水鏡に映して-17

見守るように

 紗琴と暮村くんは、めでたくおつきあいすることになった。あのとき廊下にいたあたしは、変な勘違いはされないようにちゃんと涙ははらっておいて、恥ずかしそうなふたりの報告を聞いた。
 あたしは「よかった!」と紗琴に思わず抱きついて、その頭をくしゃくしゃにしてしまった。紗琴は「ありがとう」と涙声のまま何度も言って、あたしの制服を握った。やっと紗琴から離れたあたしは、暮村くんのことを見上げて、同じようににっこりした。暮村くんも「ありがとう」とあの穏やかな瞳で言った。
 すぐに夏休みが近づき、終業式は先に帰って紗琴と暮村くんをふたりにしたほうがいいかなと思ったけど、「ふたりになると恥ずかしい」なんて紗琴が言うから、暮村くんに悪いなと思いつつも三人で帰り道を歩いた。
 めまいがしそうな青空が突き抜けていた。明日から四十日間、ふたりは教室で会えなくなる。会う約束でもうながしたほうがいいかなとまたお節介を考えていたら、不意に「日向」と暮村くんが真ん中にいる紗琴を呼んだ。「あ、はい」とまだ緊張しながら顔を上げた紗琴に、「夏休みも、勉強いそがしいかもしれないけど」と暮村くんもけっこう緊張を見せながら言った。
「会って……もらえる、かな」
 紗琴は睫毛を上下させ、「あ、」と声を漏らしてかばんの持ち手をぎゅっと握った。それから、「会いたい、です」と壊れそうな細い声で答える。それを聞いた暮村くんは、安心したのと嬉しいのを混ぜた笑顔になった。
 甘酸っぱいなあ、と揶揄いたいのはこらえて顔を伏せ、ついついあたしまで満足した笑みになってしまった。
 そして、夏休みが始まった。紗琴はあたしと勉強をしたり、暮村くんに会ったり、両親とクリニックに行ったりと、なかなかいそがしそうだった。「無理はしてない?」と念のため気にかけると、「全部、必要なことだから」と紗琴は微笑む。
 その笑顔がだいぶしっかりしてきたので、「幸せなんだねえ」なんてあたしは揶揄って、すると紗琴は「茉莉のおかげだよ」と優しい瞳で返してくれる。「お節介焼いてよかった」とあたしはくすっとして、「茉莉に好きな人できたときは、何でもするからね」と紗琴はあたしの手をつかむ。「はいはい」とあたしは苦笑しつつ、そんな男の子があたしにもできるのかなあと、何だかぼんやりした感覚になった。
 八月になると、いよいよ毎日が猛暑だった。午前中に紗琴からメッセが来て、それによると今日は暮村くんに会ってくるそうだ。『ちゃんと水分補給しながら楽しんでね。』と返すと、『ありがと。いってきます!』と来たので、それ以上の返信はやめておいた。
 あたしは勉強をするついでに、紗琴のための要点をまとめた用紙も作る。もちろん紗琴だから、勉強をほったらかしにしたりはしていないのだけど、なるべくデートは勉強とか忘れて楽しんでほしい。手伝えることってこれくらいだしなー、とか思って、シャーペンの文字をカラーペンで分かりやすく彩っておく。
 夕方に紗琴の『ただいま』のメッセが来ると、『そっち行ってもいい?』と訊いてみた。『いつでも来ていいよ。』と返ってきたので、あたしは用紙だけかばんに入れて、「紗琴に会ってくる」とおかあさんに言い置くと家を出た。
 空は茜色が紺色に溶けかけていたけど、煮えているような空気は残っていた。植木の草と土の匂いが立ちのぼり、ひぐらしの声が響いている。一瞬でじわりと汗をかくのが分かって、紗琴の家に急ごうとしたとき、「あれ、聖園じゃん」という声が耳に届いてきょろきょろした。
 すると、団地の奥のほうから自転車が近づいてきて、ブレーキをきしめかせてそばに停まる。あたしは思わずまじろいでしまった。「暑っついなー」と額の汗をぬぐったのは、私服が見慣れない真宮くんだった。
「真宮くん」
「おう。話すの久しぶりだな」
「う、うん……。え、真宮くんの家ってこのへん?」
「いや、友達の家から帰るとこ。聖園は何してんの。塾?」
「ううん、紗琴の家行くの」
「あー、あいつこのへんなんだ」
 そう言って、真宮くんは手のひらで自分を扇ぐ。それを認めていいのかあたしがしばし考えてしまうと、真宮くんはちょっとむくれた顔になった。
「別に、家の場所知ったからって何もないし」
「あ……ごめん。いろいろあったもんだから」
「二年のときなー」
 真宮くんはさらりと言って、「……ん、まあ」とあたしはあまり思い出したくないから口調と視線がぎこちなくなる。真宮くんはそんなあたしを見つめたあと、「佐内、完全に学校来なくなってよかったな」とややまじめな声になった。あたしは顔を上げる。
「佐内くん、学校来てないの?」
「みたいだな。今はあいつ、校外ですっげえ荒れてるらしいぞ」
「そうなの」
「高校にも行かないんじゃねって話。そんな破滅するぐらいなら、最初からバカなことしなきゃいいのにな」
「……うん」
 あたしは睫毛を半分伏せる。佐内くんは、もしかしたら、最初から女の子だったら優しい人だったかもしれない。紗琴はそんなことを言っていた。
 ほんとに、そうだったのかもしれない。好きになっていたから、佐内くんはどうしても紗琴を受け入れられなかった。壁を乗り越えられない自分が悔しくて、挙句は紗琴の性を逆恨みして──だからあの人は、あんなひどいことに走ってしまったのだろうか。
「というか、日向といえば、暮村と歩いてるの見たって奴が友達にいるんだけど」
「ああ、あのふたり、つきあいはじめたんだ」
「マジで!?」
「あっ、無駄に言いふらすのはやめてあげてよね。ふたりとも、はやし立てられるのとか苦手そうだし」
「マジかー。うわー。やっぱそうなったかー」
 真宮くんは自転車のハンドルにぐったりつぶれてしまう。露骨な落胆ぶりに、思わずくすりと笑みがこみあげる。
「へこむ?」
「……へこむわ」
「紗琴のこと、そんなに本気だったんだ」
「本気っつーか、初恋かなあ」
「………、ここだけの話さ、あたしの初恋は暮村くんで」
「はっ? 何それ。泥沼?」
「一年のときに振られてる。紗琴もそれ知ってる」
「えー、でも複雑だろ」
「そうでもないんだよね。暮村くんは紗琴が好きなんだなあって、二年のときに察したし」
「何? 聖園って聖女なの?」
「バカにしてるの?」
「聖女は褒め言葉だろ」
「そう聞こえなかったけど……うーん、自分が好きになったくらいの人だから、紗琴を幸せにしてくれるという不思議な安心感があって」
「女ってもっとひがみっぽいかと思った」
「あたし、自分は紗琴には敵わないって思ってるもん」
「そうかな」
「普通はあたしより紗琴選ぶでしょ?」
「そうだな」
 正直に認めた真宮くんにあたしは噴き出し、「真宮くんも言ってたでしょ」と肩をすくめる。
「暮村くんには敵わないって」
「言った……か、うん。だってあいつイケメンだし、日向にも優しいし」
「紗琴だってかわいいし、暮村くんとつきあえて幸せなんだよ」
 真宮くんは眉を寄せて唸っていたものの、「何か、祝福するしかないってなるな!」と悔しげにハンドルをはたく。
「なるでしょ? あたしもそれだから。聖女じゃないから」
「そっか。あーあ、じゃあまあ、男子を代表して『おめでと』って言っとくわ」
「ありがと」
「ふーっ。これで吹っ切れて、高校生になったら彼女作れそうだな」
「真宮くんならすぐ作れるよ」
「そうか? 聖園も受験終わったら、いい男つかまえろよ」
「もちろん」
「っと、じゃあ引き止めてごめん。暗くなったな、大丈夫か」
「紗琴の家、すぐそこだから」
「っそ。そしたら、たぶん二学期に」
「そうだね。また」
 真宮くんは手を掲げ、体勢を正してから自転車のペダルを踏みこむと、あっという間に夜の闇に背中が見えなくなった。悪くない男の子だったなあ、と思うから、きっと彼は本当に紗琴くらいかわいい女の子とつきあえるだろう。あたしも負けてられないや、と思ってから、あたしは改めて紗琴の家に向かった。
 その日は例の作った用紙だけ渡して、「明日、一緒に勉強できる?」と紗琴も訊いてきたので、翌日に勉強することにした。帰宅すると、真宮くんと立ち話したあいだの汗をシャワーで流し、おとうさんも帰ってきたのでおかあさんに呼ばれて夕食を取る。
 寝る前に紗琴と軽くメッセをして、そのとき『明日聞いてほしいことがあるけど、いい?』と訊かれた。何だろ、と思いつつ、『何でも聞くよ。』とあたしは返信する。『ありがと。』という答えのあと間があって、『ごめん、寝そう』と送られてきたので、紗琴は午前中からデートしてきたんだと思い出し、『あたしも寝る。おやすみ。』と送信した。反応がないのは眠ってしまったのだろうと察し、あたしも寝よ、と明かりを消すと目を閉じた。

第十八章へ

error: