水鏡に映して-2

小さな初恋

「茉莉が好きなのかな」
 帰り道は、いつも紗琴と一緒だった。
 団地の中に入って、騒がしい同じ制服すがたがなくなって暮村くんのことを話すと、紗琴はそう言ってあたしを見た。植木の緑を揺らしてさわやかな初夏の風が流れる中、「はっ?」とあたしは声を裏返してしまう。
「いや、それは違うでしょ」
「どうして」
「あの人、けっこうモテてる感じだよ? あたしとかじゃなくていいでしょ」
「茉莉はかわいいよ」
「そんな──。というか、好きな人といえば、あたし思ったんだけど。紗琴って秋葉くんとは友達なの?」
「えっ」と紗琴は目を開き、みるみる白いなめらかな頬を染める。
「紗琴って、男子はどっちかといえば苦手だったのに」
「い、今までは、イジメてくる人ばっかりだったし。秋葉くんは違うから」
「………、何か、今ふっと思ったけど」
「うん?」
「みんなさ、紗琴が好きだったのかな」
「え」
「男子が紗琴をイジメてたのって、紗琴が──」
「そっ、それはないよ。みんな、『オカマで気持ち悪い』って」
「そうなのかなあ。紗琴が好きな女の子だからみんなでイジメてた気がしてきた。今は、そういうのない?」
「秋葉くんが、止めてくれる」
「ふうん?」
「そ、それだけだよ。そんな、……秋葉くんには気持ち悪いって思われたくない」
 息をついて背を伸ばすと、横目で紗琴を見つめた。その目に紗琴はうつむいて、瞳を潤ませている。
 ふたりで並んで歩いて、あたしはかばんを持ち直すと、繊細な親友を刺激しないように丁重に言葉を選んだ。
「紗琴は、男の子を好きになっていいと思う」
「……ダメだよ」
「紗琴は女の子なんだよ」
「………、茉莉以外、そうだって知らないし。認めないし。秋葉くんだって、好きとか言われたら──」
「好き」
「あ、いや、──とにかく、秋葉くんには男と思われてるんだから。ダメだと思う」
 青空から早くも照りつけてきている陽射しを、すっと初夏の風が切って涼しさが抜ける。アスファルトの匂いが夏に近い。
 紗琴はあたしを見つめ直した。
「茉莉は? その暮村くんって人のこと、どう想ってるの?」
「えっ。べ、別に」
「好きじゃないの?」
「何でっ。目が合うだけで、どんな人なのかも分かんないんだよ」
 強い語気で言ったせいか、「そうなんだ」と紗琴はやや臆面しながら食い下がらず納得した。そんなふうにされると逆にとまどい、つい、「気にならないことはないけど」と本音をこぼしてしまう。紗琴はあたしを映した瞳で、まばたきをする。
「うぬぼれだったら、恥ずかしいじゃん」
「目が合うのは確かなんでしょ?」
「と、思うけど。分かんない」
 今度はあたしが頬を上気させてしまう。それを見取った紗琴は微笑み、「応援するからね」と悪戯っぽい口調で言った。
 あたしはその瞳を見つめて、暮村くんの瞳を思い返す。何だかもやもやして、何とも返せなかった。けど、「あたしも紗琴を応援してる」とは言っておいた。
 すると、紗琴はちょっと臆し、そのうちあたしたちは、一緒に咲い出してしまった。
 きっとあたしは、暮村くんが気になっている。そして紗琴は、秋葉くんが気になっている。初めは上手に認めて話せなかったけど、次第にそれはあたしたちのあいだでだけ通じる恋の話になった。
 暮村くんを初めて見た紗琴は、「綺麗な人だね」とあたしににっこりした。あたしはなぜか頬を熱くさせてうつむき、そんなふうにしていると、やっぱり暮村くんの視線がちらりと来る。あたしは恥ずかしくて、くすくす咲っている紗琴に隠れた。
 中間考査が過ぎて席替えをしても、秋葉くんは紗琴を守ってくれているようだった。いつのまにか秋葉くんは、「日向は俺の友達だしな」とよく言うようになっていた。
 夜、あたしと紗琴はどちらかの家のベランダでよく一緒に月を見る。そのとき、「友達かあ……」と紗琴はつぶやいて、あたしの肩にゆったりもたれた。あたしはその頭を優しく撫で、「いつか話せるといいね」と静かに言った。
 そんなふうに励ましてきたあたしだったから、雨が増えて梅雨入りした日の休み時間、目の前に紗琴がいる教室で、何気ないノリで秋葉くんにこう言われたときは驚いた。
「俺が日向をかばうのは、俺が好きな奴が大事にしてる奴だからだぜ」
 あたしは、秋葉くんを見て止まった。紗琴も止まったと思う。そんなあたしたちに、秋葉くんがやけに照れて、「何だよっ」と紗琴の肩をばしっとたたいた。
「お前ら、つきあってないってこないだ言ってたじゃん。じゃあ、その──邪魔ではないだろ」
「あ、えと。うん……そ、そうだよね、茉莉」
「……あたし、は」
「茉莉はねっ、すごくいい子だよ。ほんとに──」
「やめてよ、紗琴」
「秋葉くんならきっと茉莉を、」
「秋葉くん、ごめん」
 心臓が吐き気で痛くて、声が震えそうだったけど、何とか早口に伝える。伝えなくては、紗琴の心が壊れる。
「あたし、気になってる人がクラスにいるから」
「茉莉」とさえぎろうとした紗琴をあたしは真剣に見つめた。
「あたしはあたしで、好きな人いるんだからしょうがないじゃない。それは紗琴も知ってるでしょ」
「ほんと、なのか。日向」
 紗琴は堅い声の秋葉くんを見上げる。秋葉くんも、めずらしくまじめなまなざしで紗琴を見る。紗琴は視線を取り落として、かなり躊躇ったけれど、苦しげにうつむいてからうなずいた。
 その瞬間、「あーっ」と秋葉くんは参ったような声を上げて、天井を向いて笑った。
「マジかー。そうだよなあ。俺とかないよなあ」
 紗琴の蒼い頬ばかり気になってまだ混乱しながらも、「ごめん」とあたしは秋葉くんに言う。
「いや、いいっていいって。分かってたし。そんな簡単に両想いなんてないよな」
「あの、紗琴とはこれからも」
「ああ、もちろんっ。そこはちゃんと仲良くする。ごめん、言わないほうがよかったな。ほんと悪かった。気にしないでくれな」
 引き攣って咲ったあと、まだ吐きそうな黒い動悸を覚えながら紗琴を見た。紗琴は顔を伏せ、かすかに睫毛を震わせている。
「紗琴……」
 あたしに呼ばれて紗琴は小さくこちらを見た。ごめん、と言いたかった。でも秋葉くんの前でそれを言っていいのか分からなかった。いや、たぶん言ってはいけなかった。紗琴はかすかに咲ったから。
 あたしは声を飲みこみ、チャイムが鳴ったのをいいことにその場を離れ、自分の教室に帰った。
 その日の帰り道は、薄暗く雨が降っていた。肌に絡みつく蒸した雨だった。雨音をはじく傘の下で、あたしはあのあとの授業中から変わらず、紗琴の気持ちを案じていた。紗琴は傘や前髪で表情を隠している。歩くたびに、ぴちゃんと濡れた足音が残っていく。
「紗琴」とやっとあたしが紗琴の名前を呼ぶと、紗琴は傘の柄を握りしめてから、つらそうな目を投げかけてきた。
「よかった、のに」
「えっ」
「秋葉くんがすごくいい人なのは、茉莉ももうよく知ってたでしょ。だから、つきあっても」
「な、何で。だって、あたしは暮村くんが」
「ほんとに?」
「え」
「暮村くんが好きだからって無理して、秋葉くんのこと断ったんじゃない?」
「そんなことないよっ」とさすがに立ち止まって言い切った。
「それはほんとにない。紗琴に遠慮したとか、そんなのも絶対にないよ」
 紗琴も一緒に立ち止まったけど、傘をかたむけて顔を隠している。紗琴の傘が受ける雨は、雫として流れては足元に落ちていく。
「ほんとに、あたしは、秋葉くんのことは考えられなかっただけ」
「……そう」
 紗琴の声は響きがなく、重苦しく暗かった。何だか、焦れったい気持ちがこみあげてくる。
 何で。何でこんなことに。よりよって、これはないじゃない。
 あたしは目をつぶって考えてから、手を伸ばして紗琴の細い腕をつかんだ。
「あたしは」
 夏服になって剥き出しの腕に、雨が冷たく跳ねる。
「あたしは、どうしたらよかったの? 暮村くんを忘れて、秋葉くんと無理してつきあえばよかったの?」
「……そうじゃない、けど」
「じゃあ──」
「友達でも、嬉しかったよ」
「えっ」
「でも、違ったんだね。秋葉くんは、茉莉の親友だから仲良くしてくれてただけだったんだね」
「……あ、」
「それはショック、かな」
 少し傘が動いて、紗琴の頬にひと筋が伝ったのが見えた。あたしは紗琴の腕をつかむまま、言葉を見つけられなかった。
 だって、何を言えばいいのだろう。何を言えば、あたしが紗琴を元気づけられるのだろう。紗琴の好きな人を振ったあたしの言葉なんて、紗琴にはすべて嫌味や高慢に聞こえないだろうか。
 でも、と唇を噛む。それでもあたしは、紗琴に何か言わなきゃいけない。親友だから、傷ついたこの子に何か言いたい。ぐるぐると考えて、やっと噛んでいた唇をほどくと、ゆっくり、あたしはあたしにでも言える言葉を発した。
「頑張る、から」
「……えっ」
 紗琴の肩が少し揺れる。
「あたし、暮村くんのこと、本気で頑張るから」
 紗琴は何も言わない。あたしは雨の匂いに深呼吸し、「だから」と声をつなぐ。
「紗琴には、それを応援してほしい」
 しばらく、雨だけが降っていた。けれど、紗琴はおもむろにこちらを向いた。大きな瞳がほろほろと雫を落としている。あたしはその瞳をじっと見つめ、約束を口にした。
「紗琴に応援してもらえるように、頑張る。だから──」
 紗琴はまだ涙をこぼしながらも、あたしにできることをあたしが懸命に考えているのを察し、弱く微笑した。
「応援する」
「……紗琴」
「ちゃんと応援するよ。しないとね。自分が失恋したからって、茉莉を応援しないのは違うよね」
 紗琴は腕をつかむあたしの手を取って、優しくつないでくれる。その手には、ほっと落ち着く温度がある。
「茉莉は一番の親友だもん。好きな人とつきあってほしい。そう思うよ」
「ほんと?」
「うん。秋葉くんも、別に失ったわけじゃないんだよね。友達ではあるんだよね」
「つらい、かな」
「平気。叶わないのは分かってたもん。それより、茉莉のおかげで仲良くしてくれたって思わなきゃね」
「紗琴にはきっとちゃんといるよ。もっと、いい男の子がいる」
「うん」
「そのときはあたしも紗琴を応援するから」
「ありがとう。嬉しい」
 あたしも紗琴の手をつなぎかえした。しとしと降る雨に表情をさらわれていくように、あたしまで泣き咲いになりかけていた。
 この子が、いつか、必ず素敵な男の子と幸せになりますように。そう願って微笑むと、紗琴は優しく微笑み返してくれる。
 大事な親友の紗琴。この子が女の子として幸せになる日。その日のほうが、あたしは自分が幸せになる日よりも待ち遠しい気がした。

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