水鏡に映して-16

濡れた睫毛で

「高校生になったら、また、何も知らない人の中に行くんだよね」
 あたしの部屋で勉強を始めて、同じ高校を志望していることを話しながら参考書をめくっていると、ふと紗琴はそうつぶやいた。あたしはシャーペンを動かす手を止め、紗琴のありのままをほとんどの人が理解してくれている今の環境が、いつまでも続かない現実を思い出す。
「せっかく、たくさんの人に分かってもらったのにね」
 シャーペンを置いてあたしが言うと、紗琴はうなずく。
「もったいないね、何か」
「入学前に、高校にも話は行くと思うよ」
「うん……。でも、やっぱりまた男あつかいされそう」
「逆に、同じ悩み持ってる子もいたりするかもよ?」
「そ、そうかな」
「紗琴は堂々としてていいんだよ。何もおかしくないもん」
 紗琴はこくりとしつつ、「怖いことされないかな」と小さな声で言う。二年生のことが脳裏をよぎり、それが紗琴の心の傷になっているのも知っていたので、「あのときは、紗琴は男の子としてバカにされてたんだと思うから」とあたしは言葉に慎重になる。
「言ってたでしょ、紗琴も。女の子として考えてみたら、ひどいことだって分かるって」
「……うん」
「紗琴は女の子だって思ってもらえたら、簡単にあんなことしようと思う子は少ないんじゃないかな」
「どうやったら、思ってもらえるのかな。またみんなの前で話すの……?」
「うーん、それまでに診断が出たらいいんだよね。本格的に治療受けはじめてたら、さすがに男あつかいもできないでしょ。注射で胸とかふくらんでくるって言ってたじゃん」
「先生はそう言ってた」
「じゃあ、頑張ってクリニック行ってたら、紗琴は大丈夫だよ。紗琴なら、診断は絶対出るし。そしたら、高校もちゃんと楽しいよ」
「……ん」と紗琴は不安そうに睫毛を伏せたけど、「最悪でも、茉莉とは一緒だよね」とあたしを見つめる。
「うん。頑張って一緒のとこ進もう」
 にっこりとすると、「頑張る」とやっと紗琴は笑みを見せた。その笑顔にほっとして、あたしはおかあさんが出してくれたバタークッキーを頬張る。まろやかな味がふわりと広がる。
「そういえば、暮村くんってどこに進むのかな」
「え、さあ」
「暮村くんも一緒だといいよね。あたしも心強い」
「でも、暮村くんすごく頭いいよ。中間考査で、クラスでひとりの百点取ったりもしてたし」
「マジか。あたしたちが暮村くんのレベルになるのはむずかしいか」
「一緒がいいからレベル下げてなんて言えないよ」
「紗琴が言えば、考えてくれそうだけど」
 あたしの言葉に、カップに淹れられたミルクティーを飲んだ紗琴は、「あんまり」と消え入りそうにささやく。
「迷惑なこと、言いたくないよ」
「そう?」
「き、嫌われたく、……ないし」
 紗琴を見た。紗琴は頬に色がさしている。嫌われたくない。それはつまり──。
 紗琴は何やら考えてから、首を横に振ると、「何かやだな」とカップを置いてため息をついた。
「毎年、好きな人が変わってる気がする」
「好きなの?」
「……もう、秋葉くんはぜんぜん接点ないし。佐内くんもどうしてるのか知らなくて。だからって、次々と好きな人が変わるって何なのかな」
「つきあって振ってるわけじゃないからいいじゃない」
「茉莉は、好きな人いないの? まだ暮村くん──」
「それはないけど。別に好きな人いないかな」
「ほんとに、暮村くんのこと、気にしない?」
「しないって。ちゃんと振られてるんだよ?」
 紗琴はバタークッキーを口に入れた。雨音の中に、さくさく、という音が小さく響く。「そういえば」と紗琴は思い出したように、ぽつりと言う。
「暮村くんって、好きな人いるんだよね」
「えっ?」
「一年生のとき、そう言って振られたって茉莉言ってなかった?」
「あー、まあ、言ったかも」
「……今も、好きなのかな。暮村くんは一途だろうな。すごく大事にしてくれそうだし」
 それはね、紗琴のことなんだけどな。と思っても、勝手に言えない。それがどうにも焦れったい。
「どんな女の子かな。かわいいのかな」
「まあ、見た目とかでは判断しないかと」
「そうだよね。すごくいい子なんだろうね」
 紗琴は睫毛を下げて、「もやもやする」とつぶやいた。
「それが嫉妬かな、と思う……から」
 紗琴は頬を真っ赤にして、一生懸命に吐き出す。
「好き、かもしれない。暮村くんが」
 恥ずかしそうにうつむいた紗琴に、「そっか」とあたしは微笑んでうなずく。
「すごく、優しい目で見てくれて、噛んでばっかりでも話も聞いてくれる。咲ってくれると、どきどきする」
「うん」
「暮村くん、あんまり、ほかの人にはそんな感じじゃないけど。それは、茉莉に見ててって頼まれたから、だよね」
「そんなことないよ。やっぱり、暮村くんも紗琴のそばにいてあげたいって思ってるんだよ」
 紗琴は潤みかけた目をあたしに向け、それから伏し目になって「期待したくなる」と前髪を揺らす。「紗琴って告白はしたことないよね」とあたしはグラスのコーラを飲む。
「されても迷惑でしょ?」
「暮村くんにもしないの?」
「しないよっ。そんな、絶対しない」
「絶対」
「仲良くしてもらえなくなるよ。このままでいい」
「……そっか」
「それに、したって振られちゃうんだよ? 好きな人がいるんだもん」
 あたしは炭酸の弾ける感触を飲みこんで、ここから先は紗琴から進みそうにはないなあ、と思った。だが、紗琴が気持ちを認めたということは、ふたりは両想いになったのだ。それを知っていて放置するのも、後ろめたい気がする。何かできないかな、と思っても、人と人を結ぶなんて具体的に思いつかない。
 踏みこむか、見守るか。真宮くんは見守ると言っていたっけ。それが正しいのは分かっている。本来なら、ふたりの仲にあたしが出しゃばる必要はない。
 しかし、あたしは紗琴が泣くのを何回も見てきた。だから、紗琴には今度の恋でこそ咲ってほしいのだ。
 行動すべきかどうか悩んでいるうちに、梅雨がさあっと明けてまばゆい夏が始まった。蝉の声がいつのまにか混じり、蒸された空気の匂いが立ちこめる。ぬるい夏風に葉桜がざわついて、アスファルトにくっきり映った木陰が揺らめいた。
 学校も期末考査も終わって、夏休みが近づく。そんなとき、偶然廊下で紗琴と暮村くんが、何かの教科書を抱えて歩いているのを見かけた。
 紗琴は懸命に何かを話していて、でも何やら舌がもつれるとしゅんと口ごもる。すると暮村くんが何か言って、紗琴は顔を上げてうなずき、また話を始める。そんな紗琴を見つめる暮村くんの瞳はとても凪いでいて、あの目だったな、と気づかれないようにすれちがいながら、懐かしい感じで思い出した。
 そう、暮村くんはいつもあの目だった。あたしを見ているなんて勘違いした目。あの頃から変わらず、暮村くんは紗琴にそんななごやかな視線を向けている。あの人は、本当にすごく紗琴が好きなのだろう。それがよく伝わってくる。
 あたしは、一度ふたりを振り返った。けど、階段へと曲がったのかもう見つからなかった。あたしは戻った教室に踏みこみながら、よし、とついに心を決めてひとりうなずいた。
 夏休みが始まらないうちのある日、あたしは六組の友達に暮村くんへの伝言を任せた。そして紗琴に、今日も一緒に帰るけど自分の教室で待っていてほしいと伝えた。こうすれば、あたしが遅くなれば自然と人払いになる。
 あたしは今日の日直の子に鍵を預かって、鍵を頼まれたから遅くなったという言い訳も作る。十六時半を過ぎたくらいに一組の教室は空っぽになって、そろそろいいかなと廊下に出て、鍵をかけた。
 ふうっと息を吐いて、お節介なのは分かってるけど、と奥の六組の教室に向かった。陽射しの射す廊下にもひと気は残っていない。六組は窓は閉められていてもドアが開いていて、そこから中を覗くと、「あっ」と紗琴の待ちかねた声が聞こえた。
 明るい六組の教室も、もう紗琴と暮村くん以外の生徒のすがたはなくがらんとしていた。
「茉莉。どうしたの。何かあったの」
「ん、日直の子が用事あるからって、鍵締めるの頼まれてた」
 手の中の鍵を見せながら白々しくならないように言うと、紗琴は何やらほっと息をつく。
「ごめん、心配かけたかな」
「呼び出しでもされて、教室に残されてるのかなって」
「聖園さんならそれはないって言ってたんだけど」
 暮村くんはそう苦笑する。どうやら、あたしの伝言で残っているとは紗琴に言っていないようだ。
「だって。自分のクラスで待っててほしいって、そんなの今までなかったし」
「大丈夫だよ、紗琴。暮村くんも、ありがとう」
「あ、うん。ええと、何か──話?」
 紗琴がきょとんとあたしと暮村くんを見較べる。あたしはふたりのかたわらで立ち止まって、暮村くんを見上げた。
「話があるのは、暮村くんのほう」
「えっ」
「暮村くんは、紗琴に話があるでしょ。ずっと前から」
「え、──えっ?」
 声を上げた暮村くんを、紗琴も不思議そうに見上げる。いつも落ち着いた暮村くんが、さすがに慌てたように頬を色づかせる。
「み、聖園さん」
「暮村くんは、紗琴ならあたしと同じ気持ちにはさせないでしょ?」
「……え、」
「紗琴が今、あの頃のあたしと同じ気持ちなの」
「茉莉……?」
 紗琴が不安そうにあたしの制服を引っ張ったけど、「暮村くんから話してあげて」とあたしは暮村くんに言う。あのバレンタインよりずっと、まっすぐに。
「女の子はね、やっぱり男の子から言ってほしいものなの」
 暮村くんはあたしを見つめたのち、当惑しつつ紗琴を見る。紗琴はそれを見つめ返し、「えっ」とやっと心当たったように声をもらしてあたしの腕を揺すった。
「ま、茉莉、何? そんな、……こんなの、」
「大丈夫、紗琴は暮村くんの話を聞いてあげて」
「でも、」
「じゃあ、あたしは廊下にいる。聞き耳は立てないから安心して」
「茉莉、」
「紗琴はね、あたしが知ってる女の子の中で、一番かわいくて、一番いい子」
 紗琴は半泣きになりながら、あたしを見つめる。暮村くんはそんな紗琴に、観念したような息をついて「日向」と紗琴を呼んだ。
 紗琴はこわごわと暮村くんに顔を上げる。暮村くんが紗琴に注ぐ瞳は、やっぱり優しい。あたしは一歩引いて身を返し、教室を紗琴と暮村くんのふたりに戻した。ドアも閉めたら、ちゃんと話し声はぼんやりしていて、聞き取れなかった。
 陽射しが降りそそぐ熱い窓にもたれて、誰も来ないように廊下を見守る。
 ふと、唇の端に塩の味が染みこんだ。すくうと太陽で指先がきらきらした。ぜんぜん哀しくないのにな、と思う。でも、不意に教室の中から紗琴の泣き声がこぼれてきて、そっか、と納得した。あたし、嬉しくて泣いてるんだ。
 紗琴がやっと好きな男の子と結ばれた。あたしも嬉しい。あたしも幸せなんだ。哀しい恋ばかり続けてきた親友が、やっと報われた。よかった、とあたしはなだらかな心で微笑んで、濡れた睫毛できらめく窓の向こうの青空を見やった。

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