バニラエッセンス-3

新しい家

 ふたりが店を出ていくと、あたしは紗月くんと顔を合わせた。
「あの……」
「ん」
「さっき、弓弦にちゅってされてたね」
「え、ああ──人前だと恥ずかしいって言ってるのにね」
「あんなのが、好きなの」
「うん。それに、弓弦はすごく優しいよ。仕事では厳しくてもね」
「……ふうん」
「それより、僕たちと一緒にってことになったけど、結音はそれでいい?」
「………、パパがいないなら、行くとこなんかないもん」
 紗月くんはあたしを見つめたあと、腕を伸ばしてそっと頭を撫でてくれた。あたしは紗月くんの目を見て、誰かの目をきちんと見たのは初めてだと気づいた。紗月くんの目は温かくて、そんな瞳を持つ人も初めて見た。
「紗月くん、の部屋に行くの?」
「ん、まあ。というか、家賃はらってるのは弓弦だけど」
「一緒に暮らしてるの?」
「うん。もう十年以上になる」
「紗月くんは何歳なの」
「二十六だよ。弓弦は二十八で、翼くんは八歳」
「……八歳」
 紗月くんたちと較べると、あたしと変わんないじゃん、と思った。紗月くんは笑いを噛むと、「翼くんはね」と話を引き継ぐ。
「五歳ぐらいのときに家の外を知って、弓弦に使いっ走りでいいから子分にしてくださいって頼みこんだんだ。でも、弓弦は特定の部下は持たないってずっと断ってた」
「あたしの部屋に来たとき、チンピラと一緒だったよ」
「たぶん、どこかのチームを雇ったんじゃないかな。僕は、弓弦の仕事をよく知ってるわけじゃないけど。翼くんの熱心さに、弓弦も折れてね。今では、けっこう頼りにしてるみたい」
「そう、なんだ」
「結音はいくつなの?」
「ん、四歳」
「四歳か。すごいね、僕たちと対等に話をできるって」
「翼には、何にも知らないみたいに言われた」
「翼くんもいろいろあった子だから。ぶっきらぼうになっちゃうだけで、すごくいい子だよ」
「ふうん」とオムライスを口にふくむ。熱もいい具合に蒸発していて、あたしは一気にオムライスを片づけてしまった。
 それを見取った紗月くんは、「じゃあ、行こうか」とかたわらにあったリュックを手に取った。あたしも席を降りて、カウンター内にいる女の人に挨拶する紗月くんの隣に近づく。
 紗月くんはあたしを見下ろすと微笑んで、翼とは違って、優しく手をつないでくれた。そうして、あたしは紗月くんと一緒にその喫茶店をあとにした。
 外はまださわやかな青空が明るく、人通りも死んでいた。たまにすれちがう人は、薬で脱力していたパパのようにだるそうだ。雑音も風がさらってしまって、その風が、ちょっと夏を帯びた匂いの空気に涼しい。切ったことのない髪がさらさらなびく。
「おうちって、遠いの?」
 つないだ手で、紗月くんと体温が同化していく。顔を仰がせてそう問うと、「近いよ」と紗月くんはやっぱり瞳を見て言う。
「去年、引っ越したばっかりの部屋なんだ。その前は、出逢った頃からずっと住んでる部屋だった。そこはちょっと距離あったかな」
「ふうん。何か、紗月くんと弓弦ってテレビみたいだね」
「えっ」
「あたしのパパとママは、紗月くんたちみたいに仲良くなかったし。近所もそんな家ばっかだった。だから、紗月くんと弓弦はテレビみたい」
 紗月くんはあたしの瞳にとまどいを混ぜて微笑むと、「じゃあ」と正面をむいた。
「結音も、今日からテレビの中のひとりだよ。もう安心していいんだ」
 あたしは紗月くんを見つめる。安心。よく意味が分からなかったけれど、紗月くんと弓弦の生活に混ざるらしいのは本当のようで、こくんとした。
 すぐ着いたマンションに、あたしはぽかんと突っ立ってしまった。それは、白と黒できっちりした印象の、高い高い、ぱっと見ただけでは何階建てなのか分からないマンションだった。
 周りも落ち着いたマンションやビルで、これまであたしが暮らしていた部屋に踏みこんできていた物音なんてない。空気もぴんとしていて、つないだ手をぎゅっと握ってしまうと、ガラスのドアに続く階段をのぼろうとしていた紗月くんは足を止めた。
「どうかした?」
 あたしは顔を仰がせ、青空の逆光の中の紗月くんに瞳を揺らす。
「ここが、おうちなの」
「そうだよ」
「ま、ママが言ってた。この街は、ようおうと、あやゆきと、むげんがあるって」
「……そっ、か。ここは、まだ陽桜だよ。でも、夢銀に近いから、慣れないとちょっと雰囲気怖いかな」
「ん……」
「だけど、大丈夫だよ。僕たちには弓弦がいる」
「………、」
 あんな奴、と思っても飲みこんで、あたしは紗月くんに続いた。
 階段は磨かれたように艶めく石で、紗月くんはドアのかたわらのインターホンみたいなものに何か打ちこむ。すると、ガラスのドアが音もなく左右に開いた。
 マンションに入ると、飲み物に限らない自販機が並んでいて、テラスみたいに白いテーブルと椅子がいくつか置いてあった。けれど、この街のこの時間帯だし、誰もいない。
 外の階段と同じ石の床が、歩くときゅっと音を立て、それで気まずくなるくらい静まり返っている。心なしか、外より涼しい。二台並ぶエレベーターの前に着くと、紗月くんは『△』のボタンを押した。
「静か、だね」
 思わず声をひそめると、紗月くんはくすりとして「僕も慣れるまで怖かった」と柔らかく答えた。
「弓弦、って、そんなにすごいの」
「みたいだね。ほんとに、僕は弓弦の仕事をほとんど知らないんだ。危ない仕事もあるみたいだから、心配なんだけどね。僕はそれで養ってもらってるんだから、あれこれ言えなくて」
 エレベーターがやってくると、扉は両開きして、その広さにまたびっくりした。紗月くんは、一番上のボタンを押した。エレベーターが上昇しはじめると、ふわりと安定感がなくなって、つい紗月くんの腰にしがみついてしまう。紗月くんはつないだ手を握り直してくれた。
 最上階に到着すると、エレベーターを降りて廊下を進み、右手の一番奥の部屋の前で、紗月くんはまたインターホンみたいなものに何か打ちこんで、そうするとかちゃっと鍵が開く音がした。
「余ってる部屋あるから、そこにゆっくり結音のもの揃えていこうね」
 こくんとしながら部屋に上がると、かすかに煙草の匂いがした。玄関からまっすぐ廊下が伸びて、左右にドアがある。奥まで行くと、右にリビング、左にダイニングキッチン、中央はごろごろできそうなフローリングがあった。
「眠くはない?」
「ん……ちょっと」
「今日、いろいろ大変だったもんね。僕たちのベッドでいいかな」
「眠れるか分かんない」
「え、どうして」
「寝たら、殺される……し」
 うつむいた私に、紗月くんは手を握り直すと、ひざまずいて目線を等しくした。
「もう、あの部屋とは違うから大丈夫だよ。何か来たって、僕たちが守ってあげる」
「守……る」
「うん。だから、安心してゆっくり眠っていいんだよ」
 紗月くんは空いている手であたしの髪を撫でて、柔和に微笑んだ。あたしはその笑顔を見つめて、手をぎゅっと握りしめた。
「弓弦も……」
「ん」
「弓弦も、怒らない?」
 紗月くんは失笑すると、「大丈夫」とあたしの軆を腕で包んだ。
「もし怒っても、そのときは僕は結音の味方する」
「味方……」
「うん。だから、とりあえず休もう。何かごはんも作っておくよ。ほんと、ちゃんと食べなきゃね」
 紗月くんは、痛々しい瞳であたしのかぼそく蒼白い腕をたどった。そして立ち上がると、「行こう」とあたしの手を引いた。
 おとなしくついていくと、連れていかれたのは寝室だった。部屋の真ん中に、大きな水色と白のストライプのベッドがある。あたしはそれによじのぼると、ふかふかしているのにひんやりした感触に包まれて、息をついてしまった。こんなの初めてだ。畳にじかに寝ることしかできなかった。紗月くんはあたしにふとんをかぶせると、「おやすみ」と額をさすってくれた。
「行っちゃうの?」
「眠るまでここにいるよ」
 あたしはふとんの中にもぐりこんだ。紗月くんはベッドサイドに腰かけると、手をつなぎなおした。
「大丈夫。まずは体調を整えないと」
 あたしはうなずくと、睫毛を伏せた。心臓の音が聞こえる。そんな中で眠るなんて、初めてだ。パパのいびきがうるさくないと、いびきをかくくらい寝てるときじゃないと、寝るなんて無防備すぎた。
 ふとんはひなたのいい匂いがする。手から紗月くんのぬくもりが伝わってくる。そんな優しい五感に包まれて、あたしは穏やかな眠りにさらわれていった。

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