つながる真実
目が覚めたとき、死んでしまったんだと思った。
でも、失ったはずの指先を、温かい手が握りしめている。あたしは震えながら睫毛を押し上げ、暗がりの中、その温かい手があたしの手をしっかり包んでいるのを見た。
ゆっくり頭を動かすと、こめかみを針みたいな痛みが突く。
「結音?」
慌てたような声がしたあと、そっと後頭部に手を添えられた。あたしは顔を上げた。
「気がついた?」
目を凝らし、吊り目なのに眉の描きで気弱なくらい優しい目と出逢う。あたしは小さく息を吐き、その人の名前を呼んだ。
「紗月……くん」
あたしの唇がそうこぼした途端、紗月くんの瞳から雫があふれだした。痛いぐらいあたしの手をつかみ、頭を引き寄せて自分の胸に抱きしめる。
「よかったっ……」
絞り出す声に、あたしは紗月くんの腕の中で何度かまばたきをして、頭をはっきりさせた。そして、ここが紗月くんと弓弦の部屋で、いつもの寝室、いつものベッドだと気づく。
あたしの額に、ぽたぽたと紗月くんの涙がしたたった。それは顔を伝って、あたしの口元に塩からく響く。
「紗月くん……」
「……え、あ、ごめん。痛かった?」
紗月くんはすぐ軆を離し、手もやわらげる。あたしはどんな顔をすればいいのか、ただ紗月くんを見つめる。
紗月くんは涙をぬぐって息をつくと、そっと、星の光くらいささやかに微笑んだ。
「翼くんが助けてくれたんだよ」
「……つばさ」
「それでも、弓弦に怒られてた」
あたしはからからで唾もないのに、口の中を飲みこんだ。
「つ……翼にね」
「ん」
「翼にね、言われたの」
「……うん」
「パパは、あたしをレイプしようとしたって」
紗月くんの瞳は静かで、「聞いたよ」とも言った。
「それで弓弦も怒ったんだ」
「………、ほんと、なの?」
紗月くんは睫毛を少し伏せて、「たぶんね」とつぶやいた。あたしはまた力を失って、ベッドに沈んだ。
しばらく黙然としたあと、不意に紗月くんが押し殺した声を出した。
「僕もね」
あたしはまぶたを上げ、紗月くんを向いた。
「されてたんだ」
「え……」
「レイプ」
あたしは目を開く。紗月くんは自嘲気味に嗤った。
「自分が嫌いだった。男にあんなことされてるのに、どうして男にどきどきするんだろうって」
「………」
「弓弦への気持ちが許せなかった。そんなの、全部、あの人たちのほうが正しかったんだって認めるみたいで。僕は男が好きだから、男に犯されて当然なんだって」
紗月くんはうつむき、震える前髪で目を隠す。あたしはぴくんと指を動かし、それに気づいた紗月くんは、あたしの手を両手で包んで、泣きそうな笑顔をした。
「弓弦が、僕を変えてくれた。僕を愛してくれた。愛させてくれた。そばにいて、支えて、受け入れて。ずっと見守ってきてくれた。今の僕は、全部、弓弦のおかげなんだ」
あたしは紗月くんをじっと見つめた。紗月くんのもろい笑顔を、透明な雫がひと筋たどった。
パパはいつもあたしを殴っていた。なのに、あのときはそっと話しかけてきた。いい子なら、何でも言うことを聞く。パパはあたしを犯そうとしていた。そのとき、弓弦が暗い部屋のドアを蹴破って──
「弓弦は……あたしを、」
そのときだった。急に部屋に光が射しこんだ。あたしはびくっとそちらを向いた。紗月くんも振り返った。
視線の先の寝室の入口には、弓弦が立っていた。
「そんな恩着せがましいこと思ってねえよ」
弓弦の口調は低く、感情が読み取れなかった。
「全部、俺の自己満足だ」
「弓弦、」
「いいんだ」と弓弦は立ち上がりかけた紗月くんを制す。
「話さなきゃいけない」
弓弦はあたしを見つめた。弓弦の瞳は鋭い。でも、どんなに深い傷口より、ひりひりしていた。
「聞くか」
あたしはとまどって紗月くんを見た。紗月くんはお願いするような目をしていた──聞いてあげて。
正直怖かったけれど、あたしは弓弦を向き、こくんとした。弓弦はため息で間を置き、しばらく揺蕩ったあと、ゆっくり口火を切った。
「俺には、妹がいてな」
「いも……うと」
「いつつで死んだ。殺したのは、父親だった」
「えっ」
「俺の軆も、殴られて蹴られてぼろぼろだったのに、死刑じゃなかった。母親はとっくに家を捨ててた。親戚に引き取られたガキの頃は、父親を殺すのが生きてる理由だった。でも、時間が経って、紗月にも出逢って──もちろん父親のことは憎いけどな、それに囚われることはなくなっていった。だけど」
たぶん無意識に、紗月くんがあたしの手をぎゅっとする。あたしも、息を殺して弓弦の話に耳を澄ます。
「父親が釈放された」
まばたきもできずにその言葉に息を飲む。弓弦は少し口をつぐんだけど、一気に吐き出した。
「顔だけはいい奴でな、すぐ女に巣食いはじめた。堕ろす金もなくて、また子供を持った。その子も殴られて蹴られて、母親に見捨てられそうになってた。その母親は俺の母親よりひどかったかもな。客だった金持ちと平和に結婚するために、俺の父親とその娘を殺すことにしたんだ。だから殺し屋を斡旋した。その斡旋屋が俺だ」
こんなに冷えた部屋なのに、陽炎のように空気がよろよろとふらついている。そんな吐きそうな空気を断ちきるため、弓弦ははっきり言った。
「俺は、殺し屋を雇わずに、俺の手で、お前の父親を殺すことにした」
弓弦の眼が、前髪の奥からあたしを射抜いた。あたしは本当に的になってしまったように、射抜かれたまま動けなかった。
弓弦が、あたしのパパを殺すことにした。
弓弦は、自分の手でパパを殺すことにした。
どういうこと。
どういう……こと。
それは、つまり、弓弦は……
「弓弦……は、あたしの、おにいちゃん……なの?」
あたしの震える声に、弓弦はようやくうつむいた。すると、紗月くんがあたしの手を置いて立ち上がり、弓弦に駆け寄った。弓弦は紗月くんを強く抱きしめ、まるで迷子が親に見つけてもらったように、それでようやく瞳を濡らしはじめる。
「……そうだよ」
その声はわなないていて、聞き取りにくかったけど、あたしははっきり聞いた。
「俺はとうさんを殺した。お前のとうさんを殺した。またあいつに妹を傷つけられたくなかった!」
そう言い切った瞬間、弓弦は嗚咽をこらえられない勢いで泣き出した。そんな弓弦にしがみつかれる紗月くんは、つらそうな表情をたたえつつも弓弦の頭をなだらかに撫でる。
でも、不意にあたしのほうを振り向くと、紗月くんは本当に優しく微笑みかけてきた。
「おいで、結音」
その言葉に、あたしはベッドを飛び降りていた。そして、ぶつかるようにふたりの元に走った。紗月くんが弓弦とのあいだにあたしを招き入れる。弓弦はぎゅっとあたしを抱きしめた。あたしも弓弦の体温にきつく抱きついた。
温かかった。ふたりの愛情が、ずたずただった心に輸血されていく。そして息づいたみたいに、すごく温かかった。
いつからだろう。あたしの両目はあとからあとから水をこぼしていた。初めて、生まれて初めて、今までどんなことがあってもこの目は乾いていたのに……あたしは、泣いていた。
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