってたのがあの人だっただけ。よっぽどちゃんと好きだった元カレのほうが多いな」
幼い僕にはよく分からなくても、母は父が好きじゃないのは分かった。好きだったら、むしろ僕は母にも虐待されていたのかもしれない。
母はいつも無関心だったけど、ゆいいつ、「ちゃんと働いてよ」とは父に言っていた。父は本当にしょっちゅう仕事を変える人だった。人間関係で揉めて、幼稚な理由であっさり辞めるのだ。
「あの上司は俺の実力を分かってない」
「俺より学歴があるから偉そうにしやがって」
「嫌な仕事を押しつけて、みんなで俺が辞めるように仕向けてる」
被害妄想の言い訳を並べ立て、だいたい二週間ぐらいで職場で怒鳴り声を上げて辞めてくるらしい。仕事を辞めると、いっそう父は荒れて、待てなかったカップラーメンを投げつけてきたり、ふとんに包んで押し入れに閉じこめてきたりする。
おかげで、僕の家はいつも家計が苦しかった。サラ金に手を出すのもあっという間だった。もちろん返す宛てなんかないから、利息はふくれあがっていく。足音がいつまでも廊下を立ち去らない。ドアを永久のようにたたかれる。柄の悪い叫びが近所に響き渡る。「すぐ返しますので」とあの父が頭を下げる。
その頃になると、僕はたぶん本来なら中学生くらいになっていた。この家に閉じこもっていなくても、もっと自分で生きていけるかもしれない。無能力の子供ではないのだ。深夜、両親が寝ているときに玄関の鍵を開け、まだ春の匂いもしない冷える二月の夜に家の外に出た。
マンションを出て、きょろきょろして光を探す。歩いているうちに見つけた、こんな時間帯なのにやたら明るい店に入ってみた。コンビニという場所かもしれない。お弁当、おにぎり、サンドイッチ、見たこともない立派な食べ物が並んで、ごくん、と生唾を飲んでしまった。
でも、さすがにお金が必要だとは分かる。レジ前だし、盗むのも無理だ。じゃあ、奥のほうならポケットに入れてしれっと出ていけるかもしれない。
ドリンクコーナーをまわって、真ん中の通路のお菓子コーナーに出た。ポテトチップス、クッキー、キャンディ。豪華すぎてめまいがした。
どれかポケットに入れて持っていけないかなあ、と小さめのチョコレートを手に取って、ポケットの大きさと較べたりしてみた。スティック包装になっているチョコを握って、これ盗っちゃおうかなとも思ったときだった。
「それ、買ってあげようか?」
びくっと顔を上げる。知らないおじさんが隣に立っていた。
「え、あ……」
「盗んだりしちゃダメだよ」
見透かされて頬がかあっと熱くなって、僕は乱暴にチョコレートに棚に戻す。
と同時に、お腹が鳴ってしまう。おじさんは笑った。
「お腹空いてるんだろう? お弁当のほうがいいんじゃないかな」
「……え、いえ。その、」
おじさんは腰をかがめて僕の耳元に口を寄せた。
「お仕事させてあげるから」
僕はおじさんを見た。赤らんだ頬がやけに目についた。
「仕事、って」
「簡単なお仕事だよ。興味ない?」
仕事。仕事をすれば、僕は自由になれる。あの家。父。母。逃げ出せる。
おにぎりをいくつか買ったおじさんは、コンビニの前に止めていた車に僕を乗せて少し走り、マンションの群集の陰に停まった。そして僕に服を脱ぐように言った。思わずとまどうと、「ほら」とおじさんは僕の服に手をかける。気持ち悪いのと恥ずかしいのが泥みたいにぐちゃぐちゃになったけど、後退れないのも分かって、僕は上半身の服を脱いだ。
おじさんは僕の軆に触って、僕の手を自分の股間に連れていって「触って」と言った。狼狽えながらもそこを触っていると、びく、びく、と反応が現れてきて、何だか硬くなってきた。
おじさんは股間の僕の手をつかみ、ズボンの上から僕の手にそれをこすらせる。そうしながら僕の乳首を舐めまわし、ジーンズと下着をずらして僕に触ってくる。そうされていると、脚のあいだに感じたことないものがこみあげてくるのを感じた。
おじさんは僕を口に含み、ぬるっとした熱に思わず声がもれる。気持ちよくて軆が痙攣して、頭が白くなっていくまま、おじさんの手に導かれて、僕も先端が濡れるおじさんを直接しごいた。僕をしゃぶりながらおじさんもうめき、どんどん動かされる手が早くなっていく。
僕の弱い喘ぎ声が車の中を彷徨う。そして、やがて、僕は集束した光が一瞬にして飛び散るのを感じた。僕の手の中にも、どろっとおじさんの液があふれた。
おじさんは片づけると、僕におにぎりをくれた。「またしてくれたら、ごはんあげるからね」とおじさんは僕の頭を撫でた。僕は小さくうなずき、今までほとんど食べたことない甘い米粒を噛みしめた。
それから、僕は少しずつ夜に外出するようになった。あのおじさんと再会することはなかったけど、似たようなことをさせてくれる男はたくさんいた。「お尻もいいよね?」と初めて言われたときは、意味が分からなかったけど、断れる立場でもないのでうなずくと、僕は肛門で男を受け入れることも覚えた。
ただ、それをされると次の日は腰がだるくて、そういうときは万引きで空腹をしのいだ。万引きに慣れてくると、ひったくりもやった。財布からお札だけを抜き取り、バッグはゴミ箱に入れる。
そんなことをしていて補導されたとき、僕は十七歳だった。家に連絡が行ってしまい、久々に家に帰った。もちろん父親に「汚い虫螻がっ」とずたずたに殴られて、監察の目もあるのでしばらく家に監禁状態になった。でも、警察の目も父の緊迫も緩んでくると、僕はやっぱり夜の街をふらついて、飢えに任せて売りも万引きもやった。
うまくいかないときは、コンビニや飲食店の裏の廃棄でもいいから食べた。とりあえず食べたら意識がはっきりしてくるから、食事だけはとって正気を失くさないようにした。そして、十二月には二十歳をひかえた十九歳の夏、僕は希音さんに出逢った。
昨日激しく犯されて、そのわりにお金はあんまりもらえなかったから、僕は〈まろん〉というダイニングバーの生ゴミを漁っていた。ここは食パンの耳が廃棄に出されるときがあるので、目をつけている。
真っ暗な中、饐えた臭いも気にせずゴミぶくろに顔を突っこんでいたら、「えっ……」と驚いたようなヒイたような声して、僕は顔を上げた。僕と歳があんまり変わりそうもない男の人がいて、ゴミぶくろを両手に提げていた。
「な……に、してんですか」
僕はその人を虚ろに見つめて、何も考えずにゴミぶくろに手を伸ばした。その人は一歩引いて僕の手を避ける。
「あの、最近ここのゴミ荒らしてんのって、君?」
僕は眉を寄せて、もう一度ゴミぶくろに取りつこうとした。その人はまた下がって、僕は地面にべたりと倒れる。
「何というか、そういうのけっこう困るんだけど。俺がオーナーに怒られるしさ」
「……じゃあ、買ってよ」
「はっ?」
「くわえてあげるから、よくしてあげるから」
「いや、俺は男に興味ないんで」
「じゃあ、食べるものがないよ!」
ヒステリックに叫んだ拍子に糸が切れて、僕は泣き出してしまった。その人は参った様子で突っ立っていたものの、「ちょっと待ってて」とゴミぶくろを置いて店の中へと走っていった。
僕は放り出されたゴミぶくろに手を伸ばしたものの、待ってて、と言われたのをかろうじて思い出してその場に座りこんだ。その人はすぐ戻ってきて、ラップに包まれたクラブサンドをさしだしてきた。僕はぽろぽろと涙を落としながらその人を見上げた。
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