中学生
水の鏡は、その人の本来のすがたをありのままに映す。自分を男として映す鏡が紗琴は嫌いだ。でもきっと水に映したら、紗琴はとても綺麗な女の子として映ると、あたしは思う。
ずっといつも一緒にいて、紗琴を男だと思ったことは一度もない。確かに、あたしとは違う軆をしている。それでも幼心にも紗琴を男あつかいするのは違う気がしていた。あたしよりも、紗琴のほうが女の子らしいと思うほどだった。
小さな頃から、あたしたちは着せ替えごっこが好きだった。あたしのおかあさんがお裁縫が大好きだったから、家には手作りの女の子の服がたくさんあった。体格が変わらないあたしたちは、それをとっかえひっかえ着た。
鏡の前に座って、睫毛にビューラーをかけたり、少し唇をはみだしてルージュを塗ったり、不器用にエクステをつけたりした。女の子の服を着た紗琴は、お姫様みたいだった。だから、変な人に誘拐されないために男の子の軆に変身しているのだと、昔は思っていた。
その変身はいつか解けると、あたしが思っていたのだ。きっと、紗琴本人だってそう思っていたに違いない。でも、その魔法は決して解けない、成長するにつれ、実は忌まわしい呪いなのだということが分かっていった。
たとえば、学校のトイレ。男子用にしか入れない。たとえば、修学旅行の入浴。男湯に入らなければならない。更衣室、身体測定、プールの授業、席の列、何もかもが紗琴に「男」であることを強要した。
そんな毎日にとまどっていた紗琴は、拒否反応のあまり、泣くようになった。それでも、女の子のほうに混ぜてもらえることはない。男の前で恥ずかしい。男の中で怖い。そして、その涙はみんなに「オカマ」と揶揄われて、服を脱がせたり物を盗まれたりする、イジメになっていった。
「日向くんってイケメンなのになあ」
そのイジメを眺める、女の子たちも女の子たちだった。
「やっぱ、あの女々しさは残念だよね」
だから、女の子の友達ができるというわけでもなかった。あたしだけが、いつも紗琴に駆け寄っていた。
「茉莉しか、分かってくれないよ」
大粒の涙をぽたぽた落とす紗琴も、あたしにしか心を許さなかった。
「女の子なのに、どうしてこんな軆で生まれたんだろう」
そんな痛々しい想いばかりの小学校を卒業した春休み、あたしと紗琴に、同時に中学で着る制服が届いた。あたしは紺のセーラー服。紗琴は黒の学ラン。
あたしのおかあさんと紗琴のおかあさんは仲が良くて、あたしたちがそれを着て並んだ写真を残しておきたいと言った。紗琴は首を横に振ったし、あたしも「恥ずかしいからいいよ」と言った。それでも母親ふたりは引き下がらず、あたしと紗琴におろしたての制服を着せた。
紗琴は今にも泣きそうな顔をしていた。
「紗琴、咲って」
紗琴のおばさんがそう言った途端、紗琴はついに泣き出してしまった。「何よー」とか言いながらも、母親ふたりはあたしたちをデジカメで切り取った。
泣き顔の紗琴と、憮然としたあたし。かわいくない写真に若干納得いかないようでも、やっとふたりはあたしたちを解放してくれた。
紗琴はすぐさま、自分の部屋に閉じこもった。
セーラー服を脱いだあたしは、自分のスマホを持たせてくれると言ったおかあさんとショップに出かけて、スマホを手に入れた。一時間ぐらいいじって操作に慣れると、「ちょっと紗琴の様子見てくる」と言って、必要なものを押しこんだ紙ぶくろを持って紗琴の家に向かった。
四月になる直前、ずいぶん長くなった日が暮れようとしていた。子供たちはみんな帰宅して、あたりは静かだった。
あたしと紗琴は、生まれたときから同じ団地内に住んでいる。三分も歩かずに紗琴の住む棟に到着すると、階段を駆け足でのぼっていく。
「紗琴いますか?」
チャイムを鳴らしたあたしを、玄関を開けて出迎えてくれたのは、おばさんだった。開口一番そう訊いたあたしに、「部屋から出てきてくれない」とエプロンをまとったおばさんは拗ねたように返す。
奥から夕飯の匂いがただよってきている。
「何なのかなあ、あの子。もう中学生なんだし、そろそろ男らしくしてくれたって」
紙ぶくろの持ち手を握りしめ、「お邪魔しますね」とおばさんの脇をすりぬけて、紗琴の部屋に前に向かった。
ドア越しにも、紗琴の重たい心が心に響いてきた。「茉莉だよ」とノックをしてから、鍵はついていないドアをそっと開けてみる。
夕方が終わりかけ、明かりの灯らない室内は暗くて涼しかった。それでもレースカーテン越しの月の光で、紗琴が学ランのままベッドに突っ伏しているのは見取れる。
あたしは部屋に入って、後ろ手にドアを閉めた。
「紗琴」
紗琴の肩が少し動いて、服とシーツが静かにこすれる音がした。ゆっくり顔を上げた紗琴は、やっぱりまだ泣いていた。
「茉莉……」
「ごめんね、うちのおかあさんまでわがまま言って」
「……ううん」
「つらかったよね」
紗琴はあたしを見つめて、さらにじわりと瞳を濡らした。
「紗琴は女の子なのにね」
あたしがベッドサイドに腰かけると、紗琴はあたしにしがみついてもっと泣いた。あたしはその頭を撫でて、「紗琴はあたしが知ってるどの子より女の子だよ」と言う。紗琴はびっしょり濡れた睫毛でこちらを見る。
「だからね、ほんとの紗琴の記念写真を撮ろうと思って」
「え」
「あたし、さっきスマホ買ってもらったの。それの写真だけどさ。紗琴のほんとの記念写真撮ろうよ」
「ほんとの、って」
あたしはベッドサイドに腰かけて、紗琴に紙ぶくろの中身を覗かせた。紗琴がそろそろと取り出したのは、あたしのセーラー服だった。
「これ──」
「それを着たところ、撮ってあげる」
「えっ」
「貸してあげるしかできないけど。本当は、紗琴もこれでしょ?」
あたしの言葉に、紗琴は瞳を水分でゆがめ、不明瞭な声をもらすと、何度もうなずきながら小さく嗚咽をこぼした。
あたしはその頭をよしよしとしてから、「着替えてみて」と言った。紗琴は今度は大きく一回こくんとすると、金ボタンを外して、やっと学ランを脱ぎはじめた。
さいわい、サイズもちょうどよかった。明かりをつけた部屋で、紗琴はセーラー服をまとって、そわそわと自分のすがたを鏡に映した。
より女の子に見えるように、あたしはエクステで紗琴をロングヘアっぽくする。「かわいい」と微笑むと、紗琴はまだ目は涙の痕で腫れぼったくも、「うん」と嬉しそうに咲った。
幼い頃と違い、化粧も覚えてきた。あたしは紙ぶくろから取り出したファンデやチークで、紗琴の顔つきも柔らかく華やかにした。
それから紗琴にベッドサイドに腰かけてもらい、慣れないスマホで撮影を始める。何枚か手ブレで失敗したけど、それでも紗琴は綺麗な女の子としてフレームに収まった。
「紗琴」
「ん」
「咲える?」
紗琴はあたしを見つめて、さっきと違った切なさで泣きそうになった。けれど、それはこらえて笑顔を作る。あたしは、その泣き咲いを写真に残していった。
紗琴は女の子だと思う。うまく言えなくても、あたしにはあくまで女の子の幼なじみで、親友だ。どんなに人が「あいつ、男のくせに」とか言っても、あたしにはその言葉が信じられない。
紗琴は女の子だ。こんなにかわいい子はいないと思うほど、心から女の子だ。
桜があふれるように満開になると、彩られた花壇の香りを乗せる春風の中で中学校に入学した。小学校は全二クラスだったのが、全五クラスになった。
さすがにあたしと紗琴はクラスが別れてしまったけど、四組と五組、隣同士だった。それでも小学校のあいだはずっと同じクラスだったから、紗琴が意地悪をされていないか心配だった。一学期、自分のクラスになじむ努力もしつつ、あたしは紗琴のいる四組によく遊びにいっていた。
「聖園って日向の保護者だよなー」
相変わらずちくちく言ってくる奴もいるようだけど、紗琴はきちんと出席を続けていた。でも、もしとても嫌な想いをしても、おとなしい紗琴は反抗できなくて、放課後、自分の部屋かあたしの部屋で泣くことしかしない。
昨日もそうだったから、一時間目が終わると、あたしは隣の教室に出向いた。ゴールデンウィークが終わったばかりの、五月の初めだった。入口から四組の教室を見やると、紗琴が座っている席が変わっていて、もうこっちは五月の席替えしたんだ、と察しながらそのつくえに駆け寄った。
あたしに気づくと、紗琴は微笑んでくれた。何かをこらえている様子はもうない。むしろちょっと嬉しそうに見えて、どうしたのか訊こうとすると、突然そんな男子の声が割って入った。
「は?」
眉を寄せて声のしたほうを見ると、声の主は紗琴の前の席にいる男子だった。軽く茶色に染めた短髪を上げ、ちょっと面長だけど、親しみやすそうな眉や瞳をしている。軆つきはすでにしっかりしつつあった。
「秋葉くん」と紗琴が小さな声でつぶやいた。その男子の胸元の名札を見ると、確かに『秋葉』という名前がある。
「何? 悪い?」
「悪かないけど」
「てか、何であたしの名字知ってるの」
「日向に聞いた」
紗琴を見た。紗琴はどうしようもなくて学ランで中学に通っている。紗琴もあたしを見て、首をかしげた。
「嫌だった?」
「嫌、というか」
「日向のことは、俺もけっこう気にかけてるんだぜ」
思いがけない言葉に、秋葉くんというその男子を見た。
「日向、始業式の日にいきなり女子に告られててさ。すげー困ってたから、ドアのそばだった俺が廊下まで連れ出したんだ」
「そう、なの?」
紗琴はこくんとして、「それから秋葉くんはときどき話してくれるよ」とはにかんで咲った。
そう、なのか。そんな始業式のことは知らなかったのでおもしろくなかったものの、ここでふくれっ面になるわけにはいかない。
「席もそこなの? 紗琴の前?」
「ああ。一時間目が席替えでさ、今月はここになった」
「来たのが秋葉くんだったからびっくりした」
「はは。偶然ってあるよなー」
「じゃあ、まあ──紗琴のこと、よろしくね。あたしはクラス違うから、限度あるし」
「おう。任せろよ」
秋葉くんはそうにかっと笑い、あたしは肩をすくめて紗琴を向いた。紗琴はあたしを見上げて、ひかえめに咲う。その笑みに秋葉くんを警戒する様子もないので、あたしが干渉することもないかと息をついた。
「何かあったら、こいつにちゃんと守ってもらってね」と言うと、「こいつとかー」と席に向き直った秋葉くんが振り返らずにぼやき、紗琴は今度は楽しそうに咲った。紗琴がそんなふうに咲うのはめずらしいなと思った。
そこでチャイムが鳴って、慌てて紗琴に謝って、自分の教室に戻った。先生は来ていたけど、まだみんな着席し終わっていなくて、ざわめきも残っている。
自分の席に急ぎながら、ふと、またあの視線を感じた。振り向いてかちっと合った瞳は、おっとりした色合いの瞳──やっぱり、暮村くんだ。
秋葉くんの茶髪とは違う、たぶん地で色素の薄い髪がさらさらと窓からの風に揺れている。眉の弧も優しくて、軆つきも成長過程だ。あたしは彼とよく目が合う。視線を感じると、たいていが暮村くんなのだ。
話したことはない。この中学に入学して同じクラスになり、知った人だ。向こうもそうだと思う。
何なんだろ、とどぎまぎしている自分を持て余しながら、その日も目を手元に戻してつくえから教科書を取り出した。
【第二章へ】
