バニラエッセンス-11

街の外へ

 そんなわけで、六月五日の夜、紗月くんと弓弦とあたしは揃って芽留さんの家を訪ねることになった。
 弓弦は仕事をほぼ翼に押しつけたらしい。あたしは昨日、翼と手をつないで街を歩いたけど、翼は深刻そうなため息ばかりついていた。「弓弦にできるなら翼にもできるよ」と言うと、「そんな簡単じゃねえんだよ」と翼は本気で悩んでいた。
 まだ夕暮れ時で、空が青を溶かして薄いピンク色になりかけていた。梅雨が近いせいか、ちょっと蒸し暑くて、あたしたちはみんな半袖だ。
 芽留さんの家は、けっこう遠い街の外にあるそうで、街を出るのが初めてのあたしは、ちょっともやもやして紗月くんの手を握りしめていた。「仕事任せたら、翼が茫然としてたなー」と弓弦は早足の人たちが雑然とする駅のホームでぼやく。
「弓弦、最近翼くんに頼りすぎてない?」
「そうかー?」
「まだ八歳なんだから」
「あんまり八歳とか思ってない」
「教えてあげてから、仕事任せなよ」
「翼が翼なりに処理する方法が大事なんだ。まあ、助言はする。たまにケータイ鳴ったらごめんな」
 紗月くんは首を振って、そのとき電車のアナウンスが流れた。「はぐれないようにね」と紗月くんはあたしの手をぎゅっとして、あたしはうなずく。
 乗った電車は予想以上に混んでいた。おじさん、おばさん、おねえさん、おにいさん──知らないにおいが混ざり合い、紗月くんの脚にしがみつきながら、気分が悪くなってきた。
 みんなケータイをいじっている。どこからかしゃかしゃかと音楽のもれる音がする。気持ち悪い、と唇を噛んで、紗月くんの腰に顔を押しつけた。紗月くんは空いているほうの手であたしの頭を綏撫し、髪を梳くその感触に集中して、あたしは目をつむった。
 乗り継いだ電車がやっと終わると、改札に芽留さんのすがたがあった。「結音ちゃん、顔色悪いね」と真っ先に心配してくれて、「電車がつらかったみたいで」と紗月くんがあたしの頭をぽんぽんとする。「結音はあの街を出たことなかったからな」と弓弦は肩をすくめ、「そっかー」と芽留さんはあたしの目の高さにしゃがみこみ、「頑張ったね」と微笑みかけた。
 あたしはその目を見つめ返し、こっくりとすると、「早く芽留さんのパパとママに会いたい」と言った。その言葉に「よしっ」と立ち上がった芽留さんは、「車で迎えにきてるから」と芽留さんの運転で家に向かった。
 すっかり暗くなった中、車を走らせて着いた芽留さんの家は、見たこともない大きな一軒家だった。周りの家も、暗目にも豪華だ。あたしなんか、と躊躇いそうになったけど、芽留さんは軽快に階段をのぼっていくし、弓弦もそれに続くし、「行こう」と紗月くんにはうながされるし、おずおずとあたしは芽留さんの家に踏みこんだ。
「まあ、いらっしゃい」
 階段を登った先にある頑丈そうなドアを開けると、そこは広い玄関だった。さっぱり掃除されていて、靴がいくつも並んでいても、ぜんぜん邪魔になっていない。白い壁も、落ちついた木目のフローリングも、落ち着いていてもお金がかかっているのが分かる。急に自分が薄汚れている気がして、無性に泣きそうになっていると、そう言いながら女の人が駆けつけてきた。
 すごく綺麗な女の人だった。ミキさんも美人だけど、この人はかわいいといった感じだ。いくつぐらいだろう。ふんわりとウェーヴのかかった髪、白い肌、そういえば、大きくて緩やかな瞳が芽留さんに似ている。
 芽留さんのママかな、と思っていると、スニーカーを脱ぎながら芽留さんは「ただいま」と答えた。
「帰ってきたのよく分かったね」
「車の音が聞こえたもの」
「あ、そっか」
「紗月くん、弓弦くんもこんばんは。来てくれて嬉しいわ」
 その人はふたりににっこりして、その笑顔には妙に惹きつけられる魅力がある。
「よかったんですか、僕たちが来ても」
「もちろんよ」
「せっかく、久しぶりに家族揃ったんですよね」
「昨日たっぷり三人で過ごしたわ。トモキもふたりに会いたいって言ってたし──」
 その人の目が、ようやくあたしに向けられる。あたしが紗月くんの後ろに隠れようとすると、その人はまたにっこりして、「初めまして」とあたしの目の高さににしゃがみこんだ。
「は、初め……まして」
「ふたりに引き取られた子ですってね。会ってみたかったから、来てくれてすごく嬉しいわ。ありがとう」
「え、あ……」
 何と答えればいいのか分からず、視線を彷徨わせてしまう。『ありがとう』なんて慣れていない。「結音」と紗月くんに呼ばれても、顔を上げられない。弓弦がため息をついて、「嫌われちゃったかしら」とその人が笑うと、「ただの人見知りですよ」と弓弦もスニーカーを脱いだ。
「芽留、トモキさんは」
「リビングだと思うよー」
「俺、先行ってる」
「弓弦」と紗月くんがちょっと語気を強めると、「俺が口出すのは、そいつが気に食わないだろ」と弓弦はあたしを一瞥する。
「弓弦くん冷たーい」
「嫌われてますからー」
「だからって投げだすのは、親のすることじゃないわよ、弓弦くん」
 女の人は立ち上がって、弓弦の額をはじいた。「痛てっ」と弓弦は額を抑え、「マジでされた」と本気で痛いらしいことをつぶやく。女の人は、もう一度あたしを向いて、「お仕置きはしておいたから」と微笑んだ。
 あたしはぱたぱたとまばたきをしたあと、首をかたむけ、弓弦を見て、紗月くんを見上げた。紗月くんは微笑して、「大丈夫だよ」と言った。
「この人はマリカさん。芽留のおかあさんだよ」
「おかあ、さん」
「元は女優さんなんだ」
「えっ!」
 思わず大きな声を出してしまうと、みんな突然のあたしの反応にぎょっとした。でも、あたしもぎょっとしていた。
 女優。女優って。女優、は、その、つまり──
「え、えーぶい、ですか……」
 マリカさんはきょとんとあたしを見た。いや、今回もみんなきょとんとした。一番に気がついたのは弓弦で、「バカかっ」とあたしの頭を小突いた。
「映画……つーか、ドラマとかに出るほうだよ」
「ど、ドラマなんて、そんなに観たことないもん」
「どっちみち、お前が生まれた頃には引退してたよ。──すみません、マリカさん」
「いいのよ。それにしても、女優だなんて。もう何十年も前の話なのよ」
 マリカさんがそう言ってくすくす笑っていると、「何だー?」という大きな男の人の声がした。あたしは反射的にこわばる。
 廊下にあるドアのひとつが開き、褐色の髪に浅黒い肌、たくましい軆つきの男の人が現れた。何か、島国の人みたいだ。
「パパ」
 家に上がっていた芽留さんがそう言って、嬉しそうにその人に駆け寄る。
 パパ。この人が、芽留さんのパパ。あたしもう一回その人を見た。そういえば、口元や奔放な雰囲気が似ているかもしれない。

第十二章へ

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