僕らの恋はうまくいかない-8

嘘をつくよりは【1】

 幼なじみのきーちゃんも、私が嘘をついていることを知らない。
 夜更けに家を抜け出した私は、隣の家のきーちゃんの部屋を訪ねる。ノックしたドアを開けると、「また喧嘩?」と小学五年生のきーちゃんは、PCのキーボードをたたく手を止めて振り返ってくる。小学三年生の私はただこくんとして、きーちゃんの匂いがするベッドに横たわる。
 もっと幼い頃、「おとうさんとおかあさんの喧嘩が怖い」と嘘をついて以来、逃げてくる私を、きーちゃんはいつでも部屋にかくまってくれる。
 九歳になったばかりの、梅雨が明けそうで、夏休みも近い七月だった。秒針が響く時計を見ると、二十三時をまわっている。庭では虫たちの声が透き通っている。私の家はむしむししていたけど、ここはクーラーがかかっていて涼しい。
 白熱燈が刺さって目をこすり、PCに向かうきーちゃんの背中を見た。去年から、きーちゃんは時間さえあれば小説を書いている。「小説家になるの?」と訊いてみたとき、「さあ」ときーちゃんは肩をすくめたけれど。
 不意にタイプ音が止まる。何やら白い画面を睨んでいたきーちゃんは、息をつくと、少し操作してからノートPCを閉じた。
 ぎし、と背もたれに寄りかかり、「泊まってくのか」と今度は振り向かずに訊いてくる。私はまくらのパイル生地に頬を当てながら、「明日も学校だから帰るよ」と答えた。
「そうか。腹は減ってないか」
「何にも食べてない」
「何か持ってこようか」
 考えてから「うん」と言うと、「よし」ときーちゃんは立ち上がって、部屋を出ていった。私は息をついて仰向けになると、ひんやりしたシーツに手足を伸ばした。
 夏休みになったら一日ずうっと家だな、と思った。日中はおとうさんは仕事だけど、おかあさんは専業主婦だから家にいる。別に何も責められないけど、優しくされることもない。
 おかあさんがおとうさんに頭を蹴られて、床に踏みつけられていて、私はその隣を平然と通り抜けて、この部屋に来る。自分を助けなければ、気にかけもしない私を、おかあさんは怨めしそうな目を見つめてくる──なんて薄情でかわいくない子なのだろうと。
 だから、家に長時間いるのは憂鬱だ。私が入り浸っても、きーちゃんは文句は言わないだろうけど、さすがに毎日一日じゅう過ごすのは気が引けた。
 どうしようかなあ、と曲げた膝を抱えてごろんとしていると、きーちゃんがクリームパンとジャムパンを持ってきた。私はジャムパンをもらって、甘酸っぱいいちごで胃を満たす。ベッドサイドに腰かけたきーちゃんもクリームパンを食べて、こちらをかえりみた。
「俺、風呂入ったら寝るけど」
「きーちゃんが寝るとき帰る」
「あんまり無理すんなよ。ここにはいつでも来ていいから」
 私はうなずき、瑞々しい赤いジャムを噛みしめる。きーちゃんは私の頭をぽんぽんとして、クリームパンを食べ終わると、着替えを持って、また部屋を出ていく。私はちょっと眠くなりつつも、意識を緩くつかんで、くらくらする半覚醒をうつろった。
 シャワーを浴びたきーちゃんが就寝すると、私は「おやすみ」と言い置いて、物音を殺して部屋をあとにした。玄関の合鍵の場所は、こっそり教えてもらっている。傘立てに立つ、緑の傘の中だ。勝手に入るときと同じく、出ていくときもその鍵をさしてまわす。
 階段を降りて門扉を抜け、様子を窺いながら自分の家の前に立つ。まだ明かりが消えていない。ということは、まだ続いている。私は眉を寄せて迷ったものの、家を入ると考えただけで吐き気がしたので、仕方なく人気のない深夜の家並みを歩きはじめた。
 九歳の子供がひとりで行ける場所なんて、近くの公園くらいだ。昼間はこの住宅街の子供たちが集まる場所だけど、今は虫の鳴き声が静けさを引き立て、月明かりに浮かぶ遊具もなぜか不気味だ。変態の人いないよね、ときょろきょろしながら踏みこみ、怪しい影がないのを確認するとブランコに腰を下ろす。
 きーちゃんは、優しい。でも本当のことを知ったら、私を軽蔑すると思う。
 おとうさんとおかあさんね、本当は喧嘩ではないの。おとうさんの一方的な暴力なの。それで私は、あの眼がおかあさんに向かってるうちに、ひとりだけ逃げてきてるんだ。
 そんなことを素直に打ち明けたら、あのきーちゃんだって、苦々しい顔をするだろう。
 きーちゃんだけじゃない。誰にも言わない。友達にも先生にも言わない。虐げられるおかあさんを見捨てていることなんて、みずから他人に言いたくない。
 そもそも、話して何の解決になるの? うぜえなって、重いなって、そんなふうに思われないためなら、私は真実なんて話さない。嘘だっていくらでもつく。たいていの「ほんとのこと」など、心の中ですりつぶして我慢するのが一番なのだ。
 しばらくブランコに座っていると、無意識のうちに爪先を動かし、ゆっくり漕ぎはじめていた。キー、キー、と消え入りそうに鎖がきしむ。スカートの裾が揺れて、ほてる肌をすべる夜風が少し気持ちいい。
 いつまで帰れないかな、と口の中に残るいちご味を飲みこんだときだった。
「……あーあ」
 突然、あくびのような声が聞こえた。どきっとしてあたりを見まわすと、誰もいないと思った光景の中、右手の砂場のそばのベンチから影が起き上がった。
 誰かいる、とさすがに警戒が走る。
 どうしよう。急いで立ち上がって走り去る? そっと立ち上がって植木に隠れる?
 考えているうちにその人は背伸びして、頭をくしゃくしゃとかきむしった。肩幅から見て、たぶん男の人だ。そしてその人の視線が、こちらに向いたのが分かった。
 息を止め、地面を踏んでブランコの揺り返しも止める。心臓が緊迫する。その人は私をじっと見ていたけど、ふと息をついて「子供かよ」と気が抜けたようにつぶやく。その言い方にむっとしたものの、もちろん文句を言う勇気は出ない。
 その人はベンチを立ち上がり、地面にあった荷物らしきかたまりを持ち上げた。
「どこの子か知らないけど、危ないよ」
 かばんについた土をはらいながら、その人は今度はひとりごとではなさそうに言う。意外とそんなに低くない、優しいテノールの声だ。
 私はぎゅっと鎖を握る。
「親子喧嘩でもしたのかもしれないけど、誘拐されたくなかったら、おとなしく家に──」
「誘拐、されちゃえばいいんだよ」
 うつむいてそう言って、言ってしまってから、すごく怖くなった。
 そんなことを言って、本当にあの人に誘拐されたらどうするの。殺される? 縛られる?
 軆の中が急速に冷たくなって、息遣いがかすかに震える。頭の中に感情や光景が混線して、知らずに肩がこわばる。視界が靴を見つめて狭くなっていて、はっとしたときには、人の気配は正面に来ていた。
「じゃあ、俺んち来る?」
 ぞわっと鳥肌が立った。
 急いで立ち上がろうとしたけど、膝が震えてその場に崩れそうになる。息苦しくて水中でもがくみたいになって、前のめってその場に座りこみかける。だけど空を切った腕をつかまれ、ぐいっと強く引っ張られ、私は思わず短い悲鳴を上げた。
「ちょっ、やめろよ。冗談に決まってるだろ」
 勝手にぼろぼろと大粒が瞳から落ちていった。腕を引かれてまっすぐ立たされ、顔を上げる。
 そこにいたのは、想像していた変質者とはほど遠い、まだ中学生くらいの男の子だった。というか、制服を着ているから、たぶん本当に中学生だ。高校生には見えなかった。
「あ……、」
「バカ。ったく、誘拐されるって意味分かってる? ヤケでもそういうことは言わないの」
「……だっ、て」
「何かあるんだろうけど、それでも言っちゃいけないこともあるんだ。分かった?」
 私は濡れて重くなった睫毛を伏せる。啖呵をたしなめられて恥ずかしくて、頬が熱くなる。
「家に帰りたくないのは俺もだから、気持ちは分かるけどね」
 その人は私の腕を放すと、どさっと荷物を放って隣のブランコに座った。私はまだ泣きながら、ぎくしゃくとそちらを見る。その人は、物柔らかな表情で微笑んでくる。
「名前は?」
「……澄音」
「近くに住んでるの?」
「ん、うん」
「じゃあ、帰りたくなるまで一緒にいてあげるから」
「え」
「男がついてたら、変質者もスルーするだろ」
「いい、の?」
「俺も家帰りたくないし、ちょうどいいよ。澄音ちゃんが家に帰ったら、俺も帰る」
「帰りたくないの?」
「俺がこんな時間に帰ってなくても、気にしない家だから」
 その笑顔の無理した陰は、偽りではなさそうだった。
 私は深呼吸してから、ブランコに座りなおす。手の甲で濡れた目をこする。
「おにいさんは、中学生?」
「中三だよ。受験生」
「勉強しないの?」
「してるよ、たくさん。毎日、夜の十一時まで塾」
「すごい」
「高校なんか行きたくないけどね」
「行かないの?」
「行くよ、たぶん」
 矛盾がよく分からなくて首をかしげると、おにいさんは「まだよく分かんないよなあ、受験とか」と咲った。
「澄音ちゃんも、そのうち似たようなことで悩むよ」
「……ん」
 私は正面を向き、こわばってどきどきと腫れていた心臓がほどけていくのを感じた。
 何となくだけど、この人は大丈夫そうだ。安心できるというわけではなくても、傷んだ眼差しは私に構っている余裕もなさそうに見えた。
 私とおにいさんは、ぽつりぽつりと当たり障りないことを話した。一瞬恐怖で強烈に覚めた目も、またとくとくと眠たく重くなってきた。それを見取ったおにいさんは、「まだ帰りたくない?」と私の頭をぽんぽんとしてくる。
「帰り……たくない、けど。眠い」
「でも、俺は連れて帰れないしなー」
「一回、電気消えてるか、見に行く。おとうさんとおかあさんが寝てたら、入れるから」
「そう。じゃあ俺、ここで待ってるから見にいっておいで。十分待っても澄音ちゃんが戻ってこなかったら、俺も帰る」
 私は取り落としそうな目でおにいさんを見た。おにいさんは私の肩をとんとたたく。
「気をつけて。何かいたら、さっきみたいにちゃんと悲鳴上げるんだよ」
「……ん、」
 ふらつきそうになりながら立ち上がり、頭を揺すって眠気をはらう。「守ってくれてありがとう」とお礼を言うと、「俺も帰りたくなかっただけだよ」とおにいさんは咲う。
「じゃあまた、って、またなんてないか。はは、ごめん」
「………、夜に行くとこなかったら、ここに来ていい?」
「え」
「毎日じゃないけど。幼なじみのおにいちゃんが泊めてくれたりするけど。やっぱり、どこにも行けないときもあるの」
「……でも、」
「おにいさんも、帰りたくないときここに来たらいいよ。そしたら、また会えるよ」
「また……」
「おにいさんは、私とか嫌かもしれないけど」
「そんなことはないけど。俺、別に何もしてあげられないよ?」
「今、守ってくれたよ」
「守るというか……」
「嫌だったら、」
「嫌じゃないよ、うーん、じゃあ……分かった。俺も、居場所がないときはここに来るよ」
「約束だよ」

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