バニラエッセンス-12

穏やかな家族

「お、その子がうわさのふたりのお嬢さんか」
「うわさって。パパ」
「うわさじゃないか。ほう。なるほど。確かに将来有望だ」
 値踏みされるように観察されて眉を寄せると、「もうっ」とマリカさんが口を挟んだ。
「女の子に失礼よ。そんなじろじろと」
「ん、そうか? あ、妬いてるのか」
「妬いてません。トモキがこんな小さい子を眺めてたら、ロリコンもいいところだわ」
「ロリコンも芸術だぞ」
「上映禁止よ」
「一度でいいから、上映禁止になるような映画作りてえなー。犯罪レベルの作品なんて、そのへんの賞よりずっと価値あるわ」
「まったく。えーっと、お名前……紗月くんに訊いたほうがいいかしら」
「あ、」
「ゆ、結音っ」
 紗月くんをさえぎって、あたしが顔を真っ赤にさせたまま叫ぶと、マリカさんも紗月くんもあたしを見た。あたしは紗月くんとつなぐ手をぎゅっと握る。
「結音、って、いいます。えと、その、よろしくお願い、します」
 そう言ってあたしが再びうつむくと、何とも言えない、緩い空気が流れた。ついで、みんなの笑い声が重なる。紗月くんの手があたしの頭を撫でて、あたしがそろそろと顔を仰がせると、紗月くんは笑顔をくれた。
「よくできたね、結音」
「……ん」
「マリカさん、トモキさん、この子もたくさんつらいことがあったんです。だから、多少は見逃してあげてください」
「ふふ、紗月くんはしっかりした親ね」
「ん、何だ、弓弦くんはしっかりしてないのか。お前、情けないなあ」
 口ではきついことを言っているけれど、トモキさんは弓弦の頭をくしゃくしゃと撫でている。弓弦は参った様子で、されるがままだ。
 それを見ていると、つい笑ってしまった。そして、あたしが笑ったことで、蒸発するようにふわりと空気が軽くなる。「じゃあ、中入ろっ」と芽留さんがまとめてくれて、あたしたちはトモキさんが開けっぱなしにしていたドアから、リビングに通された。
 そこには、巨大なテレビやふかふかのソファ、広々とした空間が広がっていた。あたしには信じがたいリビングで、思わず茫然とする。
 こんな家、本当にあったのか。紗月くんと弓弦の部屋にもびっくりしたけど、それ以上だ。あたしが前、パパと暮らしていたアパートなんて、まるでボロ雑巾ではないか。
「お料理はこっちよ。ごめんなさい、コズエとアンリちゃんが来れなくなったからちょっと多いの」
 マリカさんはそう言いながら、お腹の虫を呼ぶ匂いをただよわせるダイニングルームへとあたしたちを案内する。
「えー、やっぱアンリたち来ないの」
「コズエったら、アンリちゃんが成人した途端、失恋のたびにお酒につきあわせるから」
「つか、失恋中に、紗月くんと弓弦くん見るの嫌だろ」
「えっ、な、何で」
 声を合わせるふたりに、席に着きながらトモキさんは豪快に哄笑する。
「そりゃあ、お前らはいつもラブラブだからな」
「パパ、『ラブラブ』は死語だよ」
「死ぬ言葉なんてないさ。そんなこと言ってたら、時代劇なんて死語だらけじゃないか」
「えー、それはー」
「何だよ。言ってみろよ」
「うー」
「言ってみろでござる」
「紗月くん、弓弦くん、結音ちゃん、このふたりは気にせずに食べてちょうだい」
 そんなわけで、適当に椅子に座り、あたしたちはマリカさんが作ったテーブルを彩る夕食を食べはじめた。
 野菜の肉巻き、ハンバーグ、白いごはん、ポテトサラダにコンソメスープ──「ロールケーキもあるのよねえ」とマリカさんは苦笑する。ほとんど食べたことがないものばかりで、あたしにしてみたら、見て、嗅いでいるだけでお腹いっぱいになるご馳走だった。
 頬張るとにじむハンバーグの肉汁に感動しつつ、あたしはにぎやかな食卓を眺めた。パパ。ママ。あたしにもいたのに。あのふたりとこんな食卓を囲んだことはなかった。
 この雰囲気がよく分からない。パパは子供をたたくんじゃないの? ママは構ってくれないんじゃないの? どうして、トモキさんは芽留さんと楽しそうに話してるの? 何で、マリカさんはそれを幸せそうに微笑んで見ているの?
 疑問がどんどんあふれて、虫歯みたいに心を蝕んで、その朽ちた疑問を癒す答えがない。自分が“家庭”と思ってきたものがどんどん腐ってくる。どうして、“家庭”なのに、ここはこんなに温かいの──
 帰り際だった。玄関先まで見送るトモキさんが、「そうだ!」と何か思い出した様子で、説明もなしに階段を登っていってしまった。あたしたちは顔を合わせる。トモキさんはすぐ戻ってきて、何やら茶色の紙ぶくろを持っている。「みやげな」とさしだされた紗月くんと弓弦は、顔を見合わせたあと、遠慮したところで意味はないと思ったのか受け取った。
 トモキさん同様、見送るのは玄関までのマリカさんは、ふとあたしの名前を呼んだ。手招きされてとことこ近づくと、いきなりぎゅっとされた。予想外の行動に固まったあたしに、「紗月くんと弓弦くんに、幸せにしてもらってね」と言われた。マリカさんの体温は優しかった。あたしがとりあえずうなずくと、マリカさんはほっとした様子で軆を放してくれた。
「じゃあ、またね」
 芽留さんは車で駅まで送ってくれて、あたしたちを車からおろすと、窓を開けてそう言った。「たまにはメールして」と紗月くんは咲い、「アンリにもよろしくな」と弓弦は言う。ふたりにうなずいた芽留さんに、あたしは迷ったあと、小さく手を振った。ひまわりみたいに笑った芽留さんは、窓を閉めて車を発進させる。
 その車を見送ってから、また電車を乗り継いで、あたしたちは天鈴町に帰ってきた。
 部屋のリビングで、紗月くんはお茶、弓弦はコーヒー、あたしはぶどうジュースを飲みながらひと息ついた。一番香ばしいコーヒーを飲み終えた弓弦は、カップをテーブルに置いて、紗月くんの肩にもたれる。
「どうしたの」と紗月くんがしばたくと、「やっぱ、芽留の両親はかっこいいよなあ」と感慨深そうにつぶやいた。その言葉の裏が読めるのか、紗月くんは瞳を哀しそうにさせて、弓弦の頭を撫でる。あたしはかぐわしいぶどうの香りをストローで吸いながら、このふたりも、と思う。
 このふたりも、どうしてそんなに穏やかなのだろう。紗月くんは、あたしを自分と弓弦の子供だと言った。でも、このふたりはあたしのパパとママとぜんぜん違う。弓弦はパパを殺したけど、あたしを殴ってきたりとか、そういうことはしない。紗月くんは、いつもあたしを心配して、頭を撫でてくれる。
 紗月くんと弓弦の空気は、芽留さんとマリカさんとトモキさんの空気と、どこかしら通じている。何が通じているのだろう。そして、その何かが通じていなかったから、あたしの家はこんなふうに穏やかではなかったのだろうか。
 しばらく休むと、「トモキさんのみやげ見ようぜ」と弓弦が例の紙ぶくろを取り出した。芽留さんが頼むとは言っていたけれど、本当にあたしのものもあった。
 ネックレスだ。一センチくらいの金属でできた本がついていて、開くこともできる。開くと、右には緻密な絵、左には読めない外国語が書いてあった。
 ちっちゃい絵本だ、とあたしが感動するとなりで、紗月くんも弓弦もトモキさんのおみやげを喜んでいた。

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