バニラエッセンス-1

あの初夏の日

 弓弦がパパを殺したのは、あたしがまだ四歳で、五月に入って間もない初夏のことだった。
 あたしは部屋の隅で膝を抱えて、ゆがんだ臭いのお酒を浴びるパパを、伏し目がちに見ていた。ママは最近帰ってきていない。でも、いつもふらっと帰ってくるので、そんなに心配はしていない。
 そんな家庭を壊したのが、弓弦だった。
 そのとき、パパははだかの男の人と女の人が絡み合うDVDを観ていた。そういうDVDを、パパはよく観ている。どこがおもしろいのかな、と壁際のあたしは無造作に脚を伸ばした。
 ビールの空き缶が爪先にあたって、からんと小さな音を立てる。あたしは反射的に身をすくめたけど、パパは気づかず、その変なDVDに見入っていた。
 おととい殴られたときの痣が、軆じゅうでずきずきと泣いている。パパは大した理由もなくあたしを殴る。夜になると、あたりのアパートから子供の泣き声と大人の怒声が散らばるから、それが普通なのだろう。
 ママはパパとは、怒鳴り合いか、そのDVDのようなことをやる。生まれたときからそんな部屋に閉じこめられて育って、あたしは、それが普通の家庭だと思っていた。
 でも、あの日、パパは初めてあたしに優しく触った。一度も切ったことのない髪を撫で、ママのロングTシャツしか着ていなくて剥き出しの白い脚をさすり、お酒臭い息を荒げさせながら、そのぶあつく熱い手で肌に忍びこんできて──
「お前はいい子だから」
 パパの声は低く、瞳があたしの瞳を捕らえている。
「パパの言うことなら、何でも聞けるよな?」
「……いい子、って、ほんと?」
「ああ。いい子だ。だから──」
 パパがあたしのうなじに、顔を伏せたときだった。突然、薄っぺらいドアを乱暴に蹴る音がした。パパははっと顔を上げ、あたしもそちらを見た。何やら話し声がして、こちらの反応を待つまでもなく、ドアは蹴破られて部屋に光が舞いこんだ。
 何人かの少年が土足で踏みこんできた。その少年たちを従えているらしい男が一歩前に出た。鋭い眼光の黒い瞳、その眼光をひそませる黒い前髪、綺麗な頬から顎にかけての線──。
 男はパパの手があたしの太腿にあるのを一瞥すると、瞳を苦くした。
「変わってねえな」
 パパは男を凝視したのち、髭が伸ばしっぱなしの頬に手を移した。
「……弓弦か」
 男は、あたしを殴るときのパパより冷たい目をすると、「やれ」と硬い声で少年たちに命じた。「はい」と声を揃えた少年たちが、素早く群がってきて、あたしからパパを引き離す。
 あたしは、壁際でぽかんとして、パパは抵抗する間もなく殴ったり蹴ったりされはじめた。男はあたしに目をやったあと、暴行に歩み寄って落ち着いた低音の声で言う。
「あんたを殺してくれって依頼が来た。昔の因縁とは思われたくない」
「い、依頼だと、っつ、」
「あの子の母親の男からの依頼だ」
「男──ぐっ」
「お前を一途に想う女なんかいるか。顔だけのあんたと違って、実業家の若い男だよ」
 少年のひとりがパパの腹に膝をねじこんで、びちゃっと何か飛び散った。弓弦とかいう男の陰になってあたしにはよく見えなかったけど、たぶん、胃の中にたまった酒だ。
「パパ……」
 あたしが声をこぼすと、男は振り向いて眉を寄せた。歩み寄って正面にしゃがんだ彼を、あたしはきっと睨みつける。彼に気にした様子はなく、ただ、あたしの頭に手を置いた。
「この痣、あいつにやられたのか」
「だ、だったら何? そんなのより、あんなのやめさせて。パパが死んじゃう」
「ここでは殺さないから安心しろ」
「『ここでは』?」
「……鋭いな。そうだな、残念ながら殺さなきゃいけない」
「そんな、何であんたが──」
「仕事だから仕方ない」
 彼は立ち上がり、「つばさ」と少年──というか、まだ子供のひとりに声をかけた。無表情にパパの頬を蹴りつけていた彼は、こちらに駆け寄ってくる。
「お前はこれ以上関わるな。代わりに、この子を頼む。ミキさんとこに」
「分かりました」
 あたしは、翼と呼ばれた男の子を見上げた。さすがにあたしより年上だろうが、十歳に届いているかも分からない、あどけなさの残る少年だった。
 少しくせっぽい黒髪は短く、眉や瞳、顔の線に男女の差はまだ現れていない。軆の線も同様で、胡散臭くて身をすくめていると、翼は手をさしだしてきた。
「行くぞ」
「えっ」
「あんなの、見ないほうがいい」
「あ、あたしは──」
「早くしろ」
 翼は手を伸ばして、あたしの腕を取ると、無理に立ち上がらせた。痣がずきりと疼く。立たされて初めて、ずっとうずくまっていた軆が、窮屈にかたまっているのに気づいた。翼はあたしの手を引き、あたしはパパのほうを振り返る。
 虫のようにたかる少年たちで、パパは見えなかったけど、呼吸を詰まらせているうめきは聞こえた。男はこちらを向き、翼はうなずいた。あたしは翼に引っ張られて、部屋から引きずり出されて──
 それが、あたしと弓弦の出逢いだった。

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