僕と彼の娘
六月に入ったその日は、弓弦が翼を仕事に連れていくことになったので、久々に紗月くんとふたりで〈POOL〉にいた。
あたしを翼に預けて、紗月くんの執筆はずいぶん進んだようだ。夜、むずかしい顔でPC画面を覗くのが続いていたから、難航しているのかと思っていたけど、「もうすぐ、結音が来て初めて発行できそう」と嬉しいのとほっとしたのが混ざった笑顔で報告してくれた。あたしはバナナといちごのスムージーをぐるぐるかきまぜながら、レイアウト作業に入っているという紗月くんを見つめる。
「紗月くん」
それでも、あたしが声をかけると、手を止めて顔を上げてくれる。あたしはちょっとスムージーをすすった。
「〔こもりうた〕は、あたしにはむずかしい?」
「え」
「読んでみたい」
紗月くんはあたしにまばたきをして、少し哀しそうに微笑むと、キーボードにうつむいた。
「きっと、結音にはくだらないよ」
「え」
「結音には、自分の傷があるから」
「傷」
「でも、いつか読んでくれると嬉しいな。結音に認めてほしい」
「み、認めるとかそんな、えらくないよ、あたし」
「ん……、まあ、今は漢字とか言葉がむずかしいよ。僕の読む前に、いろんな本を読んでごらん」
「紗月くんのだから読みたいんだよ」
「僕の小説なんて、ほんと素人だから。まずは、プロの作品で勉強しなさい」
ちょっとむくれて、紗月くんに上目遣いをする。紗月くんはPC越しにあたしの頭に手を置くと、PCに向き直ろうとして──
そのときだ。PCのかたわらの紗月くんのケータイが鳴った。電話着信のその着うたは、RAG BABYというバンドの曲らしい。紗月くんはケータイを開き、ちょっと驚いた顔で電話に出る。
「芽留」
める? 初めて聞く名前に、何やら綻んでいる紗月くんをじっと見つめる。
「久しぶり。元気だった。──うん。僕は元気。弓弦も。──はは、そっか」
何だか楽しそうで、見たことのない感じの紗月くんだ。誰だろ、と脚をぶらぶらさせて、あたしの知らない紗月くんがおもしろくなくて首をすくめる。
「え、今日? ん、構わないけど。──〔こもりうた〕は執筆は終わってできあがるとこだから、大丈夫だよ。──うん。おいで」
紗月くんはあたしを見て、あたしが首をかしげると、嬉しそうに電話相手に言う。
「芽留に会わせたい子が、今ちょうどいる。──ふふ、内緒。楽しみにしてて。──うん。待ってるよ。じゃあね」
紗月くんは電話を切って、状況を飲みこめないあたしににっこりした。
「今のは友達でね、脚本家やってる子なんだ」
「きゃくほんか……」
「映画の話を作る人」
「えっ、すごい!」
「天海芽留っていって、売れっ子ってわけじゃないけど、根強いファンは持ってる子。その子がね、今からここに来るって」
「えっ」とあたしは一瞬かたまって、それから視線を彷徨わせる。
「あ、あたし──え、あ、邪魔かな」
「ううん。芽留には結音を紹介したい」
「……は、恥ずかしいな。あたし、そんなすごい人、分かんない……」
「普通の子だよ。大丈夫、きっと芽留も結音を気に入ってくれるよ」
「へ、変なこと言ったらごめんね」
「そんな緊張しなくていいよ。のんびりした子だから」
その芽留という人が来るまでには仕上げたいと、紗月くんはレイアウト作業に没頭しはじめた。
あたしはそわそわして、スムージーをときどきすすりながら、どんな人だろ、とどきどきする。映画の話を作る人。映画なんて、あたしには遠すぎる世界だ。そんな世界の人と友達なんて、やっぱり紗月くんはすごい。
紗月くんがついに完成した〔こもりうた〕をUSBに保存した頃、「こんにちはーっ」とやたら明るい声と共に〈POOL〉に誰か入ってきた。紗月くんもあたしもそちらを見て、すると、そこには紗月くんよりちょっと幼い感じの男の人がいて、快活な笑顔をたたえてまっすぐこちらに駆け寄ってきた。
「紗月くん、久しぶりっ」
紗月くんはその人のあっけらかんとした声に苦笑をこらえながら、
「久しぶり」と返す。
「元気そうだね」
「まね。相変わらず締切が怖いけど」
「そういえば、新作書いてるんだよね」
「知ってるの? うん。何か、監督さんじきじきに依頼された奴だから、緊張しちゃってむしろ書けないー。書けないよー」
「芽留なら大丈夫だよ」
「紗月くんはコンスタントに書けるからすごいよねー」
その人がため息をついたとき、ミキさんが「こんにちは」とカウンターから出てきた。「あ」とその人はミキさんを振り返って、「ご無沙汰ですー」と頭を下げる。ミキさんは苦笑して、「ココア?」と首をかたむけて艶々の黒髪を流す。
「はいっ」
「アイスかしら」
「ですね。暑くなってきましたねー」
ミキさんは微笑むとカウンター内に戻り、その人はようやくあたしを見た。あたしはびくりとかたまり、ストローにあてていた手も引っこめてしまう。その人はくるくるした瞳であたしを見つめたあと、紗月くんを向いた。
「どこの子?」
紗月くんは微笑んで、自分の隣をしめしながら、その人にびっくりすることを言う。
「僕と弓弦の子供」
「えっ」という声がその人とあたしで重なって、その人とあたしは顔を合わせる。その人はあたしをまじまじとしたあと、「確かに美少女だけど」と紗月くんの隣に座る。
「まさか、弓弦くんが女の子と──」
「何でそうなるの。親を失くしたこの子を引き取ったんだ」
「あ、養女?」
「紙の上では何にもしてないけどね。三人で暮らしてる」
「ほえー」とその人はあたしを見つめて、何だか畏縮しているあたしににこっとすると、「名前は?」と身を乗り出してくる。
「え、あ……ゆ、結音」
「ユイネちゃん。──由来は?」
その人は紗月くんを向いて、「その名前は実の親につけられたから」と紗月くんはPCを片づけはじめている。
「ふうん。そっか。んっと……あ、僕は芽留っていうんだ。紗月くんの一個下。日本人だよ」
「……見れば分かるけど」
「まあそうだけどね。メルって普通外国の人の名前じゃん」
「そ、そうなの」
「そうなの。で、紗月くんとは十年くらいのつきあいになるかな。僕もね、ゲイなんだ」
「えっ」
あたしの反応に、「あ」と芽留さんは紗月くんを見返る。
「紗月くん、ゲイって内緒にしてた」
「してたら、弓弦と三人で暮らせないよ。弓弦、すぐ触ってくるから」
「嬉しそう」
にやっとした芽留さんに紗月くんはちょっと頬を染め、リュックにPCを押しこむ。
「ふうん。じゃ、僕がゲイってそんなびっくり?」
「え、あ、……ううん。紗月くんと弓弦以外、知らなかったから」
「そっか。って、弓弦くんは呼び捨てなの」
「……弓弦は嫌い」
怪訝そうに眉を寄せた芽留さんに、「ちょっと事情がね」と紗月くんがひと言入れる。芽留さんは紗月くんを見返ったけど、何も追求せず、背中にいたリュックを膝に下ろした。
「何歳?」
「四歳」
「何と。大人びてるねー。その服かわいい」
「あ、紗月くんが選んでくれたの」
「そうなんだ。紗月くんにしては、ちょいプリントとかパンクだね。弓弦くんかと思った」
「いや、アンリに助言もらって」
「あー、アンリね……。って、アンリはこの子知ってるの」
「服のこと訊いたときに、四歳の子を預かることになったとは言った」
「えー、僕だけ知らなかったの」
「芽留、新作いそがしいってアンリが言ってたから」
「アンリの策略か。帰ったら髪引っ張ろう」
そのとき、ミキさんがアイスココアを持ってきた。「ありがとうございますー」と芽留さんは嬉しそうにグラスにストローをさして、「アンリは元気なの」とミキさんは空になっていた紗月くんのミルクティーのカップに手を伸ばす。
アンリって誰、とあたしは話題についていけずにスムージーをすすることになる。
「元気ですよー」
「そう。ねえさんは」
「コズエさんは、こないだ恋人と別れたらしいです」
「ねえさんは相変わらずね」とくすりとして去ろうとしたミキさんに、紗月くんがミルクティーのおかわりを頼む。ミキさんは請け合い、また奥に行ってしまった。
「アンリ、って誰?」
やっと口をはさめたあたしに、「んー」と紗月くんより芽留さんがストローにつけていた口を離す。
「僕の幼なじみだよ」
「そうなんだ」
「結音の服買うときね」と言った紗月くんは、片づけを済ませて自分の前をすっきりさせていた。
「四歳の女の子って、どんなのがいいかなって相談もしたんだよ。女の人だから」
「紗月くんも知ってる人なの」
「うん。友達だよ」
「紗月くんって、友達多いの」
「え、そんなことはないよ。知り合いは〔こもりうた〕やってて多いけど」
「そっか」
「でも、十年以上前から、一番は弓弦くんなんだよねー」
「……もう、揶揄わないでよ」
紗月くんは、にやにやした芽留さんに、困ったような何とも言えない参った顔を向ける。芽留さんは楽しそうにけたけた笑うと、「そだ」と手を打った。
「忘れそうだった。今日、ここに来た理由なんだけど」
「ん、何かあるの」
「うん。あさってね、パパが帰国して家まで来るんだ。またマスコミには黙ってなんだけど」
「お忍び」
「うん。で、六日にはどっか行っちゃう。でね、その前の晩、家で簡単なパーティしようかってなって。紗月くんと弓弦くん、来ない?」
「え、家族のパーティでしょ」
「ママもパパもふたり気に入ってるから。僕が呼びたいなら呼びなさいって」
「芽留は──」
「いいに決まってんじゃん。弓弦くんとか、お仕事大変かな」
「どうだろ。トモキさんに会えるなら、無理やり時間作るかも」
「弓弦くんは、ほんとパパ好きだよねー」
「ふふ。弓弦は今、仕事中なんだけど……メールならいいかな。早めに訊いてみる」
紗月くんはケータイを開き、芽留さんはあたしに顔を向けた。
「結音ちゃんもおいでよ」
「えっ」
「紗月くんと弓弦くんの娘なんて、ママ喜ぶと思うなー。パパにもおみやげ頼んでおいてみる」
「芽留さん、は、迷惑じゃない?」
「何でー? 紗月くんたちの娘なんて、かわいいに決まってるよ」
にこにこした芽留さんに、弓弦の娘なのは嫌だけど、と思ったけど、何も言わずにこくんとした。芽留さんは咲って、あたしの頭をくしゃっと撫でた。
悪い人じゃなさそうだな、と判断したあたしは「楽しみ」と笑みを作ってみる。すると、芽留さんは「そっかそっか」と満足そうにうなずいて、一気にココアを飲みほした。
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