会いたい
はっと目を覚ましたとき、あたしは暗闇に畏縮した。
何だろう。また押し入れに押しこまれたのか。いや、何だかふかふかした場所で、手足も伸ばせている。うめいて身を起こして、室内を見まわしたあたしは、昼間にあった出来事を思い出した。
ベッドサイドに紗月くんはいない。でも、閉められたドアから光がもれていて、誰か起きているのは分かる。弓弦だったらやだな、と思いながらも、ちょっとトイレに行きたかったので、あたしはベッドを降りた。
闇の中、素足に冷たいフローリングを踏んで、そっとドアに隙間を作る。すると、ぼんやりと話し声が聞こえた。
「弓弦の気持ちが心配で」
紗月くんの声だ。その声は、雫が落ちた水面のようにかすかに揺れている。
「殺さないって、決めてたんでしょ?」
ふーっ、と何やらため息が聞こえた。あたしはドアノブをぎゅっと握る。
「依頼だから、仕方ないだろ」
弓弦だ。絞り出すみたいな声は、苦しげに聞こえる。
「まさか、こんなかたちになるなんて思ってなかったけど。正直、あいつの顔見た途端、『やっぱ殺したい』って思ったし。よかったんだよ、たぶん」
「弓弦」
「よかったんだ。心配しなくていいから」
あたしは顔を伏せた。
殺したい、って、パパのこと? 弓弦はパパを殺したかったの? 殺したくて殺したの? 仕事じゃないの?
疑問がぐるぐるして、幼い頭で精一杯考えたけど答えは出なくて、呼吸が乱れてきた。へたりこんだのと同時に離されたドアノブが音を立てて、「結音?」と声が近づいてきた。
紗月くんだった。あたしは紗月くんに抱きつくと、「パパに会いたい」と息を切らした。紗月くんは一瞬手を止めたけど、柔らかく背中を撫でてくれる。
「パパに会いたいよ」
「結音、あのね──」
「紗月」
制する声が入って、あたしはびくんとすくむ。思わず紗月くんの胸の顔を当てて、その冷たい声だけ聞く。
「これ。過呼吸だろ」
「ありがと。結音、これ口にあてて」
紗月くんは、息遣いを引き攣らせるあたしの口に、小さい茶色の紙ぶくろを当てる。かすかにパンの匂いがした。
「悪い。俺、またすぐ用事があるから」
「あ、うん」
「そいつのこと頼む」
「ね、ねえ弓弦」
「ん」
「また、話聞くからね」
一瞬沈黙があったけど、「ああ」と弓弦は咲って、足音は遠ざかって、ばたん、とドアは閉まった。あたしは喉に痛みを感じながら、紗月くんを見あげる。
「ど、どうして?」
「え」
「どうして、弓弦が、パパを殺したいの?」
「………、」
「パパ……パパに会いたいよ。パパに……会いたい」
切れ切れに言うあたしを、紗月くんは優しく抱きしめた。けれど、何も言ってくれなかった。
弓弦がパパを殺したい理由──分からなくて、分からないほど混乱して、ただ「パパに会いたい」と繰り返した。
やがて、その言葉も見失って震えるだけになった。本当に、真冬のベランダに放り出されたときみたいに軆ががくがくして、それが何の感情なのかもはっきりしなかった。
紗月くんは忍耐強くあたしを慰撫してくれた。その手の温かさで、昂ぶった震えはだんだんと落ち着いていった。あたしは呼吸を少しずつつかんで、かすかに麻痺の残る手のひらで目をこすった。
「……落ち着いた?」
ふくろを離した紗月くんが顔を覗きこんできて、あたしは頬にかかった髪をはらいながら、うなずいた。紗月くんの瞳がほのかにほっとして、「まだ眠たい?」と物柔らかに訊いてくる。あたしは首を横に振り、すると紗月くんは立ち上がって、「じゃあ、リビング行こう」と丁寧に手を握って、立ち上がらせてくれた。
廊下を抜けると、広いフローリングがあって、右手の絨毯の上ににテレビや白いカウチがあった。紗月くんはあたしをカウチに座らせると、カウチとテレビのあいだのテーブルに散らかっていた紙をまとめる。カウチは短い起毛で、手触りが暖かい。テレビの上方にシンプルな黒い掛時計があって、時刻は一時になろうとしていた。
「いつも、この時間帯って起きてるの?」
紗月くんは紙をファイルに分けながら、あたしに首をかしげる。
「ん、別に。寝れるときだけ寝て、なるべく起きてた」
「そう……。じゃあ、これからは夜は寝るようにしなきゃね」
「紗月くんは、夜寝てるの」
「まあ、一応。つい夜更かしするときもあるけど」
紗月くんはくすりと微笑んで、ファイルをテーブルに置いた。あたしはもう一度時計を見上げて、こんなに長い時間眠ったの初めて、と思った。
そういえば、トイレに行きたかったのだっけ。やや躊躇ったけど、紗月くんに声をかけると、「あのドアだよ」とトイレのドアをしめしてくれた。
「ひとりで行ける?」
「うん」
「あ、でも、電気つけなきゃね」
紗月くんも立ち上がって、寝室の向かいにあるドアに歩み寄るとスイッチを入れた。あたしは紗月くんを仰ぎ見る。「どうぞ」と言われて軽く深呼吸をすると、ドアノブを下ろした。
白のようで、うっすらとベージュがかった、陶器の洋式のトイレだった。全体的に暖色で、フローラルっぽい香りがした。何となく音を聞かれたくなくて、閉めたドアの向こうで紗月くんが離れたのを確認してから、トイレによじのぼる。脚をぶらぶらさせて、いちいち高級だなあ、とか思いながら用を足すと、トイレを出た。
ダイニングのほうにいた紗月くんがすぐ気づいて、電気を消すと、隣の洗面所で手を洗わせてくれた。ここはバスルームにつながっているようで、曇りガラスのドアがある。
「そうだ、結音が寝てるあいだ、結音の服買ってきたんだけど」
「えっ」
「あと、髪ってそのまま伸ばしておきたい?」
「ん、ちょっと長くてうざいかも」
「じゃあ、まずは髪切ろうか。そのあと、シャワー浴びてパジャマ着たら、朝まで寝る」
「もう眠くないよ」
「ダメ。睡眠は夜に取らないと」
あたしの頭をぽんとして、紗月くんは洗面所の明かりを消した。急に暗くなって、紗月くんの腰にしがみつく。紗月くんはそんなあたしの肩を手を置いて、明るいリビングに連れていってくれた。
「女の子だし、美容院に頼んだほうがいいかな」
あたしはカウチに腰かけて、背後にまわった紗月くんはあたしの髪をひと房取ってそんなことを言う。
「えっ。い、いいよ」
「でも、変に段とかついちゃったら。弓弦ならうまいけど」
「紗月くんに切ってほしい」
「そ、そう? あんまり期待しないでね」
あたしがこくんとすると、紗月くんは「そうだ」とダイニングから大きな白い紙ぶくろを持ってきた。それをどさっとあたしの隣に置くと、「気にいるといいんだけど」と色とりどりの洋服を取り出しはじめた。
ピンクのブラウス、白いレースがあしらわれたスカート、赤いチェックのワンピース──今着ている、あせた紺のロングTシャツしか着たことのないあたしにはもったいない鮮やかさで、最後に水色のボーダーのパジャマが出てきた。
「とりあえず、今夜はこれで寝てくれる?」
「う、うん」
「ごめんね、女の子の趣味って分からなくて。友達に、電話で無難なの訊いたんだけど──」
「ち、違うよ。その、あの、いい、の?」
「え」
「あたし、こんなかわいいの着たことないし。似合う、かな」
「かわいい、って思ってくれる?」
「すごくかわいいよ。でも、あたしがそんなかわいくないし」
「結音はかわいいよ。そっか、じゃあ、明日はこの中から好きなの着てくれる?」
「うんっ」
あたしが笑顔でうなずくと、紗月くんと安心した様子で咲って、「じゃあ、髪切ろうか」とビニールのポンチョや髪切りばさみを取り出した。それも買ってきたのかを問うと、それは元からここにあったものだそうだ。「僕の髪とか弓弦が切ってくれるから」と紗月くんはあたしの髪にまずは櫛を通す。
「どのくらいの長さがいい?」
「ん、鬱陶しくなかったら──あ」
あたしは、買ってきてもらったらしい服をちらりとした。あんなかわいい服をこれから着るのに、男の子みたいなショートカットは失礼かもしれない。あたしは長い髪をちょっと爪繰ったあと、「ちょっと、縛ったりもできるくらい」と言い直した。紗月くんは、顎より少し下くらいを指で測る。
「このくらい? もっと長いほうが、みつあみとかできるかな」
「ううん、それでいい。みつあみなんて似合わないし」
「そんなことないと思うけど──うん、分かった。じゃあ、切るよ」
喉元にはさみがさしこまれて、ちょっと触れた金属の冷たさにどきどきしていると、黒髪が房からぱさっと散らばっていく。紗月くんは慎重にあたしの髪をゆっくり、じゃき、という音を立てて切り落としていく。
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