バニラエッセンス-2

甘くておいしい

 薄暗いあの部屋から出たことのなかったあたしには、やたらまばゆい喫茶店で、あたしは泥水みたいな色なのに甘い香りの飲み物と向かい合っていた。
 隣には例の翼がいて、席をすりぬけて逃げ出すことはできない。正面には二十代なかばくらいの、吊り目を眉の曲線でやわらげている男の人がいる。あたしの前にその飲み物を置いていった、しっとりした美人が去ると、それを見送った男の人が、あたしに氷の沈んだ泥水を勧めた。
「お金は気にしなくていいから」
「……何これ。泥?」
「ココアっていう飲み物だよ。甘いのは嫌い?」
「………、」
 あたしは小さな両手に余るグラスを持ち上げる。翼は面倒そうにそれを制すると、女の人が置いていった棒から筒を取りだして、グラスに刺した。
「何」
「ストローも知らないのかよ」
「翼くん」と男の人が翼を柔らかく止める。
「それで吸ったらいいんだよ。グラス、重いでしょ」
「す、ストローぐらい知ってるよっ。粉の煙を吸うときに使う奴でしょ。こんなん、」
「いいから飲んで静かにしてろ。──紗月さん、こいつ、弓弦さんはここに連れてきておけって言ってましたけど、どうするんですか」
「うん──。それより、弓弦、落ち着いてた?」
「はい」
「そっか……」
 あたしはストローを曲げてココアをすすり、その甘さにびっくりした。おいしい。そういえば、ここ数日何も食べず飲まずだった。
 一気に飲みほしてしまったあたしに、サヅキと呼ばれた男の人は微笑んで、「お腹は空いてない?」と訊いてくる。あたしは迷ったあと、「ちょっと」と素直に言った。男の人はテーブルのかたわらの薄い本を取ると、いろんな食べ物の写真が載ったそれを開いて、さしだした。
「好きなもの頼んでいいよ」
「……でも」
「でも?」
「………、じゃあ、これ」
 黄色の包みに赤い落書きが施された食べ物の写真を指さすと、男の人は振り返って、カウンターの中にいたさっきの美人に「オムライスお願いします」と言った。あたしがじっとそれを見つめていると、男の人は優しく微笑む。
「何?」
「………、紗月くんっていうの」
「僕? うん、そうだよ」
「……あんたは翼?」
「俺は呼び捨てかよ」
「さっきの、あの、パパを殺すって言った奴は何なの」
 紗月くんと翼はわずかに表情を硬くし、顔を合わせた。「本気じゃないよね?」とあたしはテーブルに腕を乗せて身を乗り出す。
「だって、殺したら警察──」
「でかい声で話すな。だいたい、サツなんてこの街で動くかよ」
「弓弦は君のこと──そういえば、君の名前は?」
「ママが『結音ゆいね』って呼んでるときがあった」
「ユイネ? そっか。じゃあ、結音──弓弦は、君を助けたいって言ってた」
「助ける?」
「あの家で、結音は幸せだった? ……痣とか傷とか、いっぱいだね」
「だって、これが普通でしょ?」
 紗月くんは翼を見た。翼は息をつくと、「俺も昔はそう思ってたけど」とカップに口をつけた。
「お前の家は普通じゃない。完全に壊れてる」
「壊れ……てる」
「お前、家庭ってもん分かってるか? 普通はな、父親はガキの前でポルノ観たりしないし、殴ってきたりもしない。お前にうまいもん食わせるために働く。で、母親はお前くらいの歳くらいまでなら家でそばにいて、世話してくれる」
 あたしは眉を寄せて、かたくなな表情の翼を見つめ、「そんなの」と心許なくつぶやく。
「お話の中だけでしょ」
 紗月くんと翼を交互に見た。紗月くんはとても哀しそうな顔をして、翼はうんざりといった様子で頬杖をついた。
「そう思ってたいのは分かるけど、今んとこ、まだ、お前の家のほうがおかしい」
「だって、近くの家とかから聞こえるのも、そんなのばっかりだったよ。そんな、本の中みたいなのあるわけないじゃん」
「だから、この街自体がおかしいんだよ。俺もこの街で生まれたから、お前と同じように思ってた時期があった。違うんだよ。外は外で腐ってるけどな」
 あたしは翼を見上げたけれど、目を合わせない彼にちょっとうつむく。
「……でも」
 震える声が、言葉をぽろぽろと零す。
「パパ、だもん。あたしの、パパだもん。何で、殺すとかなの。返してよ。あたしのパパ返して。守りにいかなきゃ、パパ、ほんとに死んじゃう──」
「うざってえガキだな。お前のママが、殺してくれって弓弦さんに頼んだんだよ」
「翼くん、」
「言わせてください。──もうお前のママでもないけどな、その女。ほかの男と結婚して、お前の言う本の中みたいな家庭を持とうとしてるんだ」
「ママは帰ってくるよ。いつもそうだもん。そのうち、」
「帰ってこない。帰りたくないから、パパを消すことにしたんだよ。ほんとは──」
 そのとき、自動ドアが開く音がしたのに「いらっしゃいませ」の声がかぶらなかった。振り返ってみて、あたしは軆をこわばらせる。
「弓弦」
 紗月くんに名前を呼ばれ、弓弦はさっきとずいぶん印象の違う優しい笑みを見せた。子分は連れていなくて、ひとりでこのテーブルに歩み寄ってくる。あたしに目を向けたあと、無言で紗月くんの隣に軆をすべりこませた。
「弓弦さん、あいつは」
 翼の真剣な顔に、弓弦はうなずく。あたしはその意味にココアの甘みも忘れて割りこんだ。
「待って。待ってよ。何それ」
「弓弦さん、こいつ、そうとう変わってますよ」
「みたいだな」
「パパはどこ? 生きてるよね。会えるよね」
「さあな。今頃、ヤク中の死体に混ざってんじゃないか」
 突然、魔法が切れたみたいにほうけた。死体に、混ざって──
「殺し、たの」
 そう絞り出すと、弓弦はウェイトレスの置いていった水を飲んだ。
「俺はリンチの斡旋をしただけだ」
「でもあんたが止めれば、」
「それが俺の仕事なんだよ」
「そんな、の……何で? 返してよ、あたしのパパ返して! 何であんたなんかにっ」
「お前、自分を殴る蹴るした奴と暮らしたいのか?」
「だから、そんなの普通でしょ」
「普通じゃねえよ」
「………、普通だもん。パパのこと好きだもん。たたかれても、そんなの、あたしだけじゃないから平気だったしっ……」
 弓弦がため息をついたとき、さっきの美人がオムライスとやらを持ってきた。香ばしい鮮やかな黄色に、赤い落書きが映えている。
 泣きそうなのを唇を噛んでこらえていたあたしは、スプーンを手に取ると、ヤケみたいな気分でそれを食べはじめた。黄色いのはたまごみたいだ。たまごの中に、オレンジ色のごはんがつまっている。
 でも、きっと今まで食べた中で一番おいしいはずのほかほかのオムライスにも、心が麻痺して味覚がはっきり働かなかった。
「弓弦さん」
 翼がストローの入っていた紙ぶくろをいじりながら、弓弦に首をかたむける。
「女の依頼通りなら、こいつ──」
「まあ、そうなんだけどな。紗月とちょっと話し合って、俺のとこで面倒見ようかなって」
「本気ですか」
「本気だよ。な、紗月」
「うん。だって、こんな、何にも悪くない小さい子……」
 三人の視線が集中して、あたしは顔を上げる。
 紗月くんが微笑んで、「ケチャップついてるよ」とあたしの口元に触れた。この人は、何となく、怖くなさそうだ。おとなしく口元をすくってもらうと、
「紗月には懐いたみたいだな」と弓弦は苦笑して、翼は肩をすくめる。
「じゃあ、紗月。こいつも紗月が安心みたいだし、頼めるか?」
「弓弦は仕事?」
「後処理みたいなもんだな。朝には帰るよ」
 弓弦は紗月くんを軽く抱き寄せると、こめかみに口づけた。え、と思っていると、「翼は来い」と弓弦は立ち上がった。「はい」と翼は機敏に立ち上がりかけ、一度あたしをかえりみると、「紗月さんの言うこと聞けよ」と言った。
 あたしはそっぽをして、オムライスを今度こそ味わって食べる。たまごがとろとろとごはんに絡みついておいしい。

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